第072話:泥と煙草と、八千円の日当
ドオン、と鉄板に重い岩が激突したような衝撃が、両腕の筋肉を軋ませた。
「ぐッ!」
武田健太は奥歯を噛み締め、爪先を湿った玄武岩の地面にめり込ませた。
構えた大型タワーシールドの表面で、青黒い鱗に覆われた巨頭が荒い鼻息を吐き散らしている。
第13層『迷い岩の回廊』。
目の前にいるのは、中層手前の難所を徘徊する変異トカゲ『ロックシェル・リザード』だ。体長4メートル。硬質化した岩石甲殻を纏い、突進の破壊力は軽トラックに匹敵する。
「小野寺、右! 首の継ぎ目を叩け!」
「無茶言うな、皮が硬すぎて刃が入らねぇ!」
右側から回り込んだ前衛の小野寺が、ショートソードを斜めに叩きつける。
ギャリィッ、と甲高い金属音が洞窟内に反響し、火花が散った。刃が甲殻の上を滑り、浅い傷をつけるのが限界だった。
リザードが鬱陶しそうに太い尾を薙ぎ払う。小野寺が舌打ちしながらバックステップで間合いを取った。
その隙に、頭上の鍾乳石の影からキチキチと不快な羽音が響いた。
「おい、上から蝙蝠が降りてくるぞ! 三島、風で散らせ!」
「ちょ、ちょっと待ってください、いま詠唱集束を!」
後衛の三島が結晶の杖を構えて叫ぶ。
だが、手のひらサイズの吸血蝙蝠が3匹、タケの死角である左肩へ急降下してきた。
シールドを動かせば、正面のリザードの突進を支えきれなくなる。
「クソッ、動くんじゃねぇぞトカゲ野郎!」
タケは左肩の防護革を食い破られる痛みに顔を歪めながら、盾の裏側のグリップを力任せに押し込んだ。
ドッと腹の底から魔力を絞り出し、盾の面全体で強烈な前進圧をかける。シールドバッシュ。
リザードの巨体がわずかに浮き、足元がよろめいた。
「今だ、佐野! 喉元!」
「任せろ!」
岩陰から飛び出した斥候の佐野が、短弓を引き絞って魔導矢を放った。
ヒュン、と風を裂いた黒い矢が、跳ね上がったリザードの無防備な喉元の軟条部へ深々と突き刺さる。
リザードが短く痙攣し、巨体を地面へ叩きつけた。
その頭上へ、三島の放った風の刃がようやく着弾し、群がっていた蝙蝠の羽をもぎ取って地面へ落とした。
タケは右腰から引き抜いた魔導戦斧を両手で振り上げ、もがくリザードの首筋の継ぎ目へ全体重を乗せて叩き割った。
ドカッ。
鈍い骨の破断音が響き、トカゲの四肢が脱力した。
肉体が光の粒子となってゆっくりと空気中へ霧散していく。
その場に残されたのは、親指大の濁った魔石が2個と、砕けた甲殻の欠片だけだった。
「はぁ、はぁ、死ぬかと思った」
小野寺がその場にへたり込み、脂汗の浮いた額を腕で拭った。
三島も杖にすがって荒い息を吐いている。
「す、すみませんタケさん、詠唱が遅れて」
「いいってことよ。怪我人が出なかっただけ儲けもんだ」
タケは左肩の裂けた革鎧を軽く叩き、息を整えながら戦斧を腰のホルダーへ戻した。
盾の表面には、リザードの角で擦られた深い溝が何本も走っている。
時計の針は16時を回っていた。
「おい、魔石拾ったら撤収だ。これ以上潜ったら夜勤の連中と鉢合わせるし、ポーションも底をつく」
「賛成。胃が痛くてたまらん」
小野寺が立ち上がり、膝の土埃を払った。
タケは落ちていた2個の魔石を拾い上げ、腰の小袋へ放り込んだ。
ずっしりとした重みなど欠片もない。これが、命を懸けて潜った半日の成果だった。
*
地上へ戻り、第七外郭門のギルド出張所の換金窓口に並んだのは18時前だった。
くたびれた作業着姿の探索者たちが列を作り、カウンターの奥からは事務的な端末の打鍵音が途切れなく響いている。
「臨時パーティー、換金精算ですね」
窓口の職員が、トレイの上に置かれた本日の収穫を手早く検分していく。
親指大の魔石が5個、コウモリの魔核が3個、それにリザードの硬化甲殻や角の素材。
「魔石査定、合計4万円。素材買い取りが2万円。総額6万円になります」
職員から差し出された精算明細票を、タケと小野寺が覗き込んだ。
横から佐野が携帯端末の電卓を弾く。
「今日の出費いくらだ?」
「低級ポーションが3本で4500円。佐野の魔導矢が2本で1500円。ギルドの入場税と探索保険料が4人分で4000円」
「それと、俺の盾のコーティング補修だな」
タケが背中の大盾を指差した。
リザードの角で削られた表面を放置すれば、次の探索で簡単に割れる。出張所併設の簡易工房で魔導樹脂を塗り直すだけで、1万8000円は飛ぶ。
「経費の合計が2万8000円。差し引き、純利益が3万2000円か」
「4人で割ると、ちょうど1人頭8000円だな」
小野寺が乾いた笑いを漏らし、頭を掻いた。
「日当8000円か。まあ、赤字にならなかっただけマシか」
「骨が折れなかっただけ良しとしようぜ。駅前の大衆食堂で生姜焼き定食食って、銭湯入って寝るには十分だろ」
