最終話 二度目の春
三日後、研究棟の窓を開けた私は、目を見張りました。
白い鍵花が、いっせいに開花し、一面に咲き乱れていたのです。
朝日を浴びて、柔らかな風に吹かれて、かすかに甘い香りが鼻先をかすめました。
それは、本格的な春の到来を告げる景色でした。
倒れていたアーヴィン様をここで拾ってから、ちょうど一年。
長かったような、短かったような一年でした。
彼の導師になり、魔獣討伐に参加し、竜核に魔力門を施しました。でも一番大変だったのは、クッキー作りかもしれません。
私の弟子は、今、四級試験を受けに行っています。私を導師から解放すると言ったあの時には、すでに申し込みをすませていたのです。
相変わらず、用意周到です。
今日も、「君とのつながりは多い方がいい」とか言って、行くのを渋っていましたが、なだめすかして送り出しました。
結果は即日発表されます。
もしわざと落ちていたら、怒ります。
私は窓を開け放ったまま、片付け作業に戻りました。
研究資料を仕分けて箱に入れ、竜核についての研究には、私とナヴィード先生の魔力でしか開かない術式を施しました。
それから、マイヤー博士と父の私物の保管に取りかかりました。
「……あれ?」
書棚の奥に、鍵花の模様が刻まれた箱を見つけました。
鍵穴はありません。
けれど、蓋に触れると、指先に懐かしい魔力が触れました。
父の認証錠です。
私は息を整え、そっと魔力を流し込みました。
かちり、と小さな音がして、箱が開きます。
娘の魔力でも開くようにしているなんて、不用心です。でもちょっと嬉しいです。
中に入っていたのは、古い転写紙の束でした。
若い男の人が二人、研究机の前に並んでいます。
一人は黒髪で、少し困ったように笑う人。
目元が、どことなくアーヴィン様に似ています。
もう一人は、白衣のポケットから鍵花を生やした、焦茶色の髪の男性でした。
「……お父さん」
思わず、声がこぼれました。
転写紙の裏には、几帳面な文字でこう書かれていました。
『ルーカスとエリク。研究棟にて。エリク、ポケットから花を生やすな』
次の転写紙には、白銀の髪の美しい少女が写っていました。
鍵花を抱えて、得意げに笑っています。
おそらく、人の姿をしたサラ様でしょう。
その隣で、ルーカス様がひどく困った顔をしています。
さらに少し離れた場所で、若い女性がスケッチブックを抱えて笑っていました。
蜂蜜色の髪。
私と同じ、緑の瞳。
「……お母さん?」
胸の奥が、きゅっとしました。
箱の底には、薄い紙束がありました。
そこに描かれていたのは、夜空を見上げる小さな竜。
星を食べたそうに口を開けている、どこか間の抜けた顔の竜です。
私は、息を呑みました。
『星を食べたかった竜』。
その挿絵のラフ画でした。
端には、母の筆跡らしき文字があります。
『サラさんへ。こんな感じでどうですか? 星はもっと美味しそうに描いた方がいいかもしれません。ララ』
母が。
あの絵を、描いていた。
師匠の部屋の天井に浮かんでいた、あの星空。
私が何度も眠る前に見上げた、あのキラキラの魔法。
その絵を、母が描いていたのです。
サラ様の言葉を、母が絵にして。
父とルーカス様が、研究でつなぎ。
師匠が、私に読み聞かせてくれた。
だから私は、その物語の最後のページで、竜を助ける魔法使いになれたのです。
なら、次は。
「サラ様にも、魔力門を作ります」
声に出すと、不思議なくらい心が決まりました。
アーヴィン様と同じ方法は使えません。
サラ様の竜核は、番を失ってしまったのですから。
だから研究が必要です。
魔力型を合わせる方法。
竜核に取り込まれず、拒まれず、外部の力を星のように流す門。
時間はかかるかもしれません。
でも、私は諦めません。
私は、竜を助ける魔法使いなのですから。
その時、研究棟の入口で、転移魔法陣の光が揺れました。
振り返ると、白い隊服のアーヴィン様が立っていました。
「ただいま」
その一言で、胸の奥が温かくなります。
「おかえりなさい。試験はどうでしたか?」
訊くまでもありません。
でも、訊かずにはいられませんでした。
アーヴィン様は、少しだけ誇らしそうに微笑みます。
「合格した」
「おめでとうございます!」
思わず駆け寄ると、彼は両腕を広げました。
……抱きしめる前提ですか。
けれど、今日は逃げませんでした。
私はその腕の中へ飛び込みました。
「……可愛い」
ぎゅう、と抱きしめられ、しみじみと呟かれました。
「導師殿と言えなくなるのは寂しいが、これでもう、遠慮しなくてすむな」
私は腕の中で首を傾げました。
「……遠慮してたんですか?」
「してた。ものすごく」
……あれで?
耳や首筋にキスしておいて?
