第60話「今日の良かったもの」
再開準備中の宿の帳場には、俺たちの葉の印がついた看板がかかった。そこを出る時、俺は押し葉と土産話帳が袋にあるのを確かめた。
ザクッ、ザクッ。
俺は落ち葉を踏みしめながら急な山道を登っていた。
大きく息を吸い込むと、澄み切った冷たい空気が肺を満たす。灰色の『飢えの風』が消え去った世界には、豊かな土と緑の匂いが満ち溢れていた。
木々の間から、見慣れたボロ小屋が見えてきた。
屋根には苔が生え、煙突からは細い煙が立ち上っている。世界を救った英雄の帰還先としてはあまりにもみすぼらしいが、俺にとっては、この世のどこよりも落ち着く場所だった。
「おい、爺さん!」
俺が戸を勢いよく開けると、囲炉裏の前で胡坐をかいていたベレンの爺さんが、ゆっくりと顔を上げた。
「……遅いぞ、カイ。先に着いて火を熾したら、湯が二度も沸いたわい」
「悪ぃ悪ぃ、麓でちょっと美味そうな木の実を見つけてよ。ほら、土産だ」
俺は籠いっぱいの木の実を土間に置き、爺さんの向かいにどっかりと腰を下ろした。
「ミナたちのところは、もうよかったのか?」
「ああ。宿の掃除は当番を決めてきた。俺は……あんたとの約束を果たすために帰ってきたんだ」
俺は囲炉裏の火にあたりながら、ニッと笑った。
「七つの節点を巡って、その土地で『一番いいもの』を見つける。……土産話、全部持って帰ってきたぞ」
俺はパチパチと爆ぜる火の音を聞きながら、旅の記憶を一つずつ、ゆっくりと語り始めた。
商都ミルヴァで、最初の銀貨を握りしめて買った『塩』の話。
河港リュドの増水した河原で、みんなで囲んだダインの『鍋』の話。
王都グラードの地下で知った、たくさんの人の備えで成り立つ『無料の水』の話。
鉱山都市カレドで、ザザが未来へ残すと決めた『金槌が直った音』の話。
供給都市オルムで、多数決じゃなく、ミナが『違う意見を言ってくれたこと』の話。
旧断流点の谷底で、逃げた爺さんが自分の足で『戻ってきたこと』の話。
そして。
世界樹谷で、中央も地方も関係なく、みんなが『持っているものを渡したこと』の話。
俺が七つの土産話を語り終える頃には、外はすっかり暗くなり、小屋の中は囲炉裏の赤い光だけになっていた。
「……なるほどな」
爺さんは目を閉じ、ふうむ、と深く頷いた。
「お前がこの数ヶ月で、どれほど多くのものを見て、どれほど多くの人と関わってきたか、よくわかった。七つの節点を結び、世界を救う力を引き出したのは、間違いなくお前自身の『足るを知る』力じゃった」
爺さんは目を開け、真剣な顔で俺を見た。
「立派になったな、カイ。わしの教えなどとうに超えて、お前は自分自身の答えを見つけたのじゃ」
「へへっ、照れるな」
俺が鼻の下を擦っていると、爺さんは突然、眉根をぐっと寄せて身を乗り出してきた。
「じゃがな! わしはどうしても、一つだけ納得がいかんことがある!」
「なんだよ、急に」
「お前のその、七つの土産話じゃよ! 鍋とか、違う意見とか、繋がりとか、後半は立派なことを言っておるが……最初の第一葉が『塩』じゃったというのは、どうしても納得がいかん! あれだけ苦労して旧ギルドの倉庫を開けたのに、一番いいものが塩て! もっと他に気の利いたものがあったじゃろうが!」
「なんだと!? あの時は本当に塩が一番欲しかったんだよ! 初めて稼いだ金で買ったんだぞ!」
「馬鹿者! 普通はもっとこう、立派な剣とか、魔道具とかを選ぶものじゃろうが! お前の食い意地がすべてを台無しにしておるわ!」
爺さんが杖を振り回して文句を言い、俺が「塩の美味さがわからないなんて、爺さんは舌がバカになってるんだ!」と怒鳴り返す。
相変わらずの、しょうもない言い合い。
でも、それがなんだか無性に心地よかった。
「あー、食った食った」
俺たちが持ち寄った木の実と、爺さんが焦がさずに煮込んだ野草のスープを平らげると、夜はさらに深く、静かになった。
「さて。そろそろ寝るかの」
爺さんが立ち上がって布団を敷こうとした背中に、俺は声をかけた。
「なぁ、爺さん」
「ん? なんじゃ」
