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脱鼠の如く  作者: 朝森雉乃
第一章:とんずら丈雲
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魔窟

 あたりの匂いを嗅ぐと、どうもきな臭さがある。まだうっすらとしか感じられないが、これは他でもない、ヒイクの匂いである。ヒイクの縄張りが近くにあるようだ。慎重に歩を進めないと、このままヒイクの真ん中へ単身乗り込んでしまうこともありうる。私は天を仰ぐと鼻をひくつかせた。

 腹の虫が、空腹に耐えかねてもう一度鳴き声を上げる。とにかく、まずは腹ごしらえをしなければならない。私はヒイクの匂いがあまりしない方へ進み始めた。そのうち、細い下水道に出れば、あとはそれをたどって人家に通じることもあろうと考えたのだ。

 我々チュダイにとって、また当然ヒイクにとってもであるが、食料の調達は大きな課題である。昔は木の実やみみずを掘り出して食べたらしいが、この関東という大都会、我々チュダイが好んでいた昆虫の類や果物が、そうそう地面に落ちていることはない。人間が勝手に木を切り倒したり、また実のならない木を植えたりして、地面にも石砂利を敷きつめてしまうものだから、頭の固い先祖達は飢え死に寸前まで追い込まれたという昔話をよく聞かせられる。

 だが、ある時点で、賢いチュダイが一匹出てきた。人間とて生物、何かものを食べているはずであり、それを我々が食べられないはずがないではないか、と、その賢いチュダイは考えたのだ。その時から、チュダイの食料事情は一変した。以来、すでに数百年、いや数千年の長きにわたり、我々は人間の備蓄している食料を頂戴することで栄華を極めてきたのである。

 そして今、私たち関東チュダイにとっては、もはやみみずよりもチーズ、木の実よりも米の方が口に合う。そういったものを調達するには人家に忍び込む必要があり、それには下水道をたどるのが一番都合がいいのだ。

 もっとも、厄介なのは、好き勝手に木を倒し土を石にした人間が、我々に食料を分けるのは嫌がることで、人間は「私たちが作った食べ物を盗む鼠どもめ」と息巻いて、様々な罠を仕掛けるようになった。はた迷惑な話である。むしろ盗まれたのは我々の本来の棲み処であって、それを少なくとも返してもらっているだけなのだ。正義はこちらにあり、人間に遠慮する必要はない。

 ようやく見つけた下水道をたどると、果たして食べ物の匂いもかすかにしてきた。思ったよりも早く食事にありつけそうである。私は罠に気をつけながら、匂いに導かれるまま、とある人家に潜り込んだ。


 家主はいないようだが、私は忍び込んだ途端に足を止めた。

 これまで何度も人家に忍び込んだことはあるが、これほどに雑然とした部屋は珍しい。床には袋や箱、あるいは、確かペットボトルと呼ばれるビンのようなものが散乱していて、なんと我々ですら食べられないほどに腐りきった得体のしれぬものまで転がっていた。

 整頓されている部屋には忍び込むことすら難しいが、こうも散らかりきった部屋では逆に目当てのものを探し当てるのが難しい。しばらく忍び込んだ入り口のところで考えたが、とにかく腹の虫には逆らえない、端から調べていくことにした。

 しかし踏み入れてみると、壁沿いに進んでいくことすら難しい散らかり様だった。壁だと思ったところが収納用の箱で、収納場所かと思ったところが寝床で、寝床だと思ったところがただの床である。床をまっすぐ進もうとすると、すぐ誤って空き箱の中に入ってしまうから、歩む方向は慎重に選ばなければならない。食べ物の匂いがぷんぷんとしているだけに、よだれまで垂れてきて気が急くばかりである。

 そうして部屋の半分も調べたと思ったところで、私が今調べたところは前も見たことがあることに気づいた。すっかり方向が分からない。もう一度落ち着いて、調べ直そうとしても、またすぐに自分が部屋のどのあたりにいるか分からなくなってしまう。ぎゅうぎゅうに膨れ上がった袋と袋の間をなんとか押し通ると、目の前はいきなり壁であった。おかしい、部屋の中心に向かっているつもりだったのだが。

