彼女、ヒカリという人間について
私としては、まず殺されることなく、次に腹を満たし、そのうち隙を見て逃げる算段だった。だが、存外ヒカリは私のことを気に入ったようで、十分な食事を与えてくれ、また他愛もないことをよく私に話しかけてきた。私がピーナツをかじれば「カゲリー」、私が丸くなってまどろんでいれば「カゲリ?」、私の脇腹の傷を見つけた時は「カゲリ!」と大声を上げた。庇護の意識が高まっているようで、なによりである。
ただし、人間に飼われる代償なのか、ねずみ取りごといきなり水浸しにされたり、おかしな粉を振りかけられたりと散々な目にも遭っている。「お風呂」「消毒」といった聞き慣れぬ言葉を使っていたが、どうせ大した意味ではなかろう。
ヒカリと暮らし始めて分かったことは、彼女が規則正しい生活を送っていないことである。昼まで寝ていることもあれば、ふらっと家を出ていったきり朝まで帰らないこともある。外からものを持って帰ってくることはよくあるが、持って出るものは大してない。そうして、部屋の中にはものが増え続け、魔窟は私が来た時よりもさらに魔窟然としてきた。もはや、私が入ってきた隙間がどこにあるのか、見当もつかない。
また、もう一つ分かったこととして、ヒカリはどうやら恋に破れたばかりのようであった。というのも、捕らわれてよりすでに二度、みっともなく泣き続けたことがあるからだ。
「シュンタロウはいいよな。私が貢いで、あんたは食って寝てるだけでさ」
「ヒゲなんか生やして。シュンタロウのそういうところもタイプなんだよ」
「いなくならないでよシュンタロウ。私が捕まえといてあげるんだから」
夜に顔を赤らめ、ふらついた足で帰宅したかと思うと、吐き気を催す臭い息を吹きかけながら、私のことを「カゲリ」ではなく「シュンタロウ」と呼ぶ。未練がましい口調が実にいやったらしく、シュンタロウが恋破れた相手の名だというのは容易に予測がついた。好きだった人間を、飼っている鼠と重ね合わせるとは、独特の感性の持ち主である。
そうしていよいよ一週も経つ。そろそろ傷もふさがり、逃げる機会を伺っていた。そんな折、ヒカリが大きな檻を持って帰宅したのである。
「ただいま、カゲリ。今日はお引越しだよ。今までずっとそんな狭いところでごめんね」
ばたばたと準備をしているヒカリの目は、生き生きと輝いている。そして、設置が終わったのち、檻の入り口の前でねずみ取りの入り口を開けた。檻とかごの間には、私一匹ちょうど通れるほどの隙間がある。
「ほら、新しいおうちに行きな。回し車も、今度買ってきてあげるからね、カゲリ」
隙間を見つけた私は、これ幸いと逃げようとした。しかし、ヒカリの顔をちらりと見たのが悪かった。ヒカリは何一つ疑うことなき少女のような目の輝きを持って私を見つめ、満面の笑みを咲かせたのであった。
「カゲリ、どうした? ほれほれ」
私が一瞬隙間から出ることを逡巡したとたん、ヒカリはかごと檻をぴったりとくっつけ、かごを揺すりはじめたのである。どうやら、私が檻に移ることを躊躇していると考えたようだ。不安定な足場の中で私は立っていることが出来なくなり、背中から檻に落ちた時にはもう檻の入り口はヒカリによって閉じられていた。
檻の中には砂が敷きつめられていて、背中から落ちても大して痛くない。しかし、逃亡の機会を失ったことは私の心に大きな痛みを残した。私としたことが、目の前の人間への同情という小事で、由依花との約束を果たしに行くという大事を見失ったのである。
しかし、そもそも考えてみれば、由依花が陽動を果たしたとして、私が滝緒家の近くにいなければその行動は無意味に終わってしまう。私がねずみ取りかごに引っかかった時点で、いや、その前、私が迷い鼠になった時点で、由依花の努力は無為に等しくなったのだ。いたずらに愛する鼠を危険に晒すなど、いっぱしの雄として許されるわけがない。
今さらながら自責をひしひしと感じて、そんな当たり前の義理すら鈍らせたこの一週の温い生活を憎んだ。だが、憎んだところでこの一週が取り戻せるわけでも、由依花が私を見直すわけでもない。過ぎたことは忘れ、次の一手を考えるべきである。
