第35話 足りぬ中で
大陸歴一四〇七年五月五日
アルスたちが戻ってきたその日の夜、拠点にはここしばらくなかった種類の賑わいが広がっていた。
火を囲むように人が集まり、持ち寄られた食事が並べられる。新しく加わった者たちも自然と輪の中へ入り込み、誰かが意図して整えたわけでもないのに、不思議と一つのまとまりが生まれていた。
声を張り上げる者はいない。場を仕切る者もいない。
それでも、それぞれが思い思いに言葉を交わしながら同じ時間を過ごしているだけで、この場所に足りなかった何かが少しずつ埋まっていくような空気があった。
アルスは少し離れた場所からその様子を眺めていたが、やがて小さく息を吐くと皆の方へ歩み寄る。
「留守の間、いろいろ大変だったろうけど、ありがとう」
自然に耳へ届く程度の声でそう言うと、何人かが顔を上げた。
「やっぱり、帰る場所があるっていいよな。みんな、ただいま」
軽く笑いながら続けられた言葉に、場の空気がわずかに和らぐ。
「今回のバウムゼン行で、新しく加わってくれた人もいるし、足りなかったものもある程度は揃えられた。実際に見て回ったから分かったことも多いし、全体としては悪くない成果だったと思ってる」
一度言葉を切り、周囲を見渡す。
「ただ、その分、問題も見えてきた。みんなの意見を聞きたいんだ。何か……金を手に入れる方法はないかな」
その一言で、場の空気が静かに引き締まる。
すぐに答えが出る話ではない。
それでも、誰もが何かを考え始めた気配は確かにあった。
しばらくして、最初に口を開いたのはリッキーだった。
「まだ何が有るのか分からんが、余ってるもん売るってのはどうだ」
気軽に出された案だったが、すぐにオットーが首を振る。
「余ってるものが思いつかない。むしろ全部足りてない」
あまりにも現実的な返答に、その話はそこで終わった。
「木はどうだ。いくらでもあるぞ」
今度はヴァルターが別の案を出す。
だが、それにもマティアスが即座に答えた。
「乾かす時間がありません。生木では商品になりませんし、そもそも運ぶ手段もありません」
案が出るたびに、その先にある問題が顔を出す。
そんな流れの中で、次に口を開いたのはティムだった。
「じゃあ狩り増やすか?」
軽い調子で言ったその言葉に何人かが頷きかけるが、同時にレオンが首を横へ振る。
「当たり外れが大きい。それに今は、自分たちが食う分を確保するので精一杯かな」
息子にあっさり返され、ティムの案も沈むことになった。
少し間を置き、今度は別の方向から声が上がる。
「何か作って売るってのはどうだい」
大工の妻の言葉だった。
隣にいた夫が、わずかに顎を引く。
「誰が、何を作る」
それだけで十分だった。
具体的な当てがない以上、話はそこから先へ進まない。
再び流れが止まりかけたところで、遠慮がちに別の声が差し込まれる。
「魚とかはどうなんだ? 水、あるだろ」
孤児の兄の言葉に、何人かが拠点の外へと視線を向ける。
「あ、それいいな。串焼きにして屋台でも出せば――魚なら塩だけでもいけるだろ」
すぐに乗ったヨアヒムの言葉に、アルスは思わず小さく笑う。
「念のため、一応聞くけど……どこで屋台を出すつもり?」
「え? ここで?」
返ってきた答えに、今度は周囲から苦笑が漏れる。
その空気を断ち切るように、ゼダンが口を開いた。
「成立せんわ」
短く言い切り、わずかに視線をヨアヒムの方へと向ける。
「獲る手段がない上に、金が無いと言ってる拠点の中で売ってどうする」
最初は諭すつもりだったのだろうが、最後は怒気が混じっていた。
言葉が途切れ、場に小さな間が落ちる。
その沈黙の中で、ふと小さな声が上がった。
「……皮は?」
視線が一斉にそちらへ向く。
畜産を手伝っていた男の子が、少し戸惑いながらも続ける。
「狩りすれば、肉は食うけど、皮は余るだろ。それって何かに使えないのか。昔、家畜を肉にしたら、皮も売るって言ってた」
一瞬だけ、場の空気が変わる。
だが、それに返ってきたのはやはり現実的な答えだった。
「そのままじゃ金にはならないな」
静かに言ったのはオットーだった。
「鞣さないと、商品としては弱い」
その言葉に何人かが小さく頷く。
「じゃあ、できるやつがいるのか?」
リッキーがそう言って周囲を見渡す。
だが、それに応じる声は上がらない。
その沈黙の中で、ただ二人だけがわずかに視線を交わしていた。
