第86話 兄の思い
唇に当たるふわふわな感触。口の中に入れるとすうっと溶け、同時に淡くて甘い味が姿を現したかと思うと、さりげなく消えてしまう。それを追うように、卵と牛乳の優しい味が、口の中でそっと溶けて行った。
「ん~……!」
このようなお菓子は今まで食べたことがなかったので、ロバートは目を輝かせて率直な感想を述べた。
「お、おいしいです……! 生地がふわふわで、ふんわり甘いですね。あと、卵と牛乳の優しい味がします」
感動に目を輝かせている弟の顔を見て、コンラートも嬉しそうに笑う。
「だろう?」
そして彼もぱくりと一口食べて、「おいしい」としみじみと言葉を漏らした。
ロバートは次に、皿に添えられていたアリューチュのジャムと一緒に食べてみる。爽やかな甘さが調和して、すっきりとした味わいになった。
「こっちもおいしいです。どちらの状態ももおいしくて、付けるかどうかも迷いますね」
「ふふっ、喜んでもらえてみたいで良かった。食べさせたかいがあったよ」
暫く二人は黙々と食べていたが、半分ほど食べたところでコンラートが言った。
「屋敷ではさ、あんまりこういう、『ふわっ』としたお菓子って出ないだろう?」
ロバートは少し考えてみる。
確かにおやつに出されるものは、中に色んな木の実の入っている密度の高い焼き菓子や、しっかりと焼かれた固いクッキーが多い。
このようなふんわりとしたお菓子は「あんまり」というよりも、一度も出たことはない。もし、フォルドレーネを食べていたら、しっかりと覚えているはずである。
そのためロバートは正直に答えた。
「あんまり……というより、食べたことがないような気がします。何か理由があるんですか?」
料理人がいるのだから、作り方を知っていても良さそうなものである。
すると、コンラートは苦笑する。
「まあ、料理人には『作ってくれ』って言うと出してくれるとは思うんだけど、父上があまりこういうのを好まないんだよ。口に入れるとさっと消えちゃうんで、食べた気がしないんだって。だからお菓子として出てくるものは、いつも色んな木の実やら乾燥果実が入っている焼き菓子とか、クッキーとかが多いんだよ。美味しいけれどね」
「そっか……。それらは確かに、よく嚙まないといけないお菓子ですね……」
「僕の母上がいたころは、フォルドレーネも時々出してくれたんだけどね」
初めてコンラートが自身の母親のことを口にしたので、ロバートは内心どきりとする。
二人は異母兄弟だ。
コンラートは父から話を聞いていてロバートのことを知っているかもしれないが、少なくともロバートは兄のことをよく知らない。そして、これまで知ろうとしたことはなかった。
コンラートたちからしてみたら、ロバートと母の存在は疎ましかったのではないかと思っていたため、関わらないほうがいいと思っていたのである。
しかし、実際はそうではなかった。
もちろん、お互いが一緒にいた時間は少ないためコンラートに腹積もりがあるのかどうかまでは分からないが、ロバートのことを好意的に思っているし、弟であることを嬉しく思っているのは確かなようである。
そのためロバートは、兄のその心を信じて、少しずつ少しずつ歩み寄っているところだった。
「それは、お義母さまが好きだったから……ですか?」
ロバートが言葉を選びながらそっと尋ねると、コンラートは柔らかな笑みを浮かべた。
「うん、そう。でも、母上が亡くなってからは全然出てこなかったから、多分、ロバートも食べていないんじゃないかと思って」
コンラートの告白に、ロバートはハッとする。
以前から気になっていたことだったのだ。どうして、あの屋敷には「当主の奥方」がいないのだろうか、と――。
父の正妻はコンラートの母親のはずで、本邸にいてよいはずなのにいない。そのため、何か理由があるのではないかと思っていたが、まさか兄も母を亡くしていたと思わずロバートは驚いた。
だが、彼はそれを言葉にはしなかった。まだ、そのときではないように思ったからである。
「はい、食べたことはなかったです。別邸でも、出されたこと、ないです……」
「父上ってそういうところがあるから。だからね、僕はロバートには知っていてほしかったんだ。こういうおいしいお菓子もあるんだよって。そしたら世界が、また広がるだろう?」
ロバートは、ゆっくりと目を見開く。
「兄上……」
この人は、どこまで自分を見てくれているのだろうか。
忙しいだろうに、やることもあるだろうに、どうして――。
「父上のいる場所だけにいると世界が狭まる。自分がいいと思っていることを何でも押し付けてくるから。少なくとも僕はそうだった」
「……」
「確かに父上が用意してくれているものから、享受できるものも沢山あるけれど、それによって苦しいことも沢山あった。今もある。だから、ロバートはその中にいるフリをしながら、上手く父上との距離を取るといい。僕が手伝うから」
コンラートはそう言って笑った。
笑顔の裏に、底知れぬ苦悩があったことを感じる。
きっとロバートに優しくしてくれている裏には、コンラートなりの父への反発があるのだろう。「同じようになりたくない」。そういった思いを感じる。
そして、それを受け止められるのは、弟であるロバートだけなのだ。
ロバートはにこりと笑うと「うん」とうなずくのだった。