 魔窟である。私はおぞけを振るった。人家と思ったここは、入った鼠をいつまでも惑わせる、まさに魔窟であった。ここは諦めて別の人家に行こうと思っても、入り口の方向に進んでみれば寝床の真ん中に飛び出してしまうのだからどうしようもない。とんでもないところに入ってしまった。これでは腹ごしらえどころではない。

 堂々巡りを繰り返しているうちに、ガチャコン、と大きな音が鳴った。はたと足を止めると、続いてもう一度ガシャコン、と音がする。そして床を揺るがす足音。とっさに近くにあった空き箱に身を隠したとたん、夕闇に包まれていた部屋が一気に昼のように明るくなった。この魔窟の主の帰宅である。

 人間は、魔窟をものともせず足を踏み鳴らす。袋が蹴っ飛ばされる音がして、私がいる箱の隣りの空き箱が踏みつぶされる音がした。尻尾の先まで総毛立っていると、ちょうど私から見えるところに、突っ伏すように人間が倒れ込んだ。

 その女は、泣き濡れていた。


 余談ではあるが、我々チュダイは人間の言葉というものが理解できる。

 これは、人から食べ物をくすねるようになって以来、営々と生活を共にしてきたからで、何がどこにあるか、どのような罠を仕掛けてあるか、そういった情報を正確に盗むためには、この耳を役立てた方が有利と気づいただけのことだ。実に長い間、人間とチュダイの共存関係は続いているわけで、もはや言葉の音と意味の繋がりについては、生まれつき身に染みついて理解できるようになっている。私とて例外ではない。

「結局、遊ばれたってことかしら」

 女は仰向けに転がり直すと、ぽつりと、宙に向かって言葉を吐き出した。その声音は、今にも千切れてしまいそうな絹糸が立てる音のように切ない。その後に続く嗚咽は、たった一人で自らの部屋にいる者が出すとは思えないほど、こらえてこらえた後、こらえきれなくなって漏れだしたように、静かな悲しみの連続であった。

 しかし、私に感傷に浸っている暇はない。女が悲しみで周りを見ていない今こそ、こんな足で踏まれれば潰れてしまう頼りない隠れ家から飛び出し、部屋から逃げださなくてはならない。私は音を立てないようにゆっくりと足を進め、箱の口から少しずつ鼻先を出した。

 ひげをぴくりと動かしてみる。女は天井を見つめながら動いていない。この調子で行けば気づかれることはないと判断した私は、忍び足で箱から抜け、近くの袋と袋の隙間に身をねじ込んだ。少し音を立ててしまったが、女の嗚咽も少しずつ大きくなってきた頃合いであったのが幸いして、どうやら聞かれていないようだった。私は安心して歩を進めた。

 いったい、人間、特に女は、チュダイやヒイクを見ると、まず金切り声を上げるというのがお決まりで、その次に半狂乱になるのが定番だ。金切り声を上げられたところで我々が怯むわけでもないのだが、あまりに大きな音が耳から入ると頭が痛くなる。勘弁してほしいものだ。読者諸賢も、今後鼠を見かけたら、どうか静かに悲鳴を上げてやってほしい。

 そんなことを考えながら袋をかき分けていたが、なにか妙である。そろそろ壁について良さそうなものなのに、一向に袋の森は終わる気配を見せない。そういえば、ここは魔窟であった、と思い出したが、時すでに遅かったのである。