私は、新しく入れられた檻を調べはじめた。あちこちと動き回っていると、ヒカリが満足そうに声をかけてきた。
「広くなってカゲリも喜んでるみたいね。こんなにはしゃいじゃって」
ヒカリの顔を見上げると、やはり満面の笑みである。
はしゃいでいるわけではないが、久しぶりに駆けたり跳んだりできる広さはなかなかに快適だった。それでも、檻には違いなく、自由とは程遠い閉塞感があった。どこを探しても隙ひとつないこの檻から、自力で脱出するのは難しそうだ。
ともかく、今はどうすることも出来ない。私は腰を据えて機会を伺うことにした。それには、まず腹ごしらえである。
ちーうー。
私が鳴き声を上げると、ヒカリは嬉々としてサラミを棚から出してきた。
さらに一週が経ち、私の檻はいよいよ豪華になっている。ヒカリが「回し車」といったいつまでも駆けつづけられる器具や、水飲み場、寝床、果ては穴倉まで用意された。人間に作ってもらった方が早く快適な棲み処が出来ると知って、いささか衝撃を受けた。だが、この棲み処には一つだけチュダイになくてはならないものが欠けている。もちろん、自由だ。
幾度か、棲み処を作るためにヒカリが檻を開けたことがあった。喜び勇んで飛び出してみても、小さめの檻にすっぽりと収まるだけで、決して外には出られない。私はヒカリが楽しげに大きな檻に手を加えるのを、ヒゲをくわえて見ているだけである。それでも、私は見ることを怠らなかった。結果、檻の戸の開け方について知ることが出来た。あとは、誰かチュダイが通りかかってくれれば、戸を開けさせて出ることも可能、というところまでは、脱獄計画の成果を上げている。
だが、なにせここは入りこんだが最後、方向感覚を失わせる恐ろしい魔窟である。おそらく近くに住むチュダイからは危険視されているだろうから、誰かが通りかかるということも期待は薄いかもしれない。私は鬱々としながら、日々振る舞われるサラミやナッツを食べ、回し車で運動不足を解消していた。
こういった生活をしていると、なにが楽しく、なにが悲しいのか、だんだん分からなくなってくるもので、私もいつの間にか、由依花や亮雲のことを思い浮かべはしても焦ることがなくなっていった。こうして私が捕らわれている間に、きっとなんやかんややっているだろう、と、気楽なことばかり考えるようになり、代わりに、気にかかるようになったのがヒカリの振舞いである。
もともと、人間というのは我々チュダイの理解を越えた行動をすることが多いが、こうして常にそばにいると、その理解不能だった行動にも何かしら理由があることが分かってきたから面白い。最近は、そういったことを観察するのが楽しみである。
例えば、ヒカリは私に話しかける時だけでなく、時々部屋で声を発する。独り言ならば分かるが誰かに話しかけるように喋るものだから、初めは私も呆れたものだった。だが、最近分かったこととして、そのように喋る時は、必ず耳元になにか機械を添えるのだ。
「あ、もしもしー? 明日のサークルの例会、ちょっと都合悪くなっちゃったんだ。え? 別に、シュンタロウに会いたくないわけじゃないけど」
どうやら、あの機械のおかげで、遠くにいる他の人間と話すことが出来るのだろう、と、私は目星をつけている。人間のすることは、驚異に満ちている。
サークルの例会とやらに断りを入れたにもかかわらず、翌日ヒカリは一日中家にいた。万年床に寝そべりながら本を読んでいたり、散乱する袋や箱の位置を変えてみたりと、やる気のない時間をだらだらと過ごしている。そうして、ことあるごとに私を呆けながら眺めつつ、ため息をついては「おまえはいいなぁ」とつぶやくのだ。
ヒカリに居られては、私も逃げ出すための行動を取れない。檻の戸のかんぬきを尻尾で開けられないか試したかったが、仕方がないのでヒカリのことを見ながら、私もだらだらと過ごすことにした。
気づいたのは、常にヒカリが手にあの遠くの人間と話す機械を持っていることだ。たとえ両手を使う作業をするにしても、必ず目の届くところに置き、ちらちらと目をやっている。なにがそんなに気になるのかと思っていた矢先、機械が奇怪なうなり声を上げた。
