第114話:束の間の我が家と、最後の準備
第55層の洞穴に設営された前進拠点キャンプの防護シートをくぐった瞬間、懐かしい男たちの声が耳に飛び込んできた。
「小僧!」
腰を浮かせ、工具を握りしめたまま駆け寄ってきたのは坂東宗一郎だった。
続けて、大盾の手入れをしていたタケが深く息を吐き、壁際に胡座をかいていた一条岳が静かに立ち上がった。
奥の簡易デスクで端末を操作していた如月雫と神崎葵も、弾かれたようにこちらへ振り返る。
「間宮、無事だったか!」
「ああ。全員、変わりないか」
「当たり前だ。こっちの重力偏差も安定してる。お前が一人で先行してくれたおかげで、無理な負荷をかけずに済んだぜ」
タケが分厚い手で俺の肩を叩いた。
俺は背嚢を下ろし、雫と葵の前に携帯情報端末を差し出した。
「第58層までの単独潜入ルート、重力偏差の安定座標、最深部ゲートの空間観測データだ。すべて記録してきた」
雫が震える指先で端末を受け取り、即座に自分の解析機器へと接続した。
画面上に、第58層『星霜の回廊』の幾何学構造と、最奥に位置する巨大な二重黒鉄門扉の立体スキャンが展開される。
「信じられません。深度5,300メートル以深に、こんな完全な人工構造物が存在しているなんて」
雫が息を呑み、画面に表示された数値に爪を立てた。
「門扉の先は、垂直降下の深淵縦穴。ですが、周囲の空間が不可逆的な重力歪曲フィールドで密閉されています。一度飛び込めば、最深部の中枢核を停止させない限り、物理的な浮上も登坂も一切不可能です。完全な、一方通行の奈落です」
「一方通行か」
一条が腕を組み、険しい面持ちでディスプレイを凝視した。
「背水の陣、というわけだな。中枢の元凶を断ち切らねば、地上へ生還する道そのものが消滅する」
「だからこそ、無茶な特攻はしなかった」
俺は仲間たちを見渡した。
「ここで勢いに任せて飛び込むのは、プロの仕事じゃない。一度全員で地上へ戻り、万全の補給と最終調整を行ってから、改めてこのゲートへ挑む。それが、俺たちが確実に生きて帰るための段取りだ」
俺の言葉に、坂東がニカッと白い歯を見せて笑った。
「へっ、さすがは解体屋の小僧だ! それでこそ現場の職人よ! 俺もV-RIGの油圧配管とシール材を全取っ替えして、新型の削岩アンカーを山ほど補充してえと思ってたところだ!」
「賛成だ」
タケも力強く頷いた。
「下請けの鉄則は、無理をせず安全マージンをきっちり確保することだ。全員で無傷で帰るぞ」
葵と雫も、晴れやかな表情で頷いた。
俺たちは設営していた前進拠点の耐魔テントを手際よく撤収し、第55層から昇降ケージの連絡シャフトへと向けて帰路に就いた。
*
地上、第7区緊急連絡シャフト前。
重装甲ハッチが重々しいスキール音を立てて開き、外の清涼な空気が肺いっぱいに流れ込んできた。
日曜日の午後3時。
地上には、穏やかな秋の陽光が降り注いでいた。
第35層以深の過酷な熱気と重力断層の闇を抜けてきた俺たちの全身から、フッと肩の力が抜けていく。
ギルド特区出張所の受付窓口へ向かい、長谷川美咲主任へ先行調査の終了報告と、第58層までの観測ログを提出した。
「間宮さん、皆さん、本当にお疲れ様でした。全員無傷での生還、何よりです」
長谷川さんは提出されたデータの膨大さに驚きつつも、いつもの落ち着いた声で頭を下げた。
「最深部への最終作戦計画については、明日月曜日の午前中にギルド本部および防衛軍との緊急合同会議で諮問されます。本日はこのまま退勤されますか?」
「ええ。娘が待っていますので、本日はこれにて退勤します」
「承知いたしました。定時退勤ですね。どうぞ、お気をつけて」