 いつの間にか私の足は、床ではなく袋の一つを踏んでいた。そして、袋の森が途切れると同時に、足元からも地面は無くなり、私は空中に身を躍らせることになったのである。

 着地した場所は、なにやら温もりがある。まさかと思って上げた視線と、涙に濡れた女の目線が、真正面から絡まり合った。


 我が鼠生のうち、これほど気まずい瞬間があっただろうか。先ほどまで聞こえていた嗚咽はつと鳴りを潜め、女の双眸が私の顔をまじまじと見つめているのである。蛇に睨まれた蛙、いや猫に睨まれた鼠ではないが、私もただ女の顔をまじまじと見つめることしか出来なかった。そのまま、日が昇って暮れるまでそうしていたように思われたが、実際のところは呼吸一回分程であろう。ただでさえ白い女の顔色がさらに蒼白になり、ぽかりと開いた口は対比するように実に紅かった。

 一歩後ずさりをする。足元で女の胸がふわりとくぼむ。それがきっかけであった。

 耳をつんざく絶叫は、もはや金切り声とも言い表せない、とんでもない音であって、頭が痛くなるどころか、全身の骨が痛み、脇腹の傷が痛み、ひげの先までびりびりと痛み、とにかく何もかもが痛んだ。目は開けていられない、開いてもなにが見えているのか分からないのだ。天地は失せ、右と左は逆転し、前と後ろはごっちゃになる。そうして気づいた時にはむんずと胴全体を鷲掴みにされて、暴れる間もなく私は空を飛んでいた。いや、おそらく、飛んでいたのだろうと思う。というのも、その時私は全ての感覚が狂っていて、時間の経ち方さえもあやふや、周りを見たり感じたりする余裕はなかったのだ。思い出せるはずもない。それでもあの時を無理矢理思い出すに、おそらく五分ほど空を飛んでいたはずである。

 予期せぬ空中散歩のあと、全身の痛みがさらに増した。おそらくそれは壁にぶち当たり、それから床に落ちた衝撃によるものだと、朦朧とした頭の中で予想をつけた。

 足を踏み出す。床がくにゃりと綿のように柔らかい。いや、足に力が入っていないからそう感じるのである。床は固い。逃げねば。走ってみれば、走れる。このまま逃げるのだ。前足を出したら、次は後ろ足。逃げるのだ。前に。いや、後ろに? しかし、後ろとは何だ? 頭は混乱を極めた。とにかく足を動かしていた。どこへ向かっているかもわからない。周りの状況を確かめなければ。目を開けよう。開いた目に見えたのはサラミの欠片である。サラミ? 耳にまた金切り声が聞こえて、視界はまた真っ白に弾け飛ぶ。足は動く。逃げねば。サラミの匂いは前からするのだ。今見えたサラミだ。サラミに逃げれば右も左もない。

 サラミ? なぜ、私はサラミに向かって逃げているのだ?

 バシャン、と、鋭い音が聞こえて、私は我に返った。目の前にはサラミの欠片が転がっている。そのさらに向こうには、金網がある。金網はぐるりと私を囲っている。尻尾の方を見やれば、ばねで閉じた戸があった。

 嗚呼、なんという屈辱。私は、ねずみ取りにかかったのだった。


 バシャン、というねずみ取りの戸が閉じる音を境に、悲鳴はふつりと途絶えた。

 静けさの広がる魔窟で、ささやき声がこだまする。

「うそ? かかった?」

 かかりもしないと思っている罠なのだったら、いっそ仕掛けなければよい。私は女を逆恨みした。いったい、罠にかかった鼠というのは、そのまま殺されるというのが相場である。由依花とちゃんと恋仲になることも、亮雲に小粋な意趣返しをすることも叶わず、懐かしき父上とまみえることになろうとは。

 ひとしきり嘆息した後、毒を食らわばというやつで、目の前に転がっているサラミを前足でつかんだ。端をかじれば、久しぶりの肉に腹の虫も満足げである。どうせこれが最後の食事なのだ。存分に味わう義務があった。

 そうしてサラミをかじっていると、足元がぐらりと揺れ、景色が急に下に落ちてゆく。かごごと持ち上げられたのはすぐにわかった。ぐらぐらと動く床に酔いそうになっていると、私の鼻先の前に女の顔が現れた。

