第115話:独り、最果てへ
早朝の澄んだ光が、タワマンの玄関ホールに差し込んでいた。
黄色い通園リュックを背負った鈴が、お気に入りのクマのスモックの裾を両手でぎゅっと握りしめていた。
リュックの横に結ばれた真鍮の鈴が、鈴の小さな体の揺れに合わせて、チリン、と澄んだ音を立てる。
「鈴。パパ、仕事に行ってくるな」
俺が膝をついて視線を合わせると、鈴は大きな黒い瞳をまっすぐに向けてきた。
以前のように服の裾を引いて泣きそうな顔をすることは、もうなかった。
小さな胸を張り、力いっぱいに右手を振った。
「ぱぱ!」
「ばいばーい!」
はっきりと響いた愛娘の声に、俺の胸の奥が温かい熱で満たされた。
お隣のエプロン姿の早川志保が、鈴の肩に優しく手を添えながら微笑む。
「間宮さん、後ろのことは全部任せて。夕方には美味しい煮込みハンバーグを作って、三人で待ってるわ」
「ありがとうございます、志保さん。行ってきます」
俺は深く頭を下げ、踵を返した。
エレベーターの扉が閉まる瞬間まで、鈴の「ばいばーい!」という声と小さな鈴の音が廊下に響いていた。
*
午前7時。地上第7区の緊急連絡シャフト前には、すでに仲間たちが勢揃いしていた。
タケの大盾、坂東のヴァーサタイル・リグ、一条の道着と手甲、葵と雫の携行端末。
昨日のうちに補給と点検を完璧に済ませた装備が、冷徹な光を放っていた。
「間宮、全員準備完了だ」
タケが短く告げた。
俺たちは無言で重装甲昇降ケージに乗り込み、深度5,000メートルの第55層前進拠点キャンプへと一気に急降下した。
強固な防衛テントが展開されたキャンプに到着すると、坂東が背嚢から特殊な予備パーツを取り出した。
「小僧、これを持っていきな。V-RIG用に開発した超高張力ワイヤーと、岩盤打ち込み用のミニアンカーだ。何かの役に立つかもしれねえ」
「受け取るよ、坂東」
続けて葵が、手のひらサイズの薄型金属プレートを差し出してきた。
「アルス・テック社が試作した、高密度エーテルバッテリーの最終予備です。現場での急速給電回路を組み込んであります。レイヴンが限界を迎えた時、必ず力になります」
「助かる、葵」
雫もタブレットを操作し、俺の端末へ最新の波形データを同期させると、小型の位相キャンセラーを手渡した。
「先生、第58層最深ゲート周辺の歪曲フィールドの波長解析ログです。不可逆重力の位相パルスを相殺できるよう、アキュラの励起回路に干渉用プリセットデータを入力し、この位相キャンセラーにも同じ補正波形を焼き込んであります。どうか、ご無事で」
「ありがとう、雫」
最後に、一条岳が前に出た。
黒鉄の手甲を嵌めた拳を、俺の胸元へトンと軽く突き当てる。
「語るべき言葉はない。お前の刃が、我々の切り拓いた路の終着点だ。必ず戻ってこい、間宮」
「ああ。終わらせて、定時に戻る」
俺は全員と固く視線を交わし、第55層の防衛キャンプを背にした。
第56層、第57層の重力断層を迷いなく駆け抜け、再び到達した第58層『星霜の回廊』。
漆黒の金属ブロックが整然と並ぶ静寂の回廊を走り抜け、最奥に聳える巨大な二重黒鉄門扉の前へと立つ。
雫から託された位相キャンセラーを門扉の操作パネルに押し当て、微細魔力パルスを流し込んだ。
ズオオオオッ、と重々しい地鳴りとともに、二重の黒鉄門扉が左右へとスライド展開した。
その向こう側で渦巻く、光すら呑み込む垂直降下の暗黒奈落。
俺は息を深く吸い込み、背嚢のレイヴン4基を起動させた。
「行くぞ」
躊躇することなく、俺はその深淵の闇へと身を投じた。
*
激しい重力加速度が全身を押し包んだ直後、フッとすべての方向感覚が消失した。
落ちているのか、浮き上がっているのか。
上も下も、右も左も存在しない、完全な無重力と狂気の歪曲が交錯する世界。
深度5,500メートル、第59層『反転の虚空』。
視界に広がるのは、果てしない漆黒の宇宙のような空間だった。
その暗闇の中に、超古代の建造物の残骸と思われる巨大な黒曜石の幾何学ブロックや、鏡面金属の破片が無数に浮遊していた。
大気は絶対零度に近い冷気を帯び、魔素が白銀の霧となって空間を漂っている。
ピピッ、と端末のアラートが鳴った。
【警告:重力ベクトル連続反転。周期0.8秒ごとに方向転換】
