Lv.5
『どこから来たかも分からぬ奴に地位を取られるなど……』
『何か裏があるに違いない。狡猾な童だ』
『此奴がどんな武功を上げ、知に長けていても英雄と呼ばれることなど一生無い』
下品な笑い声が自分に降り掛かっている。こんな自分を可哀想だなんて思うはずがない、私はただの田舎の民だったのだから。
あまりの気だるさに目を閉じると、走馬灯なのか夢なのか、今までの記憶が甦ってきた。
――私が小さな村に生まれて直ぐに村が滅ぼされた。その時はちょうど国との約束をこの村が破った後だった。
『お前は今日から此処で死ぬまで働くんだ。もしも時間を破ったり、大した成果も挙げられなければ……分かっているな』
その後は一応別の村で比較的裕福だった家に引き取られたが、散々な目に遭った。今だって背中には痣だったりぐずぐずになった傷がある。湯浴みをする度に存在を思い知らされる。
それが嫌だから石や木を詰んでは運んでいた手に筆を収め、空っぽだった頭に底のない知を無理やり詰め込んだ。
けれどそれでは胸を突かれて終いだと思ったから独学で武術も自分のものにした。
だからこの地位に置いて貰えたのだ。これで、やっと私は解放される、知を欲した誰かに心から必要とされる。……そう思っていたのに。
『此奴さえいなくなれば……』
途端に、口の中に鉄の味が流れた。どんな食物の味よりも舌に馴染んだ自分の血の味の様な気がした。吐き出したら余計殴られ蹴られるから、無理に飲み込む。
不思議と痛みは感じないのに、弱い自分は何故か泣いている。私は、私はただ……誰かに名前を呼ばれて、撫でられて、褒められる。そんな誰もが体験していそうなことをして欲しかっただけなのに。
「……大丈夫?」
自分の頬に居座る涙が段々生温かく感じてきた。今までどう感じていたんだっけ。
「えっと……まだ寝てるのか」
――――急に目が覚めた。原因ははっきり聞こえた誰かの声だろう。目には天井が映り、痛かったはずの体は暖かい何かに包まれていた。
何処だ此処は? 状況が飲み込みきれなくて起き上がろうとする……が、慣れない痛みで起き上がれなかった。
「い、たい……」
「あ、起きた? 大丈夫? ずっと魘されて泣いていたからよく分からなかったんだよ……ああ、喉乾いたでしょう、飲み物取って来るから逃げないでね」
「……は、い……?」
この人は、ああ、そうだ。私を助けてくれようとした? 人だ。何目当てかは知らないけれど。
逃げないでと言われたがまず酷い痛みのせいで起き上がることすらできない。
毒でも盛られたらと一瞬思ったが、それだとこの治療済みの体が矛盾してしまうのできっと殺されはしないのだろう。……また、奴隷にでもなるのだと思う。
「ごめんなさい遅れた! はい、どうぞ!」
「…………あ、の。その、私……」
「そうだ、こんな重傷で起き上がれって無理だよね。ほら、体重かけて……そう。じゃあ改めてどうぞ」
「ありがとう、ございます」
高級そうな器に入れられた澄んだ水を遠慮無く飲む。こんなに綺麗な水を飲んだのはいつぶりだろう。皇宮ではずっと濁った水を飲まされていた。
その様子を見て何を思ったのか、その人は嬉しそうに目を細め口角を上げる。
「……何が、目的ですか。……私、皇宮の大した情報も持っていないですし、奴隷として働ける体力もあまり有りません。なのに」
「服、血だらけでどうしようも出来なかったから捨てちゃったけど大丈夫?」
「え……? いつの間に、ここまで尽くされても、私は」
「あそこ凄い酒臭かったし生臭かったよね。気持ち悪くない? 吐きたかったら我慢せず吐いていいからね」
私に話す隙を与えないと言わんばかりに色々と話してくる。一体どうしてここまでしてくれるのだろう。
水を完全に飲み切ったのを確認して、その人は私をまた寝かせた。目線を寝台に向けると、それは皇宮でも位の高い人しか与えられない様な物だった。
けれど血がついているせいで価値が低くなってしまっている。あまりの申し訳なさに動かない体を無理矢理動かそうとすると、その人はとても優しい声で
「別に汚したくらいで怒らないよ。そうだ、服はきつくない? 急いで作らせたんだけど……大丈夫そうだね。治ったらまた買いに行こう」
「え、あの、私は……私は提供できるような情報もないです。いたって必要となる場面なんてありません。それなのに、何故……」
「それは簡単。従者が欲しいから、もしかしたらなってくれるかなあなんて思ったの。下心しかないから安心してよ」
従者? 私が? 私がこの人の従者になるのか? 何故、奴隷じゃないのか。役に立たないのに、何を期待しているのか。
どうせ役立たずって分かったらまた捨てられるんだ。今はこんなに尽くして貰えているけれど……嗚呼、怖い。怖くて仕方がない。
「……捨てるに決まってるのに」
「……あのねえ……そんなことばかり言う人にはきつい仕置きだよ」
そう言われて自然と体が強ばった。仕置きだなんて幅が広い。鞭で殴るのか、熱湯を背にかけるのか、切りつけるのか、はっきりしてくれないと心の準備ができな――
「――は?」
「どう? 全然知らない変な奴に抱きしめられるとか気持ち悪いでしょ。これから私のこと疑う度にこうやって……あれ」
「泣くくらい嫌だった? ごめんね」と言われて初めてまた泣いているのだと気づいた。そこに嫌という感情は一切無かった、寧ろ嬉しいという感情で占められていて。
「違……や、じゃないです。……よ、かったら、もう少しだけ、抱きしめていてくれませんか? 変ですよね、でも、ずっとこうされたかった……」
予想外だよ。そう笑って、名前も知らないその人は、起き上がれない私を支えながら、しばらくの間抱きしめてくれたのだ。