佐野が札をポケットにねじ込みながら苦笑した。
受け取った現金を、タケは仲間たちに均等に配り分けた。
タケの手元に残ったのは、千円札が8枚。
前衛タンクとして一番重い装備を背負い、最前線で爪や牙を受け止めて、手元に残る金がこれだ。
世間のニュースや配信では、Aランク探索者が一度の潜入で数百万円を稼ぎ、巨大企業のスポンサー料でタワーマンションに住む華やかな姿ばかりが流れる。
だが、全国に何万人といる探索者の9割以上は、DランクやEランクで泥水をすすり、怪我の治療費と防具の修理代で手取りを削られながら、その日暮らしを繋いでいる。
「じゃあなタケさん、また来週」
「おう、お疲れさん」
駅の前で小野寺たちと別れ、タケは一人、高架下へ向けて歩き出した。
*
20時過ぎ。
赤提灯が揺れる高架下の狭い路地に、焼き鳥の煙とタレの香ばしい匂いが立ち込めていた。
古びた縄暖簾をくぐった『大衆酒場 鳥よし』のカウンター席。
タケが大ジョッキの生ビールを煽り、ぷはっと息を吐き出したところへ、背後の引き戸がガラリと開いた。
「待たせたな」
入ってきたのは、見慣れた黒いフード付きパーカーにジーンズ姿の間宮凌だった。
仕事着の作業ツナギではなく、すっかり街に溶け込んだ私服姿だ。
「遅ぇよ凌。先に始めちまってたぞ」
「鈴を寝かしつけてから出てきたんだ。あいつ、布団に入ってから手を離さなくてな」
凌はタケの隣の丸椅子を引き、腰を下ろした。
店員に手を挙げ、瓶ビールとグラスを一つ頼む。
「子煩悩パパさん、ご苦労なこった。はいよ、お疲れさん」
運ばれてきた瓶ビールを凌のグラスに注ぎ、タケは大ジョッキを掲げた。
カチン、とガラスのぶつかる音が響く。
凌は冷えたビールを一口喉に流し込み、カウンターの上のモツ煮込みに箸を伸ばした。
「そっちはどうだったんだ。昼間、第13層に潜るって言ってただろ」
「聞くなよ。リザードに盾を削られて、蝙蝠に肩を齧られて、上がって清算したら手取り8000円ポッキリだ。笑っちまうだろ」
タケは苦笑しながら、タバコに火をつけた。
紫煙をくゆらせ、隣に座る悪友の横顔をじっと観察する。
下請け解体屋時代から、こいつとは数え切れないほどこの店で安酒を飲んできた。
だが、今の凌からは、かつて漂っていた「いつ野垂れ死んでも構わない」という刺々しい空気は綺麗に消え失せている。
代わりに、首筋から微かに漂う湿布の匂いと、右手の平に新しくできた固いマメが、タケの目に留まった。
「お前、深層へ行ってきたんだってな」
タケの低い問いかけに、凌は箸を止めずにモツを口へ運んだ。
「ギルドの窓口で長谷川さんが言ってたぜ。第31層行きの昇降シャフトに、間宮凌が単身で乗っていったって」
「ああ、潜ってきた」
「ギルドの掲示板じゃ、第33層で体長15メートルの削岩ベヒーモスが何者かに頭を撃ち抜かれて即死したって、探索者の間で持ちきりだぞ。『黒き狙撃手』だのなんだのって大騒ぎだ。お前、何か知らねぇか?」
タケが探るように視線を向けると、凌は枝豆の皮を小皿に放り、淡々と肩をすくめた。
「俺はただの解体屋だ。死骸から必要な関節を切り離して、残りの肉の山を前線部隊にくれてやっただけだ」
「やっぱりお前かよ」
タケは頭を抱え、深いため息とともに煙草の煙を吐き出した。
「50トンの山を前線にくれてやったって、お前な。あのクランの連中、ギルドで『命の恩人の黒髪の解体士を探してくれ』って涙目で大騒ぎしてたぞ。換金すりゃ数千万円の獲物だぞ、分かってんのか?」
「解体屋一人じゃ50トンなんて運べねぇよ。それに、俺が必要だったのは武器の材料と、17時の保育所の迎えだけだ。欲張って荷物を増やして、地上に戻るのが遅れたら本末転倒だろ」
凌のあまりにも平然とした物言いに、タケは呆気にとられたあと、腹の底から笑いが込み上げてきた。
「あっははは! 全くだ、お前のそういうとこ、下請け時代から何一つ変わってねぇな!」
タケはジョッキを傾け、残っていたビールを一気に飲み干した。
隣にいるこいつは、魔力変換効率がどうだとか、深層の主を一撃で屠っただとか、世間が騒ぎ立てるような大層な英雄気取りなど微塵もしていない。
ただ娘の待つ家に帰るために刃を振るい、定時退勤のために数千万円をあっさりと捨ててくる、筋金の入った職人のままだ。
「大将、ビールもう1本! それと焼き鳥のタレ、盛り合わせで!」
「おいタケ、食いすぎだろ」
「いいんだよ、今日の日当は全部ここで使い切ってやる。お前が深層から生きて帰ってきたんだ、祝杯くらい付き合えっての」
タケが笑いながら空のジョッキをカウンターに置いた。
高架下を通り抜ける列車の重低音が、店内の笑い声に重なって遠ざかっていく。
他愛のない愚痴と酒の匂いに包まれながら、夜はゆっくりと更けていった。




