第121話:世界で一番温かい「ただいま」
第七区から伸びる幹線道路を、俺は早足で駆け抜けていた。
西の空は深い茜色に染まり、立ち並ぶタワーマンションのガラス壁が夕日を反射して金色に輝いている。
肌を撫でる風は冷たく、街の空気は澄み渡っていた。
街頭の大型モニターからは、ピラーの警報全面解除を告げるニュース音声が微かに流れていた。
歩道を行き交う市民たちは、重苦しい空気が消え去った空を見上げ、安堵の息を漏らしている。
スーパーの前には夕飯の食材を買い求める家族連れが並び、子供たちの笑い声が風に乗って響いていた。
誰も、俺がわずか数十分前に地下60層の心臓を解体してきたことなど知らない。
それでよかった。
俺が守りたかったのは、このどこにでもある、名もなき日常そのものだった。
手首のアナログ時計を確認する。
長針が59分を指していた。
俺は歩幅を広げ、街角を曲がった。
通り沿いに建つ、温かい電球色の照明が灯る平屋の建物。
新西東京特区の認可保育所だった。
玄関のガラス戸の前で足を止め、大きく息を整えた。
タクティカルスーツの襟元を正し、肩についた微かな埃を手で払い落とす。
ピン、ポン、パン、ポン。
ちょうど17時を告げるチャイムが、建物の中から響いた。
カチャリと静かな解錠音が鳴り、玄関の自動ドアがゆっくりと横にスライドした。
その瞬間だった。
ちりん、ちりん。
奥の廊下から、澄んだ金属の音が響いた。
硬質で、軽やかで、どこまでも優しい真鍮の音色。
下駄箱の角から、小さな人影がひょっこりと顔を出した。
黄色いスモックを着て、背中には小さな通園リュック。
そのストラップに結ばれた真鍮の鈴が、小さな身体の揺れに合わせて軽快に鳴っていた。
俺の姿を認めた瞬間、愛娘の小さな顔全体が、パッと花が咲いたように綻んだ。
「ぱぱ!」
小さな口から、弾けるような歓声が上がった。
鈴は短い両手をいっぱいに広げ、ペタペタと床を蹴って全力で駆け出してきた。
俺は膝を折り、玄関の冷たいタイル床に腰を沈めた。
両腕を限界まで大きく広げて、その突進を真正面から受け止める準備をした。
ドフッ!
小さな、けれど確かな重みを持った温もりが、俺の胸元へと勢いよく飛び込んできた。
衝撃で俺の背中がわずかに揺れたが、膝は床から1ミリも動かなかった。
柔らかな黒髪、日なたの匂い、ベビーソープの甘い香り。
鈴の両腕が、俺の首元にぎゅっと力いっぱいに巻きついた。
「ぱぱ! おかえり!」
耳元で響いた、はっきりとした、一点の曇りもない言葉。
鈴の小さな頬が、俺の首筋にすりすりと擦りつけられた。
喉の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなった。
胸ポケットの中の冷たい金属の鈴が、愛娘の小さな体温に温められていくのを感じた。
30年の間、誰も戻ってこられなかった最深部の闇。
空間を切り裂く熱線と、幾万光年の星々の記憶。
そのすべてが、いま腕の中にいるこの小さな命の重みの前に、綺麗さっぱり霧散していった。
「ああ。ただいま、鈴」
俺は鈴の小さな背中を、両腕でしっかりと抱きしめ返した。
二度と離さないように、壊れ物を包み込むように、優しく、けれど力強く。
「ただいま。待たせて悪かったな」
「ぱぱ!」
鈴は満足そうに声を上げ、俺の首にしがみついたまま、小さな手で俺の頬をペタペタと叩いた。
無事を確認するかのような、愛おしい仕草だった。
「ふふっ、本当に鈴ちゃんはお父さんが大好きですね」
廊下の奥から、エプロン姿の担任の保育士さんが、連絡帳を手に微笑みながら歩み寄ってきた。
「今日はずっとお利口さんにしてたんですよ。お外遊びのときも、おやつのときも、玄関の方を見ては『まってる!』って、お父さんが来るのを信じて待っていました」