 さっきまで私を放り投げるほど嫌っていたくせに、かごにかかった途端こんな風に落ち着いているのだから不思議である。じっと睨んでやると、女も私をしげしげと見た。

「ねずみだ。でっかい」

 震えた声の中に一筋の可能性を見つけたのはこの時であった。この女、先ほどまでなにかに思い悩み、涙をこらえきれなくなっていた。私の不意の登場という混乱があったにしろ、心はまだ癒えていないはずである。悲しさ、寂しさに侵された者は、必ず誰かとその不安を分け合いたいと思うものだ。人間とチュダイという種族の壁こそあれ、私がその伴侶となることが出来れば、あるいは殺されないのではないか?

 とにかく、生き永らえるのであればなんでもする。それが「とんずら丈雲」の誇り高き生き様である。女の泣き濡れた瞳を見て、私は試す価値ありと判断した。

 目を潤ませて、女を見上げる。持っているサラミをちょっぴりかじり、下に置く。尻尾をくるっと巻く。怯えているように全身を震わせる。それから、ちょこちょこと小刻みに後ずさる。最後に、出来るだけ切ない声で、「ちう」と鳴いてみた。

 女の涙が一粒、ほおを伝った。洟をすする音。一度嗚咽が挟まり、口角が上向きになった。そして女の言葉を聞いた時、私は思惑が外れなかったことを確信した。

「ばかな子。ねずみって、意外とばかだね、ほんと」


 一世一代、知恵を振り絞って取った行動をばかと評されて、気分はよくない。それでも、ここで歯をむき出せば努力は水泡に帰す。私はもう一度「ちーう」と鳴いて、サラミに跳びついた。一心不乱にかじりついていると、ゆっくりとかごが下りる気配がする。

 かごを床に置いた女は、しゃがみこんで私をじっと見つめながらいった。

「ねずみって飼えるのかな。衛生的にはアウトだろうなー」

 雲行きが怪しくなる前に、もう一押しが必要なようだ。私はサラミの最後の一かけらを丸飲みした。喉に詰まり、息が苦しくなる。

 しかし、ここはサラミを食べ終えなければならない。目を白黒させながら、なんとかかけらを飲み下す。そして女にその潤んだ目を向け、「ちう、ちう」と鳴く。すると女は立ち上がって、その手にサラミが入ったビニールの袋を持って戻ってきた。

 ビニールの袋を見て跳ね上がらんばかりに身を寄せ、同時に恐怖を与えないよう、ひげと尻尾を萎れさせる。もはや、言葉を話せなくとも、意図を伝えることはたやすい。

 己が空腹を以て同情を引き、女に餌付けをさせることで保護欲を掻き立てる。まさに狙い通りである。たとえどんな関係であろうとも、一度食事を与えた者に抱く情は深いもの。ここでサラミを追加要求することで、女は私を飼いたくなるに違いないのだ。

 果たして、女はサラミを取り出して、金網のすき間から押しこんできた。なりふり構わずかじる姿を見せてやると、ついに女が微笑んだ。

「ねえ腹減りねずみさん、お名前は?」

 秤山丈雲である、と答えたが、人間には「ぢゅっちい」としか聞こえなかったに違いない。女は勝手に話を進める。

「そう、名前はないの。じゃあお姉さんがつけたげようか」

 名づけなど、生まれてこの方のことである。少々照れくさいが、人間の名をチュダイの私がもらうというのもなかなか乙なものだ。私は期待を込めて、こくりとうなずいてやった。

「へえ、こっちの言ってること、分かってるみたい」

 勘は鋭いようである。女は腕を組んで、天井を見上げた。そして、少しばかりの沈黙のあと、女は私に、我が鼠生二つ目の名を授けたのであった。

「じゃあ、私がヒカリだから、あなたはカゲ。ううん、カゲリ、ってのはどうかしら?」

 奇しくも、亮雲から逃げる私にはちょうど良い名ではないか。私はくるりと一回転して、ヒカリの声に同意した。

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