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 名前を呼んだ。本名よりも好きだといって彼が笑った、彼女の付けた名を――。





 どうしてだか喉がひどく熱くなったと思ったら、何かが壁に叩きつけられるような大きな音が響いた。けれど体にはなんの衝撃も痛みもない。

 熱を帯びた喉が切り裂かれた様子もなく、璃華は先ほどと同じ位置で座り込んでいる自分を自覚した。


「……」


 離れたところで、低い唸り声がひとつ。

 璃華はそろりと目を開けた。

 目の前には痩身なのに驚くほど存在感のある背中。毛が逆立つほどの殺気を放ち、眼前の敵を威圧する魔王。


「……夜煌」


 璃華が呼ぶと、夜煌は彼女を振り返ってふわりと表情を緩めた。無防備に敵に背中を向けしゃがみ込むと、彼女の体を抱きしめる。

 目尻に残った涙を親指で優しく拭ってくれた。


「やっと呼んでくれた、璃華。迎えに来たよ」


 ふにゃりとした、でも泣きそうな笑顔。

 切なくなって、璃華はぎゅっと見た目よりも大きな背中を抱き返した。


「くそっ、なめやがって」


 先ほどまですぐ近くにいたはずの魔族は、いまは壁際まで吹き飛ばされている。彼が背にしている壁が抉れていることから、かなりの力で叩きつけられたのだろう。

 憤怒の形相で立ち上がった魔族は、巨大な衝撃波を放ってきた。

 それを一瞥だけでかき消した夜煌を、璃華も魔族も驚きの目で見た。

 この部屋の壁にある夥しい数の魔方陣は、確か魔力吸収の効果があるはずだ。術者以外の何人たりとも、この部屋では無力になるのだと。

 璃華や敵の疑問の視線に気づいて、夜煌は無表情でこてんと首を傾げた。


「この程度で、俺が押さえ込めるとでも?」


 さも当然というように言った夜煌は、璃華を抱きしめたまま彼女の足下にある魔方陣に触れる。


「俺の魔力が欲しいなら、あげてもいいよ。その体が耐えられるならね」


 酷薄に告げた夜煌が、璃華でさえも分かるほど濃密で圧倒的な魔力を手に宿らせる。

 それが魔方陣に流れ込んだ瞬間、魔族が張り裂けるような絶叫を上げた。胸を掻きむしり、目を血走らせ、舌を突き出して必死に喘いでいる。

 そのあまりの形相に、璃華は身を竦めた。怯えた璃華を夜煌がさらに引き寄せる。

 彼の伸ばした指先に、赤よりもなお熱い白い炎が生まれた。炎は瞬きする間に肥大化し、壁を舐めるように滑っていく。

 高い音とともに魔方陣が砕け、呆気なく炎に呑み込まれていった。

 周囲は灼熱の地獄と化している。

 その中心で凍えるほどの殺気を放つ青年の腕の中で、璃華は不思議と恐怖を感じていなかった。むしろ、とても深い安堵を味わう。

 璃華の抱きしめる腕にぐっと力が込められた。驚くまもなく抱き上げられる。

 急に高くなった視界と不安定な姿勢に、慌てて夜煌の肩にしがみついた。


「璃華、すぐに終わらせるからあとでご褒美ちょうだいね」

「え、――――っ?」


 甘えるような声音に目を瞬かせた瞬間、不意の浮遊感とともに視界に曇天の空が広がった。体にほんの軽い衝撃。こちらを覗き込む凱と秋沙の顔。


「え、なに、なに、なんで?」


 混乱する璃華を降ろして、凱はにやっと面白そうに笑う。どうやら璃華は、彼の腕の中にいたらしい。


「嬢ちゃんがいると思いっきり暴れられないからな。こっちに転送されたんだよ」

「璃華、大丈夫?」

「だ、大丈夫だと、思う」


 秋沙に答えながら、璃華は周りを見回した。もちろんそばに夜煌の姿はない。

