16
魔法の波動を感じた瞬間、璃華の背後に見知らぬ魔族が現れた。実力としては遙かに夜煌に劣るが、手際だけはいいらしい。
現れたことを認識した瞬間には、璃華を攫われていた。
夜煌は舌打ちして彼女の魔力を探る。
だがこの屋敷全体がすでにあの魔族の魔力に染められていて、彼女の微細な力を探し出すのは難しかった。
かなり長くこの街に潜伏していたのだろう。最初から狙いは夜煌と璃華だったのか、はたまた全く関係ない目的があってここに居たのか、それは分からない。
だがその魔族は決して手を出してはいけないものに手を出したのだ。
「ちょ、落ち着けよ。お前、この街ごと破裂させるつもりか?」
凱の声に夜煌は息を吐き出した。
彼の怒りに漏れ出した魔力が、かすかに大地を揺らしている。まだ些細な揺れなのでほとんどの人間は気づいてないが、このまま怒りを膨れあがらせると凱の言うように地面ごと破裂させてしまうかもしれない。
「璃華が居るのにそんなことはしない」
「だったらちょっと冷静になれ。嬢ちゃんならたぶん地下だ」
夜煌はもう一度深く息を吐き出して顔を上げた。
なにをするのでも、あの魔族が自分のテリトリーから出るとは思えない。凱が言うのなら、おそらくこの屋敷の地下にいるのだろう。
「ねえ、璃華はどこへ行ったの? なにが起こっているのよ。あの男はいったいなに?」
秋沙が狼狽えたようにまくし立てる。
心から親友を心配して問い詰めてくる彼女を、夜煌はなぜだか無碍に出来なかった。
璃華以外の人間の質問にわざわざ答えてやる必要など感じないのに。
「璃華は俺が助ける。心配しなくていい」
それでも夜煌の言葉は素っ気なく、質問の答えにはなっていない。
苛々した様子の秋沙が夜煌の胸ぐらを掴んで揺すってくる。
「そんなの当然でしょ! そうじゃなくて、ちゃんと私の質問に答えなさいよっ」
「魔王を締め上げるって、すげえ女だな」
「だいたいなんであなたたちみたいなのが、あの子の周りにいるのよ」
秋沙の怒りの矛先は、感心したように口を挟んだ凱に向けられた。
「魔族ってのは基本的に強い者に惹かれる。俺はこいつの様子を見るついでに、魔王が惹かれるほどの嬢ちゃんの強さを見に来たんだよ」
凱の言葉に、夜煌は目を瞬かせた。
「璃華は弱いよ。簡単に死ぬ」
だから怖いのだ。どれほど用心してても簡単に攫われてしまう、失ってしまう。
否定する夜煌に、凱は肩を竦めた。
「肉体はな。人間なんだから当然だ。でもあの魂は、他に見ないほど強いぜ。狂った人間の説得を試みて、弱いくせにキメラの前に身をさらし、なによりお前みたいな化け物を、呆気なく懐に入れちまう」
俺と会ったときもあっさりしてたし、と凱は可笑しそうに笑った。
「お前が惹かれるほどの強さは分かった。俺もそれに敬意を払ってもいいと思った。だからあんとき助けたんだし。いやあ、先回りしてこの屋敷に入ってて良かったな」
つまりこの男は、璃華を見極めるために彼女が関わりそうな事件に先に首を突っ込んでいたらしい。
なんで璃華に惹かれたのか、夜煌は考えたことがなかった。そんなこと考えなくても、彼女の全部に惹かれていた。
けれど凱の言葉は案外しっくりときた。
彼女が全身で放つ魅力は、周りさえ色を変えてしまう輝きは、彼女の魂の強さから来ているのかもしれない。
ふたりの会話に毒気を抜かれたのか、秋沙が夜煌の胸ぐらから手を離した。
「とにかく、璃華は無事なんでしょうね」
「いまはまだ大丈夫なはずだぞ。奴の本当の狙いは魔王だ。人質を簡単に殺しゃあしないだろ」
「ならさっさと助けに行きなさいよ」
「まあそう焦んなって。タイミングってのがあんだよ」
「焦るに決まってるでしょ、この馬鹿! だいたいなんなのよ、あの男。っていうか魔族!」
「ああ、あれはキメラの本当の主人だな。つまり、坊ちゃんにホラ吹き込んだ張本人だ」
「はぁっ!?」
璃華が地下に居るというのなら、安易に床板をぶち抜くわけにもいかない。その場所に通じる階段や道があるかもしれないが、間違いなく罠が仕掛けられているだろう。
相手の正確な位置が掴めないうちは、どうしても慎重にならざるをえない。
ぎゃいぎゃい言い合う凱と秋沙の声を聞きながら、夜煌はひたすら璃華が呼んでくれるのを待った。
急激な魔法の余波による魔力酔いでぐらりとする頭を片手で押さえて、璃華はどうにか顔を上げた。
あまり大きくない部屋の中だ。窓は一つもなく、唯一の出入り口であろう扉には背を預けて立っている男がいた。
尖った耳、間違いなく魔族だ。刺青は、服に隠れているのか確認できない。