「『三つ数え』、やろうぜ」
俺の言葉に、爺さんの手がピタッと止まった。
俺が小さい頃から、毎晩必ずやらされていた、今日の良かったものを三つ数える習慣。
俺は囲炉裏の灰を棒でつつきながら、静かに尋ねた。
「俺が小さい頃さ。爺さんは一緒に数えてくれたけど、いつも一つ目と二つ目は普通に言って、三つ目だけは毎回モゴモゴ言って誤魔化してたよな。旧断流点で聞いた時も、結局はぐらかされた」
俺は顔を上げ、爺さんの背中を見た。
「もう逃げなくていいだろ。……教えてくれよ。あの三つ目は、本当は何だったんだ」
爺さんはしばらく黙って布団の上に座り込んでいたが。
やがて観念したように、小さく息を吐いた。
「……お前も、しつこい男じゃな」
爺さんは俺の方へ向き直り、少しだけ照れくさそうに、しわくちゃの顔を歪めた。
「わしの三つ目はな。昔から、ほぼ必ず決まっておったのじゃ」
「決まってた?」
「ああ。……『カイがいる』。それが、わしの毎日の、三つ目の良かったことじゃった」
俺は、棒で灰をつつく手を止めた。
「わしは四十年前、自分の決断で多くの命を奪い、恐ろしくなってこの山へ逃げた。何も持たず、誰とも関わらず、ただ罪悪感の中で死んでいくつもりじゃった」
爺さんは、懐かしむように囲炉裏の火を見つめた。
「じゃが、十八年前のあの日。わしはお前を拾った。お前を育てる毎日は、罪人であるわしにとって、あまりにも楽しすぎたのじゃ。だから、毎日お前の前で『カイがいてくれて良かった』などと口に出せば、自分が許されたような気がして……それが怖くて、いつも誤魔化しておったのじゃよ」
俺は、何も言えなかった。
捨てた人のことはわからない。誰の血を引いているかも、たぶんこれから先はわからない。
でも、爺さんにとって俺は、逃げ場所なんかじゃなかった。ただ、俺がいることを、毎日の『良かったこと』として数えてくれていたんだ。
「ちなみに、お前を拾った日の三つは、今でもはっきりと覚えておるぞ」
爺さんが、優しい声で言った。
「一つ目は、『雨が止んだこと』じゃ。ひどい土砂降りじゃったからな」
「……二つ目は?」
「二つ目は、『お前が雨宿りしていた葉っぱが、とても大きかったこと』じゃ。あれが小さければ、お前は凍えて死んでおったじゃろう」
爺さんは目を細め、俺の顔を愛おしそうに見つめた。
「そして三つ目は……『赤ん坊が泣いたこと』じゃ。……お前が、生きていたことじゃよ」
囲炉裏の火が、パチッと爆ぜた。
俺の胸の奥で、ずっとつっかえていた何かが、温かいものに溶けて流れていくのを感じた。
熱を出した夜に背負われたことも、鍋を焦がして二人で笑ったことも思い出す。爺さんは一度も三つ目を言わなかっただけで、毎日そこにいた。
「……さて」
爺さんが、照れ隠しのようにわざとらしく咳払いをした。
「今日のお前の、三つ目はなんじゃ、カイ」
俺は鼻をすすり、袖でゴシゴシと目を擦った。
「一つ目は……飯を食ったあとに、こうして温かい火にあたれることだ」
「うむ。良いことじゃな」
「二つ目は……ミナやダインたちが、王都の街で俺の帰りを待っててくれることだ」
「……そうか。良い仲間を持ったな」
俺は立ち上がり、大きく伸びをしてから、ニカッと笑った。
「三つ目は……『帰る家が、二つできたこと』だ!」
所持金0で、魔力も0で、葉っぱ一枚だけを持って旅に出た俺。
街の贅沢に驚き、美味いものを食い、仲間と喧嘩して、世界を救った。
街の宿には自分の金を出した。山の小屋には自分の足で帰ってきた。どちらも、俺が帰りたい場所だ。
「……そうか」
爺さんは心底嬉しそうに目を細め、布団に横になった。
「ならば、いつでも帰ってこい。……ただし、塩より美味い土産話を持ってな」
「うるせえ! 次こそ絶対に塩の美味さをわからせてやるからな!」
俺は笑い飛ばし、囲炉裏の火を消して、自分の布団に潜り込んだ。
山にも、街にも、帰る場所がある。明日は麓でミナへの土産を選ぼう。高いものでなくていい。彼女が欲しいものを、今度は先に聞く。
何も持っていなくても、世界はこんなにも、幸せに溢れている。