長谷川さんの言葉に送られ、俺は仲間たちと出張所の前で別れた。
「小僧、明日の夕方にまた佐伯工房で合流な!」
「間宮、身体を休めておけよ」
「間宮さん、また明日!」
仲間たちの温かい見送りを受け、俺は道具袋を肩に担ぎ直し、早足で特区タワマンへと向かった。
*
エレベーターを降り、402号室の前へ立つ。
深呼吸を一つして、インターホンのボタンを押した。
ピンポーン、と室内に澄んだチャイムの音が響く。
その直後だった。
バタバタバタッ、と廊下の床を激しく蹴立てる、小さな足音が聞こえてきた。
「あ! ぱぱ!? ぱぱ!」
幼い声が扉の向こうから響き、ガチャリとドアの鍵が開けられた。
姿を現したのは、エプロン姿の早川志保だった。
「あら、間宮さん!」
志保が顔をほころばせた、その足元から。
黄色いクマのスモックを着た鈴が、弾かれたように飛び出してきた。
「ぱぱ!」
鈴は小さな両手をいっぱいに広げ、勢いよく俺の足元へと飛び込んできた。
俺は道具袋を放り出し、床に膝をついて両腕を広げた。
ドサッ、と柔らかな小さな温もりが、俺の胸元に飛び込んでくる。
「ぱぱぁ!」
鈴の小さな両腕が、俺の首筋にぎゅっと力いっぱいに巻きついた。
ふんわりとしたベビーソープの匂いと、日なたの匂いが鼻先をくすぐる。
小さな胸がトクトクと激しく波打ち、俺のタクティカルスーツの襟元に顔を埋めて、離れようとしない。
「鈴、ただいま。いい子にしてたか」
俺が背中を優しく撫でると、鈴は首元から顔を上げ、大きな瞳からぽろぽろと大粒の涙を零した。
泣き叫ぶわけではない。
ただ、父親の胸の中に戻ってきた安心感で、小さな頬を涙で濡らしながら、俺の顔をじっと見つめていた。
そして、鈴は小さな唇を力強く結び、はっきりと告げた。
「おかえり!」
たった一言。
濁りのない、澄み切った声だった。
出撃する前夜、「あい!」と短く頷くだけだった娘が、今は自分の足で立ち、自分の意思で「おかえり!」と言葉を紡いでいた。
胸の奥が、熱い奔流で激しく震えた。
どれほど過酷な地底であっても、どれほど恐ろしい奈落であっても、この温もりを守るためなら、俺は何度でも生きて帰ってくる。
「ああ。ただいま、鈴」
俺は鈴の小さな頭を胸元へ抱き寄せ、強く、けれど壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。
「ふふ、よかったわね、鈴ちゃん」
志保が穏やかな微笑みを浮かべ、ハンカチを差し出してくれた。
「間宮さん、本当にお疲れ様。鈴ちゃんね、あなたが留守の間、陽菜や芽依と一緒に一度もぐずらずに待ってたのよ。『まってる!』って、毎日玄関を指差してね」
リビングの奥から、陽菜と芽依が「おじさん、おかえりー!」と手を振っていた。
「志保さん、陽菜ちゃん、芽依ちゃん。本当にありがとうございました」
俺は心からの感謝を込めて頭を下げ、鈴を抱き上げた。
「鈴、お家に帰ろう。温かいご飯を作ろうな」
鈴は俺の首筋に両手を巻きつけたまま、嬉しそうに頷いた。
「あい!」
*
我が家へ戻り、まずは浴室へ直行した。
給湯器から張った温かい湯船に、鈴と一緒に浸かる。
2日分の現場の埃と、過酷な深層の緊張が、温かな湯気の中へと心地よく溶け出していった。
鈴は浴槽の縁に小さな手をかけ、パシャパシャとお湯を跳ねさせながら、嬉しそうに笑った。
「あったか!」
「ああ、あったかいな」
鈴の柔らかな体を洗い、湯上がりに大きなバスタオルで包み込む。
清潔な肌着を着せると、鈴はリビングのプレイマットの上をトタトタと嬉しそうに駆け回り、お気に入りの知育玩具を抱えて持ってきた。