部屋の中には家具も装飾品もなにもなく、あるのは床と壁と天井、そして璃華と魔族の男だけだった。
窓もランプもないのに室内をつぶさに見回せるのは、部屋中に描かれた魔方陣のおかげだ。
もともと魔方陣とは、滅多に使うことがないものだ。描くのに時間が掛かるし、その複雑さと面倒くささを思うと威力は低いがもっと簡素で簡単に使える魔法に重きを置くようになる。
だから璃華はこれほどの数の魔方陣を、いっぺんに見たのは初めてだった。
「よぉ、人間。気分はどうだ」
妙に籠もっているのに耳元で聞こえてくるような声に不快さを覚えて、璃華は扉の前に立つ魔族を睨みつけた。
「最悪だよ」
「そりゃあ良かった。魔王がくるまでもう少し待ってろ」
ひひひと笑う男に顔を顰めて、璃華は上体を起こす。
頭が重い。体が怠い。息が苦しい。
自分の体に違和感を覚えて息を吐き出すと、妙に乾いている気がした。魔力酔いのせいばかりではない。
「わたしに、なにしたの」
「なぁんにも。……あぁ、虫けら同然の魔力でも、吸われればわかんのかねぇ」
「魔力?」
自分の中の魔力に意識を向けてみると、驚いたことにほとんど空になっていた。キメラと戦ったときに消費した分を考えても、異様な減り方だ。
残りわずかな魔力も、徐々に体外へ流れだしている。その行き先を見れば、足下の魔方陣だった。壁だけでなく床にまで隙間なく書かれた魔方陣。よく見ればすべて同じ図形だ。
「まさか、この魔方陣って」
「魔力食いの魔方陣さ。せぇっかくこれを素にキメラを作ってたのに、完成間近で殺されちまうし」
「どういうこと?」
「あのキメラは人間の生気を魔力に変換して、俺に還元する媒体だあ」
にたにた笑いながら告げられた言葉に目の前が真っ暗になった。
死んだ人間が生き返るなど明らかに嘘だと思っていたが、領主の息子やその恋人はこの男の私欲に利用されたのだ。
ただもう一度逢いたいと、その想いにつけ込まれて。
「死んだ人間と十四人の女の生気とを材料に、最後に素になった人間全部を喰えば完成だったのに、まさか魔王がこの街に来るとは思わなかったな」
苦々しげに言った魔族は、けれど璃華を見てにたりと嫌な笑みを浮かべる。
「だが魔王は美味しい弱みを持ってやって来た。人間ごときにどんな価値があるのか知らねぇが、最近の魔王はひどく人間の女に執着してるっていうじゃないか。その弱みを手中にすれば、魔王だって下手に手出ししてこれねぇ」
この状況から見て、魔族の言う夜煌の弱みとは璃華のことだろう。
自分が彼の弱点になっていると言われ、璃華は悔しさに歯を食いしばった。
「キメラはいなくなっちまったが、魔王の魔力を吸えば俺も一気に力を付ける。そしたらもぉっともぉっと愉しいことが出来る!」
気分が高揚しているのか両腕を広げ高笑する魔族を睨みつける。
魔力のない璃華には、それくらいしか出来なかった。
「魔王があんたみたいな小者に負けるもんか」
この男の前では夜煌の名さえ出したくない。
璃華は一度、夜煌が呆気なく魔族を倒したのを見たことがある。旅の途中で盗賊に襲われたときは、瞬きしている間に十数人が地に倒れ伏していた。
他人から魔力を吸い取って悦に入っているこんな小者に、彼が後れを取るわけがない。
「人間、この魔方陣の数が見えないのか。たとえ世界最強の魔王だって、あっという間に無力化されるさ」
璃華はぐっと言葉に詰まった。
分からない。確かにすごい数の魔方陣だ。いくら夜煌でも敵わないだろうか。
怯んだ璃華に気をよくしたらしい魔族は、魔方陣のほのかな明かりの中、両手を広げてくるくると回った。
「この一つの魔方陣で普通の魔族は無力化できるんだよ。この部屋は魔王が来てると知って、魔王のために作った特別な部屋だ。全ての魔力を吸われ、俺の前にひれ伏す姿が目に浮かぶなぁ」
嬉しそうに笑う魔族に、璃華は視線を落とした。
夜煌に助けを望むことなんてできない。いつでも呼んでと言われたけれど、彼に来てもらうことを望むことが、彼を死なせることに繋がるのなら、絶対に呼べない。
そう思えば思うほど、縋るように名前を呼びたくなって、璃華は口を引き結んだ。
どうにかして自力で逃げなければ。魔法は使えない。武器は服の隙間に隠した短剣だけだ。たとえ刺し違えてでも。でも体が重い。
そっと短剣を引き抜いた瞬間、手に持った刃は粉々に砕け散った。
「バァカなことを考えちゃいけねえよ。虫は虫らしく、悲嘆に暮れて殺されるのを待ってればいいんだ」
舌を鳴らしながら笑う魔族を涙目で睨み上げた。
(――絶対に泣くもんかっ!)