レオンとローザである。
一瞬、何かを言いかけるように視線が動く。
だが結局、どちらも口を開かなかった。
二人は何事もなかったように視線を外し、そのまま場へと意識を戻す。
誰も、そのことには気付いていない。
結局、決定的な答えは出ないまま、場には再び静かな行き詰まりが戻る。
アルスはその様子を見て、小さく息を吐いた。
「……まあ、今すぐ解決策が見つかるような問題でもない」
肩の力を抜くように言い、続ける。
「何か思いついたら、その都度でいいから教えてよ。気付いたことでも何でもいい」
それを合図にするように、場の空気が少しだけ緩む。
誰かが食事に手を戻し、誰かが別の話を始める。
会議のようでいて、会議の形にはならなかったそのやり取りは、結局、答えを見つけることなく終わった。
それでも人は動き続ける。
火は絶えず、食事は続き、拠点には変わらず生活の気配が満ちていた。
だが、この夜の話し合いで一つだけ確かなことがある。
何も解決してはいない。
それでも、自分たちに何が足りないのかだけは、誰にも同じように見えていた。
食事の席は、誰かが明確に終わりを告げるでもなく、ゆるやかに解けていった。
器を手にしたまま立ち上がる者が現れ、それに倣うように他の者たちも腰を上げていく。火の傍に残っていた者たちも次第に言葉を減らし、それぞれが自分の寝る場所へと意識を向け始めていた。
まだどこかに笑いの余韻は残っていたが、それも長くは続かない。薪の爆ぜる音と器を重ねる乾いた音だけが残り、賑わっていた空気は少しずつ夜の静けさへと溶け込んでいく。
新しく加わった者たちも、その流れに逆らうことはなかった。誰かに指示されるわけでもなく、周囲の様子を窺いながら自然と人の後ろについて歩き、どこへ向かうべきかを探している。
やがて、寝床として使われている建物の前へと人が集まり始めた。
中へ入る者もいれば、入口で一度立ち止まる者もいる。わずかな人数の違いでしかないはずなのに、出入り口の前には小さな滞りが生まれていた。
その中で、建物の奥を覗き込んでいたヨアヒムが、ふと声を上げる。
「……あれ、これ全員入れるか?」
気楽な調子のままさらに一歩踏み込み、中を見回しながら続けた。
「俺、外は嫌だな」
軽く笑うように言ってから、奥へ視線を向ける。
「一番奥もらいますね。遅い人は外でお願いします」
その言葉に誰かが笑いかけるが、その笑みはすぐに消えた。
視線が寝床の中と外に立つ人の数を行き来する。
誰も口にはしないが、その場にいる全員が同じ事実に気付いていた。
――足りていない。
アルスは少し離れた場所からその様子を見ていたが、やがてゆっくりと前へ出る。
一度だけ建物の中を見渡し、それから外にいる人数へと目を向けると、小さく息を吐いた。
「……足りないな。そうか、造った時に居た人数が入れるようにしか考えてなかった」
そう言って少しだけ考えるように間を置くものの、その沈黙は長く続かなかった。
「空いてる建物は……」
誰かに確認するというより、自分の中で整理するように言葉を続ける。
「一つは鶏に回してる。残りは二つか」
そこで一度視線を巡らせ、迷うことなく口を開いた。
「ワーラー家で一つ使ってくれ」
突然名を呼ばれたティムが目を瞬かせる。
「え……いいのか?」
「三人だし、今のままだと逆に詰まる」
理由はそれだけだった。
ティムは何か言おうとして口を開きかけたが、結局は小さく頷いた。
「えっと……ありがとうございます」
そのやり取りを見ていた大工の夫婦へ、アルスは続けて視線を向ける。
「もう一つは、二人が使って」
今度は夫の方がわずかに目を見開いた。
「俺たちがか?」
「ああ。建てたのも二人だしね」
アルスはそれ以上語らない。
言葉の裏にある配慮を説明するつもりもないらしかった。
夫婦は一瞬だけ顔を見合わせ、それから静かに頭を下げた。
「……ありがたく使わせてもらう」
それ以上の言葉は必要なかった。
「これでとりあえず、何とかなるかな」
流れのまま話はまとまり、誰も異を唱えることなく寝る場所が決まっていく。
残った者たちも自然と元の寝床へ戻り始め、人が散っていくにつれて、先ほどまで感じられていた窮屈さもいつの間にか解消されていた。
アルスはその様子を見渡したあと、思い出したように口を開く。
「そうだ。ついでに一つ」
大工の夫婦へ視線を向ける。
「明日からは保存庫