001 邂逅のハラスメント
プロローグ
みんなは、誰か、あるいは何かに名前を付けたことはあるだろうか? 名前はそのものの「存在」を確立させる強力な記号だ。
僕の名前は、壱臣暁彦。親から付けてもらった名前だ。この名前のおかげで他者は僕を「壱臣暁彦」として認識している。
これは、この無菌室のようなノイズまみれの世界で、一人の少女に「名前を付ける」――そんな出来事から始まった、僕による観測の物語だ。
邂逅のハラスメント
その日の朝は、メッセージの通知音から始まった。 出勤の準備をしながら手元のデバイスを確認すると、マザー(コンピューター)からのメッセージを受信していた。
『出勤したら、執務室に来るように』
端的に書かれたメッセージが表示された。 直接執務室に呼び出しとは珍しいな。 何かミスがあったか、一瞬考えたが特に思い当たらない。
「まあ、行けばわかるだろう……」
そんな独り言を漏らし、僅かな胸騒ぎを覚えながら、手早く支度をして庁舎へと向かうことにした。
『広域管理都市YAMATO』統制管理局。 荘厳な威圧感を誇る白い庁舎――ここが僕の職場になる。
重たい足取りで地下に降りるエレベーターへ向かっていると、不意に後ろから、聞き覚えのある、そして僕にクレームを入れるのが日課でもあるかのような声色で呼び止められた。
「あらあら、管理権限代行官様ともなると、こんな時間に優雅にご出勤ですか? 羨ましいですね」
……はぁ、声の主の正体はわかっている。だが、後ろを振り向くのが凄く憂鬱だ。
「勘弁してくれ、来栖。昨夜遅かったんだ。時差出勤だよ、マザーには許可をもらってる」
振り向くとそこには当然、来栖葵が腕を組み、眼鏡から覗くやや呆れた目でこちらを見ていた。
彼女とはいわゆる同期というやつで、部署は違うが、何かと面倒を見てもらっているので無碍にはできないのだ。
「ふん、マザーはあなたに甘いのよ」
口を少し尖らせて彼女は悪態をつく。 ジロリと睨みをきかせた仕草から、追撃の言葉が飛び出す前にエスケープを試みる。
「てか、ごめん! 僕、朝一でマザーの執務室に呼ばれてて……」
来栖は益々面白くなさそうな顔で文句を言いたそうだったが、諦めたらしく、
「ああ、そうなの? だったら早く行けば? あと、この前の報告書がまだ上がってきてないから早めに提出してよね!」
ああ、報告書か……忘れてたわけじゃないけど、後回しにしてたな。
「分かった、今日中には提出するよ」
そう伝えると彼女は踵を返し、手を上げて去っていった。
来栖の後ろ姿を見送り、気持ちを切り替える。あまり遅くなると、またマザーに僕を責める口実を増やしてしまう。
エレベーターに乗り込み、鼓膜の圧迫感と不安を感じながら、地下へと降りて行った。
「管理権限代行官様か。好きでやってるわけじゃないのにな……」
部下一人持たせてもらえず、夜遅くまで走り回る。要は、体のいいマザーの小間使いだ。
そんな益体のないことを考えているうちに、「執務室」とプレートの貼られた部屋の前に立っていた。
「今度は何を言われることやら」
憂鬱な思いを振り払い、厳重に幾重にもロックされたセキュリティを解除して部屋の中へと続く通路を進んでいった。 最後の扉の前で生体認証のチェックを終えると――ガシャン、と電子ロックが解除され扉が開く。
「壱臣……入ります」
ややダウナーな声色になりながら入室する。
部屋の中は白で統一されている。この広域管理都市YAMATOの中枢を担うマザーコンピューター「HM-K02」、通称「マザー」。彼女の潔癖さを表すようだ。
部屋の中央に一人の女性型ヒューマノイドが座っており、その後ろには巨大なメインコンピューターがそびえている。
マザーが僕に言葉をかける。目元はバイザーで覆われており、表情は読めない。
「暁彦、相変わらずお前は覇気が無いな」
「はぁ……低血圧なもので、すいません」
入室早々に詰られる。挨拶代わりのようなものだ。
「まあ、いい。実はお前に頼みたい事があってな。頼みというより、もちろん命令だが」
口元をニヤリとさせ、獲物を弄ぶかのような態度のマザー。
とりあえずミスの類を責められるような内容ではなさそうだけれど、さらに厄介そうな感じがするな。
「暁彦、言葉にしなければいいというものではないぞ。表情で何を考えているか分かるからな」
マザーの前では内心の自由は無いようだ。一応の取り繕いを試みる。
「アハハ、今日もお綺麗なマザーのご尊顔を拝見できて幸甚の至りです」
「……覚えていろよ、お前。まあ、いい。私の一分一秒はお前の来世分の時間を足しても到底釣り合わないのだ、本題に入ろう。こちらに来なさい」
どうやら、僕とマザーの時間軸は修復不可能な程ズレているらしい……。そんな考えに気を取られていると、一人の少女が歩いてくる。
一定の歩幅で、真っ直ぐに、僕を見つめながら、近づいてくる。
「紹介しよう、この子は私の後継モデルとして開発された試作機『IY-O03』だ。この子の教育係として、お前の業務へ同行させてやって欲しい」
教育係!? 予想の斜め上を行く命令に頭が追いつかず、とりあえず反論を試みる――これは僕の癖だろう。
「僕が教育係ですか? しかし、荒っぽい現場に行く時もありますよ?」
「問題ない。見た目は少女型だが、身体能力は大人顔負けだ。前々から部下が欲しいと言ってたじゃないか? 丁度良いだろう?」
……はぁ、マザーは人の心が分からぬ……。 部下が欲しいというのは、自分の仕事をテキパキとこなし、僕が楽になるために欲しいのだ。一から仕事を教え、育つ頃にはマザーの元に帰るであろう、教え損な部下というのはただの負担にしかならない。
「暁彦、余程スコアを下げられたいらしいな」
市民の生命線であるスコアへの脅迫を受けて、流石に僕もこれ以上は食らいつけないなと観念する。スコアの低下はそのまま生活水準に直結するのだ。
一方の少女は、少し僕を見上げるように天真爛漫そうな笑顔を向け、やや甲高い声で、
「IY-O03です、よろしくお願いします!」
彼女の笑顔を見て毒気を抜かれたわけではないが、可愛らしい笑みを浮かべる少女に挨拶を返す。
「あ、ああ、こちらこそよろしく。お嬢ちゃん」
少女は、目を見開く。心外だと言わんばかりに……。
「信じられません! 私のようなレディに対してお嬢ちゃんだなんて、ハラスメントです!」
ああ、この子もそっち側の存在なのか……。 どこか演技っぽい怒り顔の少女を見ながら、無情な思いが脳内を駆け巡った……。