俺はタクティカルスーツから着心地のいい部屋着に着替え、キッチンに立った。
今夜の夕飯に選んだのは、甘辛い特製の肉じゃがだった。
出撃前に買い置きしておいたメークイン、玉ねぎ、人参、それに白滝。
そして、佐伯親方が「娘に食わせてやれ」と差し出してくれた、あの最高級和牛の残りの薄切り肉を取り出した。
鍋に少量の油を引き、和牛の肉をサッと炒める。
甘く香ばしい脂の香りが立ちのぼった瞬間、野菜を一気に投入した。
ここからが、解体屋の腕の見せ所だ。
体内の生体魔力を指先から鍋へと通し、微細熱伝導を均一に行き渡らせる。
魔力変換効率92パーセント。
じゃがいもの細胞壁を傷つけず、表面を煮崩れさせないまま、出汁と醤油、みりん、砂糖の黄金比の煮汁を、中心部まで一気に浸透させていく。
短時間で味が芯まで染み込み、牛肉の極上のコクを吸い込んだ絶品の肉じゃがが完成した。
「鈴、ご飯できたぞ」
湯気を上げる肉じゃがと、炊きたての白飯、豆腐とワカメの味噌汁を並べる。
子供用の椅子に座らせると、鈴は木のスプーンを両手でしっかりと握りしめた。
「あむ!」
小さく切り分けたじゃがいもをすくい、お口いっぱいに放り込む。
もぐもぐと咀嚼するたび、ふくよかな頬がリスのように丸く膨らんだ。
「おいし!」
鈴の小さな口から、弾けるような歓声が上がった。
続けて、牛肉を小さくちぎってご飯の上に乗せてやると、鈴は夢中でスプーンを動かした。
「んまー!」
体を小刻みに揺らし、両足をパタパタと跳ねさせる。
そして、スプーンを握ったまま、俺の顔をじっと見つめて、とびきりの笑顔を咲かせた。
「ぱぱ!」
「おかえり!」
一語一語を区切り、誇らしげに胸を張って口にする愛娘の姿に、俺の胸がいっぱいになった。
「ああ、ただいま。たくさん食べろよ」
俺も箸を取り、肉じゃがを口に運んだ。
甘辛い出汁の旨味と、牛肉の芳醇な脂の甘さが口いっぱいに広がる。
地下5,300メートルの暗闇で携帯食を齧っていた時間が、まるで遠い過去の出来事のように思えた。
*
夜8時半。
お腹いっぱいになった鈴は、絵本を読んでいる途中でコテンと横倒しになり、寝息を立て始めた。
俺は鈴を抱き上げ、寝室のベッドへそっと横たえた。
毛布を胸元まで掛け直す。
鈴の小さな手には、母の形見である真鍮の鈴が入った巾着袋が、ぎゅっと握りしめられていた。
寝返りを打つたび、チリン、と微かで清らかな音が部屋の中に優しく響く。
俺は音を立てないように寝室を出て、リビングの窓を開けてベランダへと出た。
夜の涼しい風が、火照った肌を優しく撫でる。
特区タワマンの眼下には、平和な街の明かりが果てしなく広がっていた。
だが、視線を西の地平へと向けると、夜空を切り裂いてそびえ立つ、巨大な黒い影が視界を遮った。
東京ピラー。
あの最深部、第60層の奈落。
明日、俺たちは最後の準備を整え、あの門扉の向こう側へと飛び込むことになる。
一度飛び込めば、元凶を討ち滅ぼすまで二度と這い上がれない、決死の戦い。
けれど、俺の心に迷いは微塵もなかった。
寝室の扉の向こうから、鈴の規則正しい寝息と、真鍮の鈴の微かな音が、時折かすかに聞こえてくる。
「待ってろ、鈴」
夜風に向かって、俺は静かに呟いた。
「パパは、必ずお前の元へ帰ってくる」
拳を固く握り締め、俺は静かに夜空を見上げた。
地上の穏やかな夜の帳が、静かに深まっていく。
お読みいただきありがとうございます。
ここまでで第15章が区切りとなりました。
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