第1話 森で騎士様を拾いました
ある日のこと、森の中で騎士様を拾いました。
魔力を吸って育つ銀葉樹が鬱蒼と生い茂り、昼間でも薄暗く、道もないような森の奥──
騎士様が落ちていたのです。
いえ、倒れていたのです。
魔法学院の研究課程で、末席を汚している私、リーリアがそこへ行ったのは、まったくの偶然でした。
魔法薬に使う素材をうっかり切らしてしまい、重い腰を上げて採集に来たのです。
学院の裏手に広がる森は、様々な恵みをもたらしてくれます。採集、森林浴、そして秘密のデート。
……まぁ、私には関係ないですが。
最初は面倒でしたが、やり始めると楽しいもので。
黒いローブには泥がつき、蜂蜜色の髪には枯れ葉が絡まりましたが、気にもなりません。
採集籠が少しずつ重くなっていくのが嬉しくて、私は調子に乗って奥へ奥へと分け入っていきました。獣道すらありませんでしたが、私の研究に必須の鍵花が、道標のように点在していたのです。
決して迷っていたわけではありません。
ありませんが、ここはどこでしょう。
ほんの少し泣きそうになりながら藪をかき分けたところ、突然、目の前に朽ちかけた建物が現れました。蔦に覆われ、壁は苔むし、まるで森へ還ろうとしているかのようです。
この森には何度も入っているのに、そんな建物を見たのは初めてのことで、とても驚きました。
いえ、それよりも、その横で倒れている騎士様を見つけた時は心臓が止まるかと思いました。
最初は理解が追いつきませんでした。
魔法使いの黒いローブを着ていたなら、採集中に行き倒れたのだと分かります。けれど、白く輝く甲冑なんて、この森には縁もゆかりもありません。
私は恐る恐る近づきました。
死んでいたらどうしましょう。
第一発見者なんて、疑われるに決まっています。
心臓がばくばくと打っていました。
かさりと落ち葉を踏む音さえ、大きく聞こえます。
騎士様は、うつ伏せで倒れていました。
「あ、あのぅ……」
私はそろそろと手を伸ばし、甲冑を揺らしました。
「生きてますか?」
騎士様は何も答えません。
私は思い切って体を押しました。
けれど、重すぎて仰向けに転がってくれません。
何度か繰り返し、額に汗が浮いた頃、はっと気づきました。
私、魔法使いでした。
浮かせて回転させればよいではありませんか。
私は懐から杖を取り出し、騎士様の体に向けました。浮上と回転の魔法陣を重ね、慎重に魔力を流し込みます。
これくらいなら、三級魔法使いの私でも楽勝です。
けれど、ここからが本番です。
騎士様の体が淡く輝いたかと思うと、ふわりと浮き上がりました。
そのまま、ゆっくりと体を回転させます。
頭を打たないように。
腕が変な方向に曲がらないように。
細心の注意を払って、そろりと落ち葉の上へ下ろしました。
騎士様は、無事に仰向けになりました。
どこも折れていませんし、変な音もしませんでした。
……完璧です。
私は小鼻を膨らませて胸を張りました。
あっ、こんなことをしている暇はありません。
死んでいるなら仕方ありませんが、死にかけなら助けなければ。
でも私は魔法使いであって、医者でも聖職者でもありません。
医療の知識など、ないも同然。まったくの素人です。
騎士様の顔は青白く、額には黒髪と血が固まって貼り付いています。
私は紫色になった唇に、そっと耳を寄せました。
……なんとなく、息をしているような気がします。
あっ。
確か、頸動脈に触れるのでした。
恐る恐る首筋に指を当てると、指の下で、とくん、とひとつ打ちました。
──生きてる。
弱々しいけれど、確かに鼓動はあります。
ほっとしました。
しましたが、ここからどうすればいいのでしょう。
学院へ戻り、お医者様をお連れするべきでしょうか。
それとも、運搬魔法でこのまま連れて行くべきでしょうか。
けれど、下手に動かして容体が悪化したら大変です。
あとから騎士団に責任を問われるのも困ります。
こんな時、特級魔法使いのように転移魔法を使えたらよかったのですが。
三級の私なんかに見つけられて、運の悪い騎士様です。
私はもう一度、騎士様の顔を覗き込みました。
額に傷はあります。
甲冑にも傷があります。
けれど、命に関わるほどの出血には見えません。
それなのに、彼の呼吸は浅く、指先は氷のように冷えていました。
……変です。
怪我で死にかけているのではありません。
もっと内側の、目に見えない何かが、この人の命を締めつけている。
そう思った瞬間、私の研究者としての悪い癖が出ました。
私は杖を握り直し、騎士様の胸元へ向けました。
「少しだけ、魔力の流れを見ますね。少しだけです。勝手に覗くのは失礼ですが、緊急事態なので許してください」
もちろん、返事はありません。
同意とみなします。
魔力視の魔法陣を展開して、私は首を傾げました。
魔力が、ない?
