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 夜煌と璃華が初めて会ったのは、いまから約半年前。雪の名残が残る、森の中の忘れられた神殿での事だ。

 雪が降ると決まって夜煌が訪れていた神殿へ、璃華がやって来たのが始まりである。

 最初は関心もなく遠くから彼女の姿を見ていただけだったが、その少女があまりにも神殿の中で迷うので、彼はほんの気紛れを起こして彼女の前へ姿を現し、神殿の奥へと誘った。

 その時の姿が人でも魔族でもなく、白い猫としての姿だった。

 その頃、彼は人界へ下りる時には魔法で猫の姿をとる事にしていた。そうすれば、誰に見つかったとしても簡単に誤魔化せるからだ。例えどのような相手と戦ったとしても負ける気はしないが、彼は極力面倒な事は避ける主義なのだ。

 人の言葉が分かる利口な猫を不思議そうに見ていた少女は、それでも警戒心を出さずに彼の案内に付いてきた。それに若干の呆れを感じながらも、どうでもいいような気分で神殿の最奥へ、神殿が造られた意味と言っていい場所へ導く。

 そこにあったのは巨大な像。蔦が這い、風化されながら微かに雪を纏う女神像。

 世界が灰色にしか移らなかった魔王に、白を与えた情景だ。


『アリア様』


 少女の呟く名で、初めて彼はその女神の名を知った。

 この大陸で祀られている第四の神。楽器を鳴らし、夢を歌う慈愛に満ちた乙女。

 かつて彼がこの世に生まれる前は、この大陸にも神はいなかったという。魔力の無かった大陸を、魔族たちが良いように蹂躙していた時代。その規模は今の比にならず、人間たちにとっては恐怖と絶望に満ちた時代で、魔族にとっては狂喜と欲望に満たされた時代だった。

 それを憂えた神が、人界に祝福をもたらした。

 その祝福は、当時から存在した六つの国にそれぞれ分けられて落ち着き、簡易な結界となった。いまの魔族がそう簡単に人界へと渡ることが出来なくなったのは、それゆえだ。

 彼が生まれる前の話であるし、その話にもこれといって興味はなかった。人界へ渡る事は、彼にとって難しい事ではないのだ。それ程までに、魔王と呼ばれる彼の力は強い。

 そしてそれも、彼にとってはどうでも良い事だった。

 強くなりたくて強くなった訳ではなく、気づいたら他の者たちより強かったというだけ。魔王の称号も別に欲してはいない。

 だから神という存在にも興味はない。ただ、この女神が居る神殿の静謐で荘厳な雰囲気だけは気に入って訪れていた。


『……綺麗』


 少女の声が聞こえる。それに内心で頷いた瞬間、――――彼の世界がその色を変えた。


 美しい歌声が神殿内に響き渡る。女神を守る神殿を労り、神を讃える賛美歌。

 耳に心地よい旋律が、少女の喉から生まれ落ちているのだと、彼は遅ればせながら気付く。

 心に湧き上がってきたのは、どうしようもないほどの安堵。泣きたくなるほどの安らぎだ。

 今まで経験した事のない感覚は、彼の目の前に世界を広げた。心臓が大きく脈打ち、己の中に流れる冷めていたはずの血が、燃えるような熱を滾らせる。


 目の前の世界はこんなに美しいのだと、そう教えられた。


 少女の歌う歌が終わっても、彼の世界は色褪せず存在し続けた。だから、鮮やかに彩った世界に呆然としていた彼の心はもう、一つの事を決めていた。

 遺跡を出る少女に猫の姿のまま付いていく。神殿が完全に見えなくなる前に、彼女は金茶色の髪を翻して振り返った。


『一緒に来る?』


 彼女は小さな白猫にそう言ったのだ。彼が本当は魔族だという事に気付いていないままで、無邪気に声を掛けてくる。

 無害に見える猫の正体を知った時、彼女は恐れ怯えるかもしれない。それでも良かった。

 一緒にいるなら名前を付けなきゃね。と、少女が軽やかに言う。


『……ヤコウ。うんヤコウが良い! 君の白い毛も、赤い綺麗な目も、夜の闇の中でも見失わずに見つけられそう。だから夜煌』


 夜煌。この名は彼女から与えられたもの。自分が世界と関わった最初の証拠。


『わたしは璃華。よろしくね、夜煌』


 璃華。彼に美しいという感覚を教えてくれた少女の名。世界と関わろうと決めた理由。

 彼女に抱きしめられて初めて、誰かの温もりが心地よいと知った。






 そして夜煌は、それから数ヶ月の間、猫の姿のまま璃華の傍にいた。もしも何事もなければ、ずっと無害な白猫のまま共に過ごしたかも知れないが、それは今から二ヶ月前に起きた事件の結果、唐突に終わりを告げる。