私はあわてて檻の一番奥に跳びすさった。あれは機械ではなく生き物なのかもしれない。そうでなければ、勝手に声を上げ始めた理由がつかないではないか。もし、ヒカリが私を飼い始めたのが、己が慰みのためではなく、奴の餌にするためだとしたら、どうだ。得体の知れないなにかに食われるなんて、まっぴらごめんである。
そんな私の不安をよそに、ヒカリは持っていた箱を放り投げて奴の元に駆け寄った。おそるおそるヒカリの様子をうかがうと、彼女は奴を手に取り、指先で奴の腹を撫でていた。いよいよ私の命運も尽きたか、と震えあがっていたが、ヒカリはそのまま奴を耳元に当てた。
「も、もしもし……久しぶり」
ヒカリは奴を持っているのとは逆の手で、髪の毛をぐねぐねとねじった。
どうやら、奴はやはり生き物ではなく機械のようだった。触ることなく動く機械とは、人間も相当知恵が進んだらしい。無駄な心労にくたくたになって、私は寝床にうずくまった。
ヒカリの声は、いつもよりうわずりながら、ずっと聞こえてきた。
「うん、今日はいかない。予定があって。えっ、いや、今は家だけど。大丈夫、まだ時間あるし。ううん、バイトじゃなくって、えーと、そう、友だちと遊ぶんだ。え? ち、違うよー。もう、シュンタロウの知らない人。そういうんじゃないって。バーカ。もう」
どうやら、会話の相手は、あの恋破れた男、シュンタロウのようである。
「ううん。なにそれ。ちょっと待って、待って待っ……ベ、別にいいんじゃない。もうシュンタロウの彼女じゃないし。わっ私だって! 次の彼氏くらい……すぐに出来るし……」
ヒカリが涙目になっていることは、見なくても分かった。
もちろん、その日、ヒカリは誰とも遊びに行くことはなかった。
その翌日も、ヒカリは部屋の明かりをつけることもなく、漫然と布団の上で座りながら過ごした。もはや視線の先には常にあの機械があり、またあの機械が勝手にうなり出すのを待っているのは、ヒゲを見るよりも明らかである。
そうして機械にうつつを抜かしているのもよいが、私の食事について忘れてもらっては困るというものだ。何度か鳴き声を上げてみても、今日のヒカリはどうも反応が鈍く、棚からサラミを出したはいいものの自分で食べる始末だった。それでも鳴いているとまた立ち上がったので、今度こそ私にくれるのかと思いきや、なにか缶を取り出してサラミとともに中身を飲み始めた。
これでは飼われているメリットもない。私が諦めて回し車で少し体を動かした。疲れていったん眠りに落ち、ヒカリが正気に戻るのを待つつもりだった。
ちょうどひとっ走り終えて、寝床へ向かおうとした時である。ヒカリの気配が檻の向こうで動いたので、ようやく私のことを思い出したかと振り返った。
そこにいたのは、以前からときどき現れる、赤い顔をしたヒカリであった。このヒカリになるのは、外出から夜遅くに帰ってきた時だけかと思っていたのだが、どうやら間違いだったようである。
「なんだ、シュンタロウ。いたんじゃない」
ろれつが回らなくなりながら、吐き気を催すこの臭い息をたっぷりと吹きかけてくるこのヒカリは、どうにも私をシュンタロウと勘違いする。いつものことだったが、今日は特に目が据わり、物凄く鬼気迫るものがあった。檻の中でいることに感謝したくなったほどだ。
「なにさ、昨日新しい女ができたとか、知りたくもないのに教えてきたくせに。はあ? さっそくふられてあたしに泣きつきに来たんですかぁ?」
恐ろしく眉を吊りあげながら、恫喝するような口調でいったかと思うと、次の瞬間には満面の笑みをこぼす。
「えっへへぇ、そっかぁ。シュンタロウかわいいなぁ。あのね、あたしも好きだよ……」
あまりの変貌に私が身をこわばらせていると、いつの間にか檻の戸が開いていた。その次の瞬間には、ヒカリの手が私を鷲掴みにした。ここでの生活が始まって二度目の絶好の逃亡機会を、今度はヒカリへの恐怖で逸したのだった。
「もう離さないよ、シュンタロウ。一生一緒だよ。ずっと閉じ込めていてあげるね……」




