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地蔵堂の鈴と、解体屋の黒い刃 〜保育所のお迎えに間に合わせるため魔獣を解体していたら、勝手に伝説の解体士と呼ばれていた〜  作者: 草むしり50年
第16章:奈落の果てと、変わらない「ただいま」編

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121/121

第121話:世界で一番温かい「ただいま」

 第七区から伸びる幹線道路を、俺は早足で駆け抜けていた。


 西の空は深い茜色に染まり、立ち並ぶタワーマンションのガラス壁が夕日を反射して金色に輝いている。

 肌を撫でる風は冷たく、街の空気は澄み渡っていた。


 街頭の大型モニターからは、ピラーの警報全面解除を告げるニュース音声が微かに流れていた。

 歩道を行き交う市民たちは、重苦しい空気が消え去った空を見上げ、安堵の息を漏らしている。

 スーパーの前には夕飯の食材を買い求める家族連れが並び、子供たちの笑い声が風に乗って響いていた。


 誰も、俺がわずか数十分前に地下60層の心臓を解体してきたことなど知らない。

 それでよかった。

 俺が守りたかったのは、このどこにでもある、名もなき日常そのものだった。


 手首のアナログ時計を確認する。


 長針が59分を指していた。

 俺は歩幅を広げ、街角を曲がった。


 通り沿いに建つ、温かい電球色の照明が灯る平屋の建物。

 新西東京特区の認可保育所だった。


 玄関のガラス戸の前で足を止め、大きく息を整えた。

 タクティカルスーツの襟元を正し、肩についた微かな埃を手で払い落とす。


 ピン、ポン、パン、ポン。


 ちょうど17時を告げるチャイムが、建物の中から響いた。

 カチャリと静かな解錠音が鳴り、玄関の自動ドアがゆっくりと横にスライドした。


 その瞬間だった。


 ちりん、ちりん。


 奥の廊下から、澄んだ金属の音が響いた。

 硬質で、軽やかで、どこまでも優しい真鍮の音色。


 下駄箱の角から、小さな人影がひょっこりと顔を出した。

 黄色いスモックを着て、背中には小さな通園リュック。

 そのストラップに結ばれた真鍮の鈴が、小さな身体の揺れに合わせて軽快に鳴っていた。


 俺の姿を認めた瞬間、愛娘の小さな顔全体が、パッと花が咲いたように綻んだ。


「ぱぱ!」


 小さな口から、弾けるような歓声が上がった。

 鈴は短い両手をいっぱいに広げ、ペタペタと床を蹴って全力で駆け出してきた。


 俺は膝を折り、玄関の冷たいタイル床に腰を沈めた。

 両腕を限界まで大きく広げて、その突進を真正面から受け止める準備をした。


 ドフッ!


