Ep2.死者への追憶
――白坂家、別荘。
夜の静寂に沈む森の奥、併設されたプライベートスタジオに、レオタード姿の玲香が一人立っていた。
照明は落とされ、天井の小さなスポットライトだけが、冷たい床の上に淡い月光のような輪を作っている。
傍らのタブレットには「1023の跳躍候補」が整然と並んでいた。玲香は一度だけ、画面に視線を落とす。
「……輪郭は見えた気がする。あとはエレーヌになりきって、彼女が通った道を辿っていけば、解るかもしれない」
薄光の中で玲香が呟くと、その声は鏡張りの壁に反響し、こだまのように響いた。
彼女はゆっくりと、最初のポーズを取った。磨き上げられた長い手足が、春の陽光を希求する若木の枝のように、しなやかに空間を裂いて伸びていく。
――第一作《黎明の式》
静寂を割って、腕が伸ばされる。
若き日のエレーヌを象徴する、直線的で迷いのない動き。朝の光そのものになろうとするような、瑞々しくも硬質な伸びが要求される。
肺から吐き出される呼吸だけが、少しずつ熱くなっていく。
(はじまり。まだ何も知らない、無垢で力強い生命の芽吹き)
――第二作《白百合の庭》
腕が花弁のように、重力から解き放たれて開く。足先が柔らかな弧を描き、空気を愛撫するように進む。
鏡に映る玲香の影が、淡い百合の影のように、儚く揺れ始めた。
(この作品で、彼女は初めて自分の『色』を見つけた。才能という名の蕾が、開き始めた頃の匂い)
――第三作《水鏡の三相》
氷のような凍結した静止した身体。そこから溢れ出す、水の奔流のごとき跳躍。最後は、熱に焼かれた蒸気のように体を床に這わせる。
玲香の肉体は、舞うごとにその質感を変容させ、ひとつの演目の中で三度生まれ変わった。
(この舞踏譜はあまりに完璧だわ。過去の自分を溶かし、奔流となって流れ、蒸気となって空に舞い上がろうとする、彼女の最初の覚悟の跡ね)
スタジオの温度が、玲香の熱気とは裏腹に、どこか鋭く研ぎ澄まされていく。
玲香の瞳から、自我の光が少しずつ遠ざかり、代わりに「死者の記憶」がその輪郭をなぞり始めていた。
三作目を踊り終えた玲香は、一度立ち止まり、激しく上下する肩を落ち着かせた。
スタジオの隅にある椅子に腰を下ろし、冷えた水を一口、喉に流し込む。
(……この三作で、エレーヌは『天才』の名をほしいままにしたのよね)
汗を拭い、思考を整理するために静かに目を閉じる。
――そのときだった。
静寂しかなかったはずのスタジオの空気が、突如として鳴動を始めた。
玲香の耳の奥で、現実には存在しないはずの音が鼓膜を揺らした気がした。
それは、地鳴りのような歓声。
ホール全体を震わせ、空気を熱く焦がすような、何千人もの観客によるスタンディングオベーション。
割れんばかりの拍手の波が、暗い鏡の向こうから玲香の身体を押し流そうと押し寄せてくる。
「……っ」
玲香は目を開けなかった。開ける必要もなかった。
彼女の意識は今、数十年前の異国の舞台の中央に立っている。
眩いスポットライト。溢れる賛辞。ひざまずく崇拝者たち。
エレーヌ・ベルナールが手にしたはずの、世界最高の栄誉。
だが、その濁流のような祝福の真ん中で、玲香の心臓は凍りつくように冷えていった。
(……誰も……私の心を見ていない)
拍手の音が、遠くなる。
何千人もの人間に囲まれながら、自分だけが氷の中に閉じ込められているような、圧倒的なまでの隔絶。
称賛されればされるほど、足元から「本当の自分」が削り取られ、ただの美しい偶像へと成り果てていく。
(ただ、虚しい……魂が吹き飛ばされそうだ)
それは玲香自身の思考か、あるいは死者の残留思念か。
誰かの、もっと静かで、もっと孤独な悲鳴が、玲香の心の中でこだまのように響き渡る。
玲香は震える手で自分の胸を掴んだ。
かつて栄光の頂点に立った一人の女の思いが、今、玲香の肉体という依代を得て、苛烈な「絶望」として再生されていた。
「……そう。これが、本当のあなただったのね。エレーヌ」
再び目を開けた玲香の瞳からは、先ほどまでの「玲香」としての意思が消えかけていた。
彼女はゆっくりと立ち上がる。
次の一歩は、もはや栄光を求めるためのものではなかった。
深淵へと落ちていく「影」への、最初の一歩を踏み出した。
玲香、あるいは彼女の喉を借りた「誰か」が、低く艶やかに囁いた。
「――Commençons.」
再びスタジオの中央に立った彼女の姿は、もはや先ほどまでの華やかなプリマのものではなかった。関節を不自然に折り曲げ、手足を枯れ枝のように強張らせる。その異様なシルエットが、鏡の中で歪んだ。