普通、どれほど微量でも魔力はあるものです。
けれど、騎士様には、ほんの少しもなかったのです。
──おかしい。
魔力がないなんて、逆に怪しすぎます。
封じ込めなければ、こうはなりません。
私はよくよく目をこらしました。
すると、奥の方に封印の錠前が見えました。
それも──五重に。
普通、人は生まれるとすぐに、魔力の暴発を防ぐための錠を掛けられます。
それは命を守るための、最初の封印です。
十二の歳になると、それを開錠する。
才能ある者は魔法学院へ進み、そうでない者も最低限の魔力制御を学ぶ。
それが、この国の当たり前なのです。
けれど騎士様は、どう見ても十二歳には見えません。
それに、この錠は──。
もっと、近くで見なければ分かりません。
魔力視は本来、相手の中を外側から眺めるだけの術です。窓越しに室内を覗くようなもので、触れることも、干渉することもありません。
ですが、細部を読むには、それだけでは足りません。
窓硝子に額を押しつけ、それでも足りずに、窓枠から頭を突っ込むようにして、相手の中へ意識を潜らせる必要があります。
はい、違法です。
でも今は仕方ありません。
決して好奇心からではありません。
断じて。
とぷん、と水の中に潜るような感覚の後、私は錠に触れました。
その瞬間、まるで冷たい海流に触れた時のように、恐怖が背筋を這い上がりました。
これは、人間に使うためのものではありません。
魔獣の核を止めるような、強く、荒く、逃げ道のない封印錠です。
普通の錠は、魔力核の表層に掛けるものです。
子どもが自分の魔力に触れすぎないよう、扉に鍵を掛けるようなもの。
でもこれは、心臓の奥に杭を打ち込むように、魔力の核そのものを押さえつけていました。
しかも、五重に。
今すぐに開けなければ、この人は──
死ぬ。
彼は今、閉じ込められてもなお溢れようとする膨大な魔力に、内側から食い荒らされているのです。
誰がこんなことを?
いえ、考えている暇はありません。
私は錠に合わせて、魔法で鍵を作り出しました。
その時、指先に、ふ、と違和感を覚えました。
けれど今はそれどころではありません。
くるりと回すと、音もなく、ひとつ目の錠がほどけました。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
錠が消えるたびに、騎士様の奥で押し込められていた魔力が、低く唸るように揺れました。
そして、最後の一つを回す前。
私はためらってしまいました。
魔力の錠を開けた魔法使いは、その人が自分の魔力を扱えるようになるまで、導師として責任を負わなければなりません。
つまり。
この騎士様を助けるということは、私がこの人の師匠になるということです。
この三級魔法使いの私が。
いや……無理では?
最後の一つだけ、誰か他の人、例えば私の師匠に開けて貰えば、万事解決では?
