第1話「葉っぱは通貨じゃない」
「葉っぱは通貨じゃない!!」
門番に怒鳴られるのは、もう少し後のことだ。
山を下りて三日目。俺、カイは商都ミルヴァの門前で立ち止まった。屋根が何枚も、何百枚も重なって見える。山の小屋では雨が降るたび寝床をずらしていたのに、ここでは通り一本が丸ごと雨宿りできそうだった。
「すげえ。雨が降っても、みんな寝床を動かさなくていいんだな」
師匠のベレンからは大陸有数の物流拠点と聞いていた。でも、俺にはまず屋根の街に見えた。
荷車を避けて、街の正門へと続く列に並ぶ。旅人や商人たちの熱気と、見たこともないような荷車の数々。何もかもが楽しい。
やがて俺の番になり、革鎧を着た門番の男が気怠そうに手を差し出してきた。
「入市税、銅貨三枚だ。身分証はあるか?」
「銅貨? そんなものはないぞ」
俺が胸を張って答えると、門番はピタリと動きを止めた。
「……は? お前、一文無しでこの街に来たのか?」
「そうだ。金はない。でも安心してくれ、爺さんから大事なものを持たされてるんだ。これなら通れるだろ」
俺は腰の袋から、大事に布で包んでいた『それ』を取り出した。
分厚い常緑樹の葉を、透明な樹脂でカチカチに封じたものだ。葉の表面には何やら複雑で古い刻印が刻まれている。師匠が「これを持っていけ。街に入るにも宿に泊まるにも、これが役に立つ」と真顔で言っていたのだ。
俺が自信満々にその押し葉を差し出すと、門番は数秒間それを見つめ、やがて顔を真っ赤にして怒鳴った。
「葉っぱは通貨じゃない!!」
「えっ、違うのか!?」
「当たり前だ! なんだその妙に手の込んだ葉っぱは! 銅貨三枚も払えない奴は街には入れん。とっとと山へ帰れ!」
おかしい。師匠のやつ、絶対にこれでいけると言っていたのに。
俺が押し葉をまじまじと見つめ直していると、不意に門の奥からただならぬ怒声と悲鳴が響き渡った。
「ど、どけ! 馬が暴走した!」
「違う、魔物だ! 森から迷い込んだ角猪だぞ!!」
見れば、果実を山積みにした商人の荷車に向けて、巨岩のような体躯をした角猪が猛烈な勢いで突進してくるところだった。
本来は森の奥にいるはずの獣だが、何かに驚いてパニックになり、街の大通りを直線に駆け抜けてきている。このままでは荷車に激突し、周囲の人間も巻き込まれる。
「ひっ……!」
門番が腰を抜かし、人々が逃げ惑う中、俺は静かに目を細めた。
俺の目は、山で培った『残り見』の癖がついている。足跡の深さ、風の向き、地面の硬さ、そしてその場に残っている使える力を一瞬で把握する技術だ。
角猪の踏み込みがわずかに右に偏っている。荷車を縛っている太い麻縄には強い張力がある。そして門の隙間を吹き抜ける、一陣の風。
「――少し、借りるぞ」
俺は体内の魔力を使わない。師匠によれば、俺の魔槽は測定器に映らないほど小さいらしい。
俺が使うのは《環流術》だ。そこにある流れを、短時間だけ己に通して、放つ。持つのではなく、借りる魔法。
タッ、と地面を蹴る。同時に、門を抜ける『風の勢い』を足裏に借りた。
体が羽のように軽くなり、一足飛びで角猪の横腹へ肉薄する。
驚いた角猪が牙を振り上げてくるが、俺は『地面の弾性』を膝に借りて空中へ跳躍。猪の頭上を越えながら、荷車を縛っていた太い麻縄を引き抜く。
空中で縄を輪にし、猪の太い首へ投げ掛けた。
「ほっ!」
着地と同時に、今度は『縄の張力』と『角猪自身の突進力』を借りて、流す。逆方向へ無理に止めるのではなく、猪の力をそのまま円運動に変換して地面へと叩きつけた。
ドゴォォン!!