「先生、いつも本当にありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」
俺は鈴を抱き上げたまま、先生に向けて深々と頭を下げた。
「いえいえ、とんでもありません。お父さん、今日はお仕事大変だったんじゃないですか? なんだか街中が騒がしかったですけれど」
「ええ、まあ、ちょっとした現場の片付けでした。無事に定時で終わりましたので」
俺が苦笑いすると、先生は優しく頷いて鈴の頭を撫でてくれた。
「よかったですね、鈴ちゃん。お父さんと一緒に、おうちに帰れますよ」
「かえる!」
鈴が元気よく返事をして、通園リュックを揺らした。
先生に挨拶を済ませ、俺は鈴を床に下ろした。
鈴は小さな靴を一生懸命に足先でトントンと整え、俺の顔を見上げて右手を差し出してきた。
俺は自分の大きな左手を差し出し、その小さくて温かい5本の指を、そっと包み込んだ。
ぎゅっ、と鈴の小さな手が、俺の指を握り返してくる。
保育所の玄関を出ると、夕暮れの街はすっかり紫色の帳に包まれ始めていた。
西の地平線にわずかに残る茜色の光が、舗道の上に二人の影法師を長く伸ばしている。
コツ、コツ、と俺のブーツの音。
ペタ、ペタ、と鈴の小さな靴の音。
歩調を鈴の小さな歩幅に合わせ、俺たちは並木道をゆっくりと歩き出した。
ちりん。ちりん。
鈴が歩くたびに、リュックの真鍮の鈴が澄んだ音を立てる。
それに合わせて、鈴が機嫌よさそうに声を弾ませた。
「ちりん!」
「そうだな、いい音だな」
「ぱぱ、ちりん!」
「ああ、パパのポケットにも入ってるぞ」
俺が胸ポケットの上から指で軽く弾くと、ポケットの鈴も小さく応えるように鳴った。
鈴はその音を聞いて、満面の笑顔を咲かせた。
「あるく!」
「ああ、歩こうな。一歩ずつ、家までな」
鈴は誇らしげに胸を張り、小さな足でしっかりとアスファルトを踏みしめて歩いた。
前はすぐに抱っこをせがんできた小さな身体が、確実に、自分の足で前へと進んでいる。
俺は夕暮れの空を見上げた。
かつて不気味な赤い魔素の渦を立ち昇らせていた東京ピラーの影が、西の空に静かに佇んでいた。
もはや街を脅かす牙はない。
ただの静かな鉄の柱として、夕闇に溶け込んでいた。
「鈴、今夜はお祝いだぞ」
歩きながら、俺は愛娘に話しかけた。
「志保さんや、陽菜ちゃんと芽依ちゃんも来る。葵も雫も来るし、タケや親方たちも来るかもしれない。みんなで大鍋を囲むぞ」
「んまー!」
鈴が即座に反応し、小さな両手をパチパチと叩いた。
「おいし!」
「ああ、美味いぞ。親方から最高級の肉を貰ったんだ。野菜もいっぱい入れて、お前が大好きな柔らかい煮込みにしてやるからな」
「あむ!」
「そうだな、いっぱい食べような」
坂道に差し掛かると、鈴の弾む足取りが、ふっと重くなった。
俺はしゃがみ込み、その小さな体をそっと抱き上げる。腕に伝わる重みは、記憶にあるよりずっしりと、そして途方もなく暖かかった。奈落の底でどれほど手を伸ばしても届かなかった温もりが、今、確かにここにある。
鈴はむずがりもせず、俺の肩に小さな頬を預けると、「ふぁ」と眠たげなあくびをひとつこぼした。リュックの真鍮の鈴が、その拍子にちりんと優しく鳴り、夕暮れの風が、二つの音を静かに攫っていった。
何万光年の星々の海も、失われた超古代の文明も、俺には関係ない。
俺の腕の中にあるのは、この小さくて温かい重みと、これから帰る温かい我が家の食卓だけだった。
ちりん、ちりんと鈴の音を響かせながら、父と娘は、光の灯るタワーマンションへ向けて歩き続けた。
(完)
これにて物語は終了となります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




