第110話:早川家の夜と、育つ言葉
フライパンの上で、たっぷりのバターがじゅわりと音を立てて泡立った。
甘いバニラオイルの香りと、焦げた砂糖の芳しい匂いがキッチンいっぱいに立ちのぼる。
前夜から卵と牛乳、きび砂糖に浸しておいた厚切りの食パンが、弱火の上でふっくらと黄金色に焼き上がっていく。
早川志保はフライ返しを操りながら、背後のリビングへ声を張り上げた。
「ほらほら、三人とも! テーブル拭き終わった人から座りなさーい!」
「はーい! 陽菜、もうふきふきしたよ!」
「めいも! めいもふいたもん!」
長女の陽菜が台布巾をぎゅっと絞り、次女の芽依がその真似をしてテーブルの角をペチペチと叩く。
その足元で、黄色いクマのアップリケがついたスモックを着た鈴が、椅子にしがみつきながらひょこひょこと背伸びをしていた。フライパンの甘い匂いに、小さな鼻をひくひくさせている。
「んま!」
鈴が短く声を上げると、志保の口元が自然とほころんだ。
「ふふ、鈴ちゃん、いい匂いするでしょ。今お皿に乗せるから、ちょっとだけ待っててね」
子供たちが食べやすいよう一口大にカットしたフレンチトーストに、粉砂糖とメープルシロップを少しだけ垂らす。
隣の部屋の主である間宮凌が、タケたちと共に第35層以深の長期遠征へと出発して、今日で2日目の朝を迎えていた。
出発の朝、深々と頭を下げて鈴を預けていった凌が、娘を抱きしめる腕の力を緩める時だけ痛ましそうに奥歯を噛み締めていたのを、志保は覚えている。
父親が命懸けで戦っている間、この家で鈴に寂しい思いなど絶対にさせない。志保はそう心に決めていた。
「はい、お待たせ! 熱いからフーフーして食べるのよ」
3つの木製プレートを並べると、子供たちが一斉に木のスプーンを構えた。
「いただきまーす!」
「いただきまー!」
「あむ!」
鈴は小さなスプーンを両手でしっかりと握り、角切りのトーストをすくった。ふう、ふうと息を吹きかけてから、口いっぱいに頬張る。もぐもぐと咀嚼するたび、ふくよかな頬がリスのように丸く膨らんだ。
「んまー!」
口の端にちょこんとついたメープルシロップが、朝日を浴びてキラリと光る。
「すずちゃん、おくちについてるよ。陽菜が拭いてあげる!」
陽菜がさっと紙ナプキンを取り出し、手際よく拭ってやる。
「めいも!」
「芽依は自分の手で触っちゃダメ!」
「もう、二人とも喧嘩しないの。鈴ちゃん、お姉ちゃんにありがとうは?」
志保が促すと、鈴は陽菜を見上げ、ぺこりと小さな頭を下げた。
「あい!」
その愛らしい仕草に、陽菜が誇らしげに胸を張る。芽依も負けじと自分のトーストを差し出し、鈴はためらうことなくかぶりついた。二人して顔を見合わせ、ケラケラと笑い転げる。
朝食を終え、志保が食器を流し台へ運んでいる時だった。
トタトタという足音がふっと止まる。目を向けると、鈴が玄関ホールへ続く廊下の真ん中に佇んでいた。
小さな背中が、ぴたりと動かない。視線は、重い金属製の玄関ドアのノブへとじっと向けられている。
毎朝、鈴が「ばいばーい!」と手を振り、凌が屈み込んで頭を撫でてくれる、あの場所だった。
鈴の右手が、空を掴むようにゆっくりと持ち上がり、ドアを指し示す。
「ぱぱ?」
問いかけるような、心細さを孕んだ澄んだ声だった。泣き叫ぶわけではない。ただ、いつもなら戻ってくるはずの大きな温もりが見当たらないことを、幼い頭で懸命に理解しようとしているようだった。
志保が駆け寄ろうとしたその瞬間だった。
「すずちゃん! くまさんの絵本よも!」
絵本を抱えた陽菜がリビングから飛び出してくる。続いて芽依が、青い小鳥の知育玩具『おしゃべりスワロー』を掲げて走ってきた。頭を撫でると澄んだ電子音でさえずる、アルス・テック社製の玩具だ。
陽菜が鈴の左腕を、芽依が右腕を抱きしめる。三人娘の肩が寄り添い、廊下に丸い塊ができた。
「ほら、すずちゃん、ピッてしてごらん!」
芽依が差し出した鳥の背中に、鈴がそっと指先で触れる。
ピピピッ、ピヨピヨ。
鈴の表情がふわりと緩み、ぎゅっと結ばれていた唇が開いた。
「ぴよ!」
「あ、笑った!」
陽菜が廊下に座り込んで絵本を開くと、鈴もペタンとお尻を下ろし、ページに小さな掌を押し当てる。
「くま!」
「そう、大きなくまさん!」
二人の姉に囲まれて、鈴の口から楽しげな笑い声が弾けた。
志保は廊下の壁に背を預け、そっと息を吐いた。子供たちには子供たちの絆がある。大人が言葉を重ねるよりも、同じ年頃の温もりが何よりの薬になる。
*
昼間は認可保育所へ三人娘を送り届け、志保はギルド福利厚生課での勤務をこなした。
夕方4時半、迎えに行くと、鈴は志保の姿を見つけるなり短い足をバタバタとさせて駆け寄ってきた。