通常の人間であれば、三半規管が狂乱し、全身の内臓が揺さぶられて数秒で失神する極限の環境圧。
だが、俺は魔力変換効率92パーセントの微細循環を即座に全身の神経系へと行き渡らせた。
腰の『天鷲』の柄に手を添え、背部スラスターに極小の魔力を流し込む。
目の前に漂ってきた幅10メートルほどの金属ブロックの表面を、ブーツの爪先で鋭く蹴った。
ドンッ、と反動を利用して体を捻り、反転する重力ベクトルの波に乗る。
落ちるのではなく、泳ぐのでもない。
歪んだ空間の傾斜をコンマ数秒単位で見極め、推進力へと変換して三次元の虚空を跳ぶ。
その時だった。
音もなく、前方の浮遊ブロックの影から、空間そのものが裂けるようにして黒い影が這い出してきた。
輪郭が曖昧に揺らめく、人型に近い異形の迷宮種。
腕部は鋭利な三日月状の空間断裂鎌と化しており、全身が青白いノイズのような位相歪曲力場に覆われていた。
ピラー最奥の守護者、『ヴォイド・リーパー(虚無の彷徨者)』。
鎌が振るわれた瞬間、音もなく、俺の右側を漂っていた数百トンの金属ブロックが一瞬で両断された。
断断面は鏡のように滑らかで、分子の結合ごと空間ごと切り裂かれていた。
通常の刃物は通らない。
物理攻撃を完全にすり抜けさせる位相防護。
「レイヴン、展開!」
俺の号令とともに、背嚢から4基のビットが虚空へ飛び出した。
葵から託された高密度バッテリーが青く輝き、レイヴンが音速を超える速度で敵の周囲を旋回する。
ピピピピピッ!
レイヴンの先端から射出された高周波パルスが、敵の位相防護力場と激しく衝突し、空間に幾何学模様の亀裂を走らせた。
周波数の干渉による、力場の強制中和。
敵の体が実体化した、その刹那。
「そこだ!」
俺は浮遊ブロックを蹴り、不可視の踏み込みで肉薄した。
引き抜いた『天鷲・壱ノ刃』と『弐ノ刃』が、暗黒の虚空に二重螺旋の白銀の閃光を描く。
敵が振り下ろした空間断裂の鎌を、頭上を旋回させた弐ノ刃が超音波振動で斜め45度に弾き飛ばす。
ガラ空きになった胸元の中枢核へ、手持ちの壱ノ刃を迷いなく突き入れた。
ズバァッ!
二重螺旋励起熱切断が、敵の核を一刀両断した。
結晶の砕け散る甲高い破砕音が響き、ヴォイド・リーパーの巨体が青白い光の粒子となって霧散していく。
所要時間、わずか12秒。
俺は空中で体勢を整え、浮遊するブロックの縁に着地した。
天鷲の刃先には、傷一つついていなかった。
*
虚空の浮遊地帯を飛び継ぎ、俺はついに回廊の終着点へと辿り着いた。
足元には、再び安定した黒い金属床が広がっていた。
そして目の前に聳え立っていたのは、第58層の門扉を遥かに凌ぐ、見上げるほど巨大な黒曜石調の円形大扉だった。
扉の中央には、心臓の鼓動のように規則正しく青白く脈動する、巨大な幾何学の紋様。
そこから漏れ出してくる魔素の波動は、30年間東京の地下を揺るがし続けてきた、あのピラーの根源的な唸りそのものだった。
深度5,800メートル。
この扉の向こう側が、人類未踏の最深部、第60層『中枢神殿』。
俺は扉の手前で立ち止まり、深く息を吐き出した。
周囲には、風の音も、魔獣の気配もない。
ただ、自分の静かな呼吸音と心臓の鼓動だけが、耳の奥に響いていた。
タクティカルスーツの胸ポケットにそっと手を当てる。
布越しに伝わってくる、真鍮の鈴の硬く冷たい感触。
その小さな金属の塊が、今この瞬間も、家で待つ愛娘の笑顔と直結していた。
「ぱぱ、ばいばーい!」
「おかえり!」
小さな手で振られたあの手の温もり。
仲間たちが託してくれた装備と、命をかけた信頼。
俺はポケットから手を離し、静かに深く呼気を吐き出した。
迷いも、恐怖も、ここには何ひとつない。
俺はただの解体屋であり、父親だ。
邪魔な岩を砕き、狂った機械を止め、定時に娘の待つ家へ帰る。それだけのことだ。
「よし」
声に出して呟き、俺は大扉の脇に設置された起動コンソールへ、手袋を外した右手を力強く押し当てた。
「終わらせて、帰るぞ」
ゴオオオオオッ、と空間全体を揺るがす重低音が轟いた。
巨大な円形大扉が、数千年の眠りから解き放たれるように、ゆっくりと回転しながら開き始めた。
扉の隙間から溢れ出す、眩い青白い燐光。
その光の奔流の中に、俺は迷いなく足を踏み入れた。