 しかし璃華は、魔族の姿を曝した夜煌に驚きはしたが拒むことはしなかった。それはあまりにも愚かなことだと彼女も分かっているはずなのに、彼女は彼の手を躊躇いなく取ったのだ。


(璃華が俺を意識してないのって、もしかして猫として一緒に居る時間が長かったからか?)


 眠る璃華の髪を梳きながら小さく唸る。

 彼は璃華に恋情を抱いて欲しいと思っている訳ではない。意識してないのなら別にそれで構わないのだけれど、もし夜煌に対してだけでなく、他の男に対しても同じように無防備だったらと思うと心配なのだ。

 柔らかな髪を指に絡めて遊んでいると、不意に部屋の中が暗くなった。顔を上げると、窓から差し込む星明かりが無くなっている事に気付く。

 星は直ぐに明るさを取り戻したが、先程よりもその光は弱く、断続的に遮られる。どうやら少し雲が出てきたようだ。

 夜煌は視線を窓から璃華に戻すと、静かに立ち上がった。掛布を首元まで掛け直し、彼女がしっかりと寝入っている事を確認して、そっと部屋を抜け出す。

 扉を閉め、その扉に軽く背を預け目を閉じる。

 その一瞬で部屋の周りに強力な結界を張った魔王は、真紅の瞳に酷薄な色を湛えて部屋の前から離れた。

 宿から出ると、そこにあるのはさざめくような夜の闇だ。冷たさの混じり始めた夜風が彼の白い髪を揺らす。

 黙って宿の裏に回る夜煌の足音は石造りの路地にさえ音を立てず、璃華が光と例えた白が、雲の間から溢れ出た星光に照らされて冷たい光を放った。


 宿の裏はちょっとした広場になっており、小さな花壇にベンチ、木も植わっている。

 その木の一つに、一人の男が背を預けて立っていた。夜煌を待ち構えていたように悠然と腕を組んでいる。

 木の葉が明かりを遮っているせいで影になって見えない男の顔が、不敵に笑っているだろう事を夜煌は知っていた。

 男は当然のように彼に片手を上げて声を掛けてきた。


「よぉ、久しぶりだな。ルフュゼ」


 ルフュゼとは、夜煌の魔族としての名だ。


「何をしに来た? シェガイザ」


 夜煌にシェガイザと呼ばれた男は、人間目線で言えば夜煌より幾つか上に見える。夜煌よりも高い長身に、どこか甘い雰囲気のある彼とは逆の、鋭い刃を思わせる鋭利な面立ち。

 短く刈った黒髪が雲から覗いた月に照らされた。そこから覗く尖った耳、鋭さを何より印象付ける黒緑の双眸は、夜の中では髪と同じ純粋な黒に見える。


「ご挨拶だな。久しぶりに会ったってのに」

「たかだか十年程度で、何が久しぶりだよ」

「確かにな」


 そう言ってシェガイザはくつくつと笑う。

 何が面白いのか一向に分からない夜煌は、溜め息を飲み込むとシェガイザの向かいの木に寄り掛かって夜空を見上げた。月は既に雲が隠してしまっていた。


「警告だ」


 突如発せられた言葉に視線を戻せば、笑いを収めたシェガイザが夜煌の代わりに空を見上げていた。


「馬鹿な奴らが動き出した。大切なものが出来たんなら、今までみたいに斜に構えてないで用心するんだな」


 馬鹿が誰を指すのかは直ぐに察せられる。魔王の地位を狙う魔族たちだろう。大切なものと言われて思い浮かぶのは、たった一人の顔だ。

 この街に入ったときから、魔族の気配があるのを感じていた。それがシェガイザの言う馬鹿かは分からないが、もとより璃華に手を出させるつもりはない。

 頷く訳でもなく黙ってシェガイザを見ていれば、男の視線がこちらに戻ってくる。にやりと意地の悪い笑顔を浮かべたその表情は、男にとても似合っていた。


「まさかお前が、人間の娘に執着する日が来るとは思わなかったぜ」