「それに、今日は約束の日だ」
その言葉に、顔が熱くなりました。
そう。今日はあの日から三日目。
自分で三日と言ったのだから、逃げるわけにはいきません。
いきませんが、気がついたらこう言っていました。
「三日目は、あと数時間ありますので……」
アーヴィン様は小さく目を見開き、それから唇の端を上げました。細められた目が、私をじっと覗き込みます。
「そうだな。でも今日は逃がさない」
真剣な声でした。
退路を断たれました。
……いえ、逃げないと決意したではありませんか。
「に、逃げません。……たぶん」
「たぶん?」
「絶対に」
アーヴィン様は笑って私を解放してくれました。
それから、二人で転写紙を見て、夕飯を作って食べました。後片付けをして、お風呂に入ったら、今日が終わるまであと二時間。
このまま部屋にいたら……。
などという考えが浮かびました。
いけません。
そんなことをしたら、きっとアーヴィン様を傷つけてしまいます。
私はベッドから立ち上がり、扉へ向かいました。
……でも、私なんかが彼を傷つけられるなんて、思い上がりでは?
ぴたりと足が止まりました。
それに、彼はもう寝てるかも……。
私はぶんぶんと頭を振りました。
キッチン。
そう、水を飲みにキッチンへ行きましょう。
彼の部屋が静かなら、起こさない方がいいので水を飲むだけで帰ります。
そうしましょう。
私はかちゃりと扉を開けました。
そこには、ノックをしようとした姿で固まったアーヴィン様がいました。
「……おやすみなさい」
反射で扉を閉めようとすると、彼の足が隙間に挟み込まれました。
「リーリア」
「……はい」
私は観念して扉を開けました。
「迎えにきた」
「はい」
沈黙が落ちました。
気まずいです。
彼はそっと私の手をとりました。
「魔力門の調子をみてくれないか?」
「え?」
私は、ぱっと顔を上げました。
まさか、調子が悪い──。
けれど、見上げたアーヴィン様は、優しく笑っていました。
「ナヴィード先生が、一年は術式の安定を確認した方がいいと」
……あの師匠。
もちろん、確認はした方がいいです。
でも、たぶんそういう意味じゃありません。
靄を解くことがなくなり、毎晩触れる口実がなくなって、ちょっと寂しい、とマデリンに愚痴ったのが、伝わったのでしょう。
いえ、マデリンは悪くありません。
師匠が言葉巧みに聞き出したに決まっています。
私は小さく息を吐きました。
師匠のおせっかいな口実が、私の背中を押してくれました。
「仕方ありませんね。竜の魔法使いがみてあげます」
「ああ。よろしく頼む」
アーヴィン様は、三日前までと同じようにベッドに腰掛けました。
開かれた窓から、温かな夜風に乗って、鍵花の甘い香りが運ばれてきます。
私は彼の胸に手を当て、魔力視を開きました。
外の魔力が吸い込まれ、魔力門に当たってきらきらと輝き、再び外へ帰っていきます。
「……きれい」
魔力視を閉じると、虫の音とお互いの呼吸だけが静かな部屋に落ちるようでした。
数日前まで、焦りながら靄を解いていたとは思えません。
温かくて、優しくて、落ち着いた夜でした。
「大丈夫、ちゃんと定着しています」
そう言うと、彼は私の目をまっすぐに見ました。
「ありがとう、リーリア」
そして手を握ると、言葉を継ぎました。
「君が開錠してくれたから、息ができた。君がいてくれたから、母に会えた。君が魔力門を施してくれたから、これからも生きていける」
それから、彼は私の頬に触れました。
「キスしても?」
私は息をのみました。
「……あと一時間、あります、けど……」
アーヴィン様は優しく微笑みました。
「そうだな。逃がさないと言ったが、君がまだ準備不足なら、俺は待つ」
私は目を瞬きました。
どれだけ忍耐強いのでしょう、この人は。
逃げてばかりの私を、優しくつかまえて。
離さないけれど、待ってくれて。
もう、これ以上は逃げられません。
逃げたくありません。
私は指を三本立てました。
「じゃあ、あと三秒待ってください」
「三秒?」
彼は、ふ、と笑いました。
「俺は一秒あれば斬れる」
「そうでした」
私たちは笑い合いました。
次の瞬間、ふわりと体が浮き、ベッドに横たえられました。柔らかな布に、体が沈みます。
「愛してる、リーリア」
私もです。
そう言おうとしたのに、優しく唇を塞がれ、最後まで言うことができませんでした。
でも、きっとこれから、何度でも言う機会はあるでしょう。
私たちは、この先もずっと、手を取り合って生きていくのですから。
鍵花の甘い香りに、私はそんなことを思いながら目を閉じました。
……いえ、待ってください。
これは、キスですか?
私のイメージでは、優しく、ちゅ、というのがキスだったのですが。
いえ、最初はそうだったのです。
小鳥が啄むような軽いキス。
それだけでも恥ずかしくて死にそうだったのですが、身じろぐと、闘争本能を刺激してしまったのでしょうか、唇を押し当てられました。
「……んっ」
想定外です。
予測範囲外の事態です。
舌が優しく唇をなぞります。
頭が真っ白になりました。
そして唇を割るように、深くキスをされました。
これがキスと呼んでいいのなら、です。
「……んんっ」
その声で、絡められた彼の指に力がこもりました。
身じろぎも、声を出すのも危険なようです。
私はこれからどうすればいいのでしょうか。
……前途多難です。
(了)
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