「ほー!」
まだ「志保さん」とはうまく発音できず、二文字目の「ほ」だけを力いっぱいに呼ぶ。雫のことは「しー」と呼び分けているので、鈴なりのこだわりなのかもしれない。
志保はしゃがみ込み、飛び込んできた小さな体を抱きしめた。
「はい、お利口さんにしてた?」
担任の保母さんが連絡帳を差し出しながら微笑んだ。
「今日もお給食を完食してくれましたよ。お昼寝の時に少しだけパパを探す素振りを見せましたけど、陽菜ちゃんがトントンしてくれたらすぐに眠ってくれました」
「まあ、陽菜、本当にお姉ちゃんね」
402号室へ戻る頃には、外はすっかり薄藍色の夕暮れに染まっていた。冷えた体を温めるため、志保は三人娘を連れて浴室へ直行した。
浴槽から白い湯気が立ち上る。志保が子供用シャンプーを泡立て、三人娘の頭を順番に洗っていく。
陽菜が器用に自分の体を洗う横で、鈴は浴槽の縁に両手をついてチャプチャプとお湯を跳ねさせていた。
「鈴ちゃん、湯加減はどう? 熱くない?」
「あったか!」
鈴が振り返り、はっきりとした声で答えた。その発音の明瞭さに、志保は思わず手を止める。
以前なら「あー」や「うー」といった母音の連続でしか感情を表せなかったはずだ。それが今、自分の知覚した温もりを正確な単語として口にしている。
「ふふ、あったかいわね。しっかり温まってから上がろうね」
風呂上がり、志保は脱衣所のスツールに鈴を座らせ、ドライヤーの温風を髪へ向けた。鈴は膝の上に抱えた青い鳥の玩具を、両手で大事そうに包み込んでいる。
髪が乾き、志保がスイッチを切った。
急に訪れた静寂の中、鈴がすっと立ち上がった。
小さな足で床を踏み締め、両手で青い鳥を頭上高くへと掲げる。
「とんだ!」
驚くほど力強く、澄み渡った声だった。ただ言葉を覚えただけではない。空を舞う鳥の姿を頭に思い描き、自分の手の中で鳥が飛翔したのだと、確かな意思を持って宣言していた。
「え?」
志保が息を呑んだその時、鈴は青い鳥をそっと胸元に抱き直し、脱衣所のドアの向こう、玄関の扉を小さな人差し指で真っ直ぐに指し示した。
その眼差しに、朝に見せたような寂しげな陰りはどこにもない。父親が必ずあの扉を開けて帰ってくるのだと、微塵の疑いもなく信じ切っている目だった。
「まってる!」
たった一言。二語文ですらない、単語ひとつの発話だった。
けれど、その響きに込められた重みに、志保の胸の奥が震えた。パパを待っている。遠くで戦う背中を、この家で、自分の足で立ちながら待っているのだと。
父親の不在を嘆くのではなく、待つという行為を選び取っている。凌が注ぎ込んできた無償の愛情が、この小さな胸に確かな信頼の根を張っていた。
「そうね」
志保は込み上げるものを堪え、床に膝をついて鈴の小さな体を抱きしめた。
「そうね、鈴ちゃん。パパは必ず帰ってくるわ。だから、みんなで笑って待っていようね」
鈴は志保の首筋に小さなおでこを押し当て、力強く頷いた。
「あい!」
*
夜9時。常夜灯の淡いオレンジ色の光だけが部屋を満たす中、和室に敷いた三組の布団に、鈴を挟んで陽菜と芽依が眠っていた。
すー、すー、と規則正しく重なり合う3つの寝息。鈴は胸元に、凌から渡された真鍮の鈴入りの巾着袋をぎゅっと握りしめている。寝返りを打つたび、チリン、と微かな音が闇に溶けた。
志保はそっと布団を直し、三人娘の額を撫でると、足音を忍ばせてリビングの窓辺へ歩み寄った。
レースのカーテン越しに、夜の街を見下ろす。安全居住特区の街灯が整然と並ぶ先、夜空を切り裂くようにそびえ立つ漆黒の巨塔が視界を塞いだ。東京ピラー。
志保はポケットからスマートフォンを取り出した。画面には、防壁外の防衛前線で任務に就く夫からの短い定期連絡が表示されている。
【前線異常なし。補給が完了次第、次の警備区間へ移動する。陽菜と芽依を頼む】
夫もまた、街の外の闇の中で引き金を握り続けている。そして今、あの黒い柱の地下深層で、間宮凌たちもまた誰にも知られることのない死闘を繰り広げているはずだった。
かつて探索者として前線に立っていた志保には分かる。深層の戦いに絶対の安全など存在しない。けれど、あの男の足取りは決して揺らがない。名誉のためでも富のためでもなく、ただこの部屋で待つ娘のもとへ、定時に帰るために。
志保は口元に、元探索者としての確かな覚悟を帯びた微笑みを浮かべた。
「間宮さん。鈴ちゃんはね、あなたが思っているよりずっと逞しく育ってるわよ。後ろの心配なんて、これっぽっちもしなくていいから」
誰に届くわけでもない言葉を、志保は静かに夜風へと紡いだ。
「だから、安心して帰っていらっしゃい」
小さな祈りが、タワマンの窓辺から夜の帳へと溶け込んでいった。