 本気で空から槍が降るかと思ったと言って笑い、また彼から視線を逸らす。

 男が見上げている先にある部屋には璃華が眠っている。この男なら、強力に張った結界に気付いているだろう。


「俺も思わなかった」


 シェガイザは他人に興味を抱かない夜煌が、唯一友と呼べる存在だ。友と言っても悪友の分類に入るのだろうが、まともに話せる数少ない者だという事に変わりはない。

 夜煌の何が気に入っているのかは分からないが、反応の薄い彼にも気分を害することなくシェガイザは構ってくる。魔王という存在に近付こうとしている訳ではないと分かっているから、夜煌も特に邪険に扱う事はなかったし、与えられる忠告に耳を貸す気にもなった。


「何がそんなに気に入ったんだ?」

「全部」


 即答するとシェガイザが吹き出した。腹を抱えて笑う友人を見遣った夜煌は、そこまで可笑しな事かと首を捻った。


(せいぜい西から太陽が昇った程度だ)


 つまりそれがあり得ない事だという事は、夜煌にはどうでもいいことだ。

 あり得ない事でも、実際それが起こってしまったのだから。


「彼女といると世界が変わるんだ。綺麗なものに思えてくる。全ての事に意味があるんだと思うんだ」

「意味? 世界に?」

「そう」

「ふ〜ん。……まぁ、お前がそう思うならそうなんじゃねえの?」


 面白そうに、にやにや笑う男に、夜煌は黙って頷いた。

 この感覚を魔族であるシェガイザに理解されるとは思っていない。だが否定しないでいてくれる事が意外に嬉しいという事実に、自分でも驚いた。

 シェガイザとは確かに友人なのだが、彼に何を思われようとも以前の自分ならどうでも良かったのだ。

 璃華と共にいる事で、自分が変わっていく事を自覚する。それは思っていた以上にくすぐったく、心地の良い変化だ。

 そう思ったらすぐに璃華の傍に行きたくなった。彼女は寝ていて話せるわけでもないが、ただ傍に存在を感じていたい。


「用件はそれだけ?」

「おう、それだけだ。じゃあ、またな」


 だから他の用事はないのかと聞けば、シェガイザはさっさと夜煌に背を向けた。一瞬の魔力の波動の後、その姿が空間に掻き消える。

 残された夜煌は息を吐き出して天を仰ぎ見た。そこに広がる星空は、半年前と明らかに違う輝きを放っている。

 半年前の満天の星空よりも、雲の多いこの夜空の方がずっと明るい。なぜそのように感じるのか、そんなことは考えるまでもない。

 吐き出した息を取り戻すように吸った夜煌は、自分の首筋に刻まれた刺青に触れる。

 誰が来たとしても負ける気はしない。どのような敵も一瞬で屠る事が出来る。

 だが何よりも守りたいものは、彼の絶対の支配下にはいないのだ。天真爛漫に飛び跳ね、自由を踏みしめながら自分の前を歩いて導いてくれている。

 魔王は今、生まれて初めて怖いという感情を味わっていた。それでも傍にいたいと、彼女の命を守りその生き様を見守りたいと、魂が切望している。


 

 部屋へ戻ると、璃華は先ほどまでとまったく同じ格好で眠っていた。規則正しい寝息に彼女が深く眠りに落ちているのを確認すると、その寝台の枕元に腰掛ける。

 夜煌の重みで寝台が小さな軋みを上げ、シーツに新たな皺が加わった。

 星の静寂な灯りが、少女の横顔を照らす。

 夜煌は優しく、璃華の長く柔らかい金茶色の髪を梳いた。



「君が俺を殺すまで、俺が君を守るよ」



 それは彼女の知らぬ、魔王から贈られた静かな誓約。





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