すでに璃華に残されているのは意地だけだ。
必死に睨みつけてくる璃華をいたぶることに、快感でも感じているのだろう。魔族は扉から離れ、動けない璃華の顔をよく見ようと近づいてきた
「知ってるかぁ? 人間の生気や魔力ってなぁときに驚くほど美味いんだよ。量はないが質はいい。魔王が殺さずに飼ってるくらいだ。お前さん、よほど美味いんだろうなぁ」
璃華を踏みにじるための言葉だ。絶望へ突き落とすために選んでいる言葉だ。
そう分かっているのに、強く拳を握っていないと、内から溢れ出してくるものに抗えそうになかった。
「やこ……彼は、そんなことしない。そんなことのためにわたしと居るんじゃない」
「指の一振りでこの街の人間どもを皆殺しできる魔王だぞ。食料じゃなけりゃ魔王にとって人間なんぞ虫けらと一緒だ。本気で虫けらと共存するわけないだろうがよぉ」
にたりと笑う魔族に眩暈を覚えて、璃華は歯を食いしばった。
(夜煌はそんなことしない。信じてる。彼と過ごした半年は、真実だ)
そう強く思う璃華を嘲笑うように、魔族はなおも揺さぶりをかけてくる。
「それにしても、来るのが遅いなぁ。あの魔族もけっきょく魔王側についたし、とっくにこの場所は分かってるはずだぞ。人間、お前見捨てられたんじゃねえのかぁ」
見捨てられたならその方がいい、夜煌のためには。そう思うのに、どうしてこんなにも胸が痛いのか。
魔族の本質は酷薄で、暴力的で、それこそ彼らにとって人間なんて虫けらと同じだ。
それは分かっている。夜煌だって一緒だ。どうしてだか璃華に興味を持って傍にいるが、その興味がなくなったら、面倒くさい思いが勝ったら、あっさりと捨てていくだろう。
本当は、その覚悟をずっと前からしていなければいけなかった。出来なかったから、考えないようにして、逃げていた。
聞かれたことにはなんでも答えて、興味を持ちそうなものを色々探して、ときに彼に反発してみせながら嫌われていないかと機嫌を伺って。
また独りに戻るのが怖かった。傍にいて欲しかったのは璃華のほう。
頬を一筋、涙が流れた。
「絶望に染まったいぃ顔だ。人間はそうでなきゃな。美味そうだ」
舌なめずりした魔族が手を伸ばしてくる。
爪の伸びた手に顎を取られた瞬間、璃華の頭はかっと沸騰した。
「――ッ、触らないでっ」
この魔族の手は嫌悪感を与えてきた。でも夜煌の手は、いつだって優しかった。
魔族の声は不快感を与えられる。だけど夜煌の声は、からかうときだってあたたかかった。
確かに夜煌は魔王だけれど、彼はいつだって璃華を守ってくれていた。
(違う違う違うっ、夜煌はこいつと同じなんかじゃない!)
遺跡で出会った、雪に埋もれる寂しげな白猫。傍に居てもいいのかと聞いてきた、不安げな瞳。なんでも一緒にやりたいんだと覚え始めたバイオリンの音色。
璃華を見て幸せそうにほころぶ笑顔。
ともにいた時間はまやかしなんかじゃない。自分と彼は間違ってなんかいない。
璃華は魔族の手を払いのけ、怒りのまま睨み上げた。
彼女の意外な行動に、一瞬たじろいだように魔族の動きが鈍る。
「なにも知らないくせに、あんたが彼を語るな! あれは確かに、気ままで我が儘で面倒くさがりで酷く冷酷な顔をすることもある人間じゃない存在だけど、いついなくなるかなんて分かんないけど、いつかはわたしを殺すのかもしれないけど」
迷子の仕草で手を繋ぎ「はぐれないように」と笑った笑顔。「璃華になら殺されてもいい」と言ったときの怖いほど真剣な瞳。「おはよう」「おやすみ」と告げる優しい声。名前を呼べばいつだって嬉しげに振り返った。
そのどれも確かにいままで過ごしてきた日々だ。大切な思い出だ。
それを見知らぬ輩に否定されるいわれはない。
「寂しがり屋で甘えたな、わたしの大事な猫なのよっ!」
力の限り絶叫した璃華に、魔族は一歩二歩と後退った。そうしてから、はっとしたように彼女を睨みつけてくる。
たかが人間の小娘の眼光に後退させられたことは、彼の矜持をいたく傷つけたのだろう。
顔面を赤黒く変えた魔族が忌々しそうに舌打ちをして、己の腕を刃に変形させた。
「魔王の目の前で殺してやろうと思ったが止めた。お前、目障りだ」
血走った目で近づいてくる魔族。相変わらず体は動かない。
最後に一目でいいから逢いたい。声が聞きたい。
璃華は強く目を閉じ、思わず口の中でその名を呼んだ。
本名よりも好きだといって彼が笑った、彼女の付けた名を――。
残り、エピローグも含めて二話です。