凄まじい音と共に角猪は地面を転がり、白目を剥いて気絶した。
静寂が落ちる。
俺は息を一つ吐き、術の最後の工程を行った。
「返すぞ」
足元から借りていた風を空へ逃がし、地面の弾性を土へ戻し、縄の張力を緩める。借りたものは返す。それがこの術の絶対の掟だ。周囲の空気が一瞬だけ元の位置に戻るような、わずかな揺らぎのあと、世界は日常の物理法則へと帰還した。
「……す、すげえ」
誰かが呟いたのを皮切りに、門の周囲からワッと歓声が上がった。
「助かった……! あやうく全財産の果実がオシャカになるところだったわ!」
荷車の持ち主らしき、赤茶色の髪を二つに結んだ少女が駆け寄ってきた。年は俺と同じか、少し上くらいだろうか。商人らしい身なりの彼女は、気絶した角猪と俺を交互に見て、目を丸くしている。
「あんた、魔法使い? 杖も詠唱もなかったけど」
「いや、山育ちだ。そっちこそ、怪我はないか。荷も無事か?」
俺が笑って縄を返すと、少女はハッとして自分の懐をごそごそと探り、銀色に光る硬貨を一枚、俺に差し出した。
「あ、あたしはミナっていうの。命の恩人にタダってわけにはいかないわ。これ、受け取って」
その硬貨を見た瞬間、俺の全身に雷が落ちた。
「こ、これ……! いいのか!?」
「ええ。銀貨一枚くらい、果実を全部ダメにするのに比べたら安いものよ」
俺は震える両手で銀貨を受け取り、天に掲げた。
「塩が買える! この一枚で、袋入りの塩を!」
「……は?」
ミナが素っ頓狂な声を上げた。
「山じゃ、塩なんて岩塩を削るか、月に一度行商人が来るのを待つしかなかったんだ! それが、これがあれば街で、いつでも、袋に入った白い塩が買える! なんて素晴らしい日だ!」
俺が本気で歓喜の涙を流していると、ミナはドン引きしたような顔で数歩下がった。
「あんた……どんだけ貧乏な暮らししてたのよ。同情するわ」
「貧乏? そうか? 俺は毎日楽しいぞ」
俺の言葉に、ミナは少しだけ呆れたようにため息をついた後、俺の腰の袋から覗いている野草に目を留めた。
「ちょっと待って。その袋の草、虫よけだけに使ってるの? 薬屋に持っていけば買い手がつくものもあるわよ」
「ん? これか? 山じゃ虫除けにしてるただの葉っぱだぞ」
「やっぱり。あんたの腕と野草の知識、仕事になるわ」
ミナの目の色が変わった。商人の目だ。
「あたしと一緒に来なさい。あんたの利益が最大になるように、あたしが帳簿を管理してあげる。もちろん手数料はもらうけどね」
よく分からないが、塩を買う金が増えるなら断る理由はない。
「よろしく頼む、ミナ!」
ミナは俺の銀貨を銅貨に両替した。一枚で銅貨百枚になるという。三枚を入市税として取り分け、残り九十七枚を小さな財布に入れて俺へ渡した。
「税金は自分で払いなさい。残りはなくさないでよ」
俺は門番に銅貨を渡した。押し葉は通貨にならなかったが、銀貨はちゃんと使えた。
その日の夜。
屋根のかかった荷捌き場の片隅で、夜警に一晩だけ場所を借りた。屋根の端から星が見える。ミナに安宿を勧められたが、今夜だけは財布の銅貨を使わずに済む。毛布を巻き、星空を見上げた。
「……さて。今日の良かったもの三つ」
毎晩、師匠のベレンに言われていた習慣だ。今日一日で良かったことを三つ数えてから寝る。
「一つ。屋根がたくさん見られたこと。雨が降っても平気そうだ」
指を一つ折る。
「二つ。塩を買える銀貨が手に入ったこと。ミナって奴もいい奴だった」
指を二つ折る。
そして、三つ目。
俺は師匠の顔を思い浮かべた。あの偏屈な爺さんは、一つ目と二つ目は普通に言うくせに、三つ目になるといつも顔を背けて、もごもごと言葉を濁していた。
『ええと、その、あれだ。……三つ目は、まあ、あれじゃ』
そんな調子だ。
「どうせ『今日の鍋がうまくできた』とか、そんなとこだろうにな」
俺は一人でクスクスと笑った。だが、笑い声が夜の荷捌き場に吸い込まれると、急に周りが広く感じた。
いつも隣にいた爺さんのいびきが聞こえない。少しだけ、ほんの少しだけ、薄い寂しさが胸をかすめる。
「……三つ目は、俺が自分で見つけるさ」
七つの葉印がある地図。その一番目である『第一葉』の場所は、この街のどこかにあるはずだ。
俺は押し葉をぎゅっと握りしめ、目を閉じた。