けれどその時、最後の封印の奥で魔力が暴れ、軋む音がしました。
もう、時間がありません。
私は最後の鍵を回しました。
するすると封印が解けていき、消えた──
次の瞬間。
森が白く弾けました。
「ひぃやっ?!」
声にならない声が喉から飛び出しました。
騎士様の胸の奥から、押し込められていた魔力が一気に溢れ出したのです。
森全体が揺れていました。
まるで氷結の竜が現れたかのように、木々が軋み、落ち葉が舞い上がり、足元の苔が白く凍りついていきます。
まずいです。
これは、とてもまずいです。
いきなり、師匠としての責任問題発生です。
学院でガチ詰めされる未来しか見えません。
いえ、それよりも、このままでは騎士様の体が内側から壊れます。
ついでに、私も巻き込まれて吹き飛びます。
「ま、待ってください! 開けました! 開けましたから! そんなに急に出てこないでください!」
魔力に話しかけても無意味です。
知っています。
知っていますが、言わずにはいられませんでした。
私は杖を握りしめ、必死に魔法陣を組み直します。
閉じるのではありません。
閉じたら元通りです。
でも、全部流せば壊れてしまう。
ならば、流れ道を作るしかありません。
「魔力門展開……!」
彼の中に、小さな門をいくつも作ります。
封じるためのものではなく、流れを整えるための門。
水門のように、少しずつ、少しずつ魔力を逃がすためのものです。
一つ。
二つ。
三つ。
騎士様の胸元に、淡い光の輪が重なりました。
暴れていた魔力が、その輪に触れるたびに向きを変え、森の空気へ溶けていきます。
まだ荒い。
まだ強すぎる。
けれど、さっきよりはましです。
「お願いですから、落ち着いてください……!」
額から汗が落ちました。
指先が震えます。
三級魔法使いの私には、明らかに荷が重い魔力量でした。
けれど、鍵と錠、そして門だけは。
それだけは、私の専門です。
最後の門を作り終えた瞬間、吹き荒れていた風がふっと弱まりました。
森に、静けさが戻ります。
私はその場にへたり込みました。
「……生きてますか?」
誰に聞いたのか、自分でも分かりません。
騎士様にか。
私にか。
それとも、この森にか。
その時でした。
落ち葉の上に横たわっていた騎士様のまぶたが、かすかに震えました。
ゆっくりと、目が開きます。
銀灰色の瞳でした。
冬空のような、静かな色。
けれどそこには、倒れていた人とは思えないほど鋭い光が宿っていました。
私は息を止めました。
騎士様は私を見上げ、血色の悪い唇を微かに開けました。
「……君が」
低い声でした。
かすれているのに、不思議とよく通る声です。
「俺の錠を、開けてくれたのか」
「は、はい」
答えてから、私は背筋を伸ばしました。
騎士様に見られると、上司の前にいる気分になります。
「緊急事態でしたので! 無断で魔力の深部まで覗きましたが、救命目的です! あと、最後のひとつだけ他の方にお願いしようかと少しだけ思いましたが、間に合わなかったので私が開けました!」
言わなくてもいいことまで言いました。
騎士様はしばらく私を見つめていました。
それから、ほんのわずかに目を細めます。
笑った、のでしょうか。
「そうか」
それだけ言って、彼はまた意識を失いました。
「えっ。ちょっと。待ってください。そうか、ではありません」
私は慌てて身を乗り出しました。
息はあります。
脈もあります。
さっきより、少しだけ強い。
助かった。
たぶん、助かりました。
私は大きく息を吐き、それから目の前の現実を見ました。
森の奥。
倒れている騎士様。
彼の中には、私が組み立てた魔力門。
つまり、この人はもう、私が面倒を見なければならない相手です。
……拾ってしまいました。
とても大きくて、魔力量が洒落にならない騎士様を。
しかも、魔力の錠を開けてしまったので、制度上は私の弟子です。
「……どうしましょう」
私は呟きました。
「逃げてもいいですかね?」
この期に及んでそんなことを言うと、騎士様の手がぴくりと動きました。
「ひゃっ」
冷えた指が、私の手首を掴みました。
外そうとしても、びくともしません。
意識はないはずなのに、まるで何かを確かめるように、私の脈の上を押さえているのです。
心臓が、変な音を立てました。
「あの……騎士様?」
当然、返事はありません。
ただ、彼は目を閉じたまま、私の手首を掴んで離しませんでした。