 璃華が魔族に攫われたときから秋沙たちは動いていなかったようで、少し離れたところでは相変わらずシーカたちが事後処理に忙しなく働いていた。


「みんなには璃華が攫われたこと、言わなかったわ。夜煌さんが必ず助けるからって言うし、騒ぎ立てられても邪魔なだけだと言うのよ」


 璃華はうんと頷いた。

 知らせずにいてくれて良かった。下手な心配をかけてしまうし、シーカといえど人間では魔族とまともにやり合うことは出来ない。

 そう安堵していた璃華だが、秋沙は納得がいかないのか綺麗な眉を寄せて横にいた凱を睨んだ。


「でもこの人たち助けに行くっていいながら、ぜんぜん動かないのよ。かと思ったら急にいなくなって、今度は璃華が宙から降ってくるし」


 秋沙の眇めた目に、凱がうんざりしたように答える。


「だから、あいつは嬢ちゃんに呼ばれんの待ってたんだよ。あの馬鹿魔族と嬢ちゃんがいる場所は分かってても、床に風穴開けて生き埋めにしちまったらやばいし、正確な位置も分からずに飛んで嬢ちゃんになにかあったら大変だろ。だから必死に自制して呼ぶまで待ってたんじゃねえか。その忍耐少しは評価してやったらどうよ」

「そんな風に待ってる間に璃華に何かあったらどうすんのよっ! もっとがむしゃらになんなさいよっ」

「落ち着いてよ秋沙、ね。ねえ凱、呼ぶってなに?」


 秋沙の珍しく怒鳴り散らす姿に驚きつつ、璃華は凱を見上げた。

 さきほど夜煌もやっと呼んでくれたと言っていたが、璃華には意味が分からない。


「あ? 説明されてねえの。嬢ちゃんあいつに従属契約結ばれただろ」

「従属契約?」


 聞き慣れない単語だし、そんなもの結んだ覚えはない。

 頭に疑問符を思い浮かべる璃華に、凱はにんまりと笑いながら彼女の首を指さした。


「あいつの本名を呼んだだろ」

「うん」

「で、体に入った刺青触らされて、嬢ちゃんが付けた名前呼ばされてそれに返事されただろ」

「されたけど」

「じゃあ、それで契約完了だ」

「と言われても……」


 いまいち呑み込めない。

 眉を寄せる璃華に肩を竦め、凱はもう少し詳しく説明してくれる。


「魔族にとって刺青は力の象徴、名は存在の固定化だ。触れさせるということは相手に服従するという意、名を付けさせるというのは相手の所有物になるということ。おめでとう。これであいつは完全に嬢ちゃんのものだ。天下の魔王をこき使えるなんて羨ましいぜ」

「…………お、おめでたくないし、羨ましくない……」

「いいんじゃねえの。あいつが望んで選んだ道だ。もっと気軽に考えとけよ」


 ようやく意味が分かって頭を抱えた璃華と、可笑しくてたまらない様子の凱を見て、秋沙が首を傾げた。


「つまり、夜煌さんは璃華の下僕になったっていうことかしら」

「……下僕」

「まったくその通り! あんた、いい表現するね」


 秋沙のあんまりな表現に絶句した璃華とは違い、凱は非常に楽しそうだ。


「それから、契約するとき喉とかに魔力を注ぎ込まれたろ。それ、簡易召喚の魔法だから」

「簡易召喚?」

「呼び出したいって思って名前呼ぶと、飛んでくるぜ。ちょっとやってみ」


 少し迷ってから、璃華は夜煌を呼んだ。

 喉に熱さを感じたと思ったら、なぜか地面を突き上げるような衝撃と音がして、屋敷の一角から煙が上がった。

 何事だとにわかに騒がしくなった周りに混じって唖然としていると、背中にぬくもりが現れて、背後から長い腕が体に巻き付いた。


「呼んだ? 璃華」


 甘い声で血と硝煙の臭いをさせ、魔王が後ろから璃華の顔を覗き込んできた。







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