 小さな、けれど確かな重みを持った温もりが、俺の胸元へと勢いよく飛び込んできた。

 衝撃で俺の背中がわずかに揺れたが、膝は床から1ミリも動かなかった。


 柔らかな黒髪、日なたの匂い、ベビーソープの甘い香り。

 鈴の両腕が、俺の首元にぎゅっと力いっぱいに巻きついた。


「ぱぱ! おかえり!」


 耳元で響いた、はっきりとした、一点の曇りもない言葉。

 鈴の小さな頬が、俺の首筋にすりすりと擦りつけられた。


 喉の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなった。

 胸ポケットの中の冷たい金属の鈴が、愛娘の小さな体温に温められていくのを感じた。


 30年の間、誰も戻ってこられなかった最深部の闇。

 空間を切り裂く熱線と、幾万光年の星々の記憶。

 そのすべてが、いま腕の中にいるこの小さな命の重みの前に、綺麗さっぱり霧散していった。


「ああ。ただいま、鈴」


 俺は鈴の小さな背中を、両腕でしっかりと抱きしめ返した。

 二度と離さないように、壊れ物を包み込むように、優しく、けれど力強く。


「ただいま。待たせて悪かったな」

「ぱぱ!」


 鈴は満足そうに声を上げ、俺の首にしがみついたまま、小さな手で俺の頬をペタペタと叩いた。

 無事を確認するかのような、愛おしい仕草だった。


「ふふっ、本当に鈴ちゃんはお父さんが大好きですね」


 廊下の奥から、エプロン姿の担任の保育士さんが、連絡帳を手に微笑みながら歩み寄ってきた。


「今日はずっとお利口さんにしてたんですよ。お外遊びのときも、おやつのときも、玄関の方を見ては『まってる!』って、お父さんが来るのを信じて待っていました」

「先生、いつも本当にありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」


 俺は鈴を抱き上げたまま、先生に向けて深々と頭を下げた。


「いえいえ、とんでもありません。お父さん、今日はお仕事大変だったんじゃないですか? なんだか街中が騒がしかったですけれど」

「ええ、まあ、ちょっとした現場の片付けでした。無事に定時で終わりましたので」


 俺が苦笑いすると、先生は優しく頷いて鈴の頭を撫でてくれた。


「よかったですね、鈴ちゃん。お父さんと一緒に、おうちに帰れますよ」

「かえる!」


 鈴が元気よく返事をして、通園リュックを揺らした。


 先生に挨拶を済ませ、俺は鈴を床に下ろした。

 鈴は小さな靴を一生懸命に足先でトントンと整え、俺の顔を見上げて右手を差し出してきた。


 俺は自分の大きな左手を差し出し、その小さくて温かい5本の指を、そっと包み込んだ。

 ぎゅっ、と鈴の小さな手が、俺の指を握り返してくる。


 保育所の玄関を出ると、夕暮れの街はすっかり紫色の帳に包まれ始めていた。

 西の地平線にわずかに残る茜色の光が、舗道の上に二人の影法師を長く伸ばしている。


 コツ、コツ、と俺のブーツの音。

 ペタ、ペタ、と鈴の小さな靴の音。


 歩調を鈴の小さな歩幅に合わせ、俺たちは並木道をゆっくりと歩き出した。


 ちりん。ちりん。


 鈴が歩くたびに、リュックの真鍮の鈴が澄んだ音を立てる。

 それに合わせて、鈴が機嫌よさそうに声を弾ませた。


「ちりん!」

「そうだな、いい音だな」


「ぱぱ、ちりん!」

「ああ、パパのポケットにも入ってるぞ」


 俺が胸ポケットの上から指で軽く弾くと、ポケットの鈴も小さく応えるように鳴った。

 鈴はその音を聞いて、満面の笑顔を咲かせた。


「あるく!」

「ああ、歩こうな。一歩ずつ、家までな」


 鈴は誇らしげに胸を張り、小さな足でしっかりとアスファルトを踏みしめて歩いた。

 前はすぐに抱っこをせがんできた小さな身体が、確実に、自分の足で前へと進んでいる。


 俺は夕暮れの空を見上げた。

 かつて不気味な赤い魔素の渦を立ち昇らせていた東京ピラーの影が、西の空に静かに佇んでいた。


 もはや街を脅かす牙はない。

 ただの静かな鉄の柱として、夕闇に溶け込んでいた。


「鈴、今夜はお祝いだぞ」


 歩きながら、俺は愛娘に話しかけた。


「志保さんや、陽菜ちゃんと芽依ちゃんも来る。葵も雫も来るし、タケや親方たちも来るかもしれない。みんなで大鍋を囲むぞ」

「んまー!」


 鈴が即座に反応し、小さな両手をパチパチと叩いた。


「おいし!」

「ああ、美味いぞ。親方から最高級の肉を貰ったんだ。野菜もいっぱい入れて、お前が大好きな柔らかい煮込みにしてやるからな」


「あむ!」

「そうだな、いっぱい食べような」


 坂道に差し掛かると、鈴の弾む足取りが、ふっと重くなった。


 俺はしゃがみ込み、その小さな体をそっと抱き上げる。腕に伝わる重みは、記憶にあるよりずっしりと、そして途方もなく暖かかった。奈落の底でどれほど手を伸ばしても届かなかった温もりが、今、確かにここにある。


 鈴はむずがりもせず、俺の肩に小さな頬を預けると、「ふぁ」と眠たげなあくびをひとつこぼした。リュックの真鍮の鈴が、その拍子にちりんと優しく鳴り、夕暮れの風が、二つの音を静かに攫っていった。


 何万光年の星々の海も、失われた超古代の文明も、俺には関係ない。

 俺の腕の中にあるのは、この小さくて温かい重みと、これから帰る温かい我が家の食卓だけだった。


 ちりん、ちりんと鈴の音を響かせながら、父と娘は、光の灯るタワーマンションへ向けて歩き続けた。


 (完)


これにて物語は終了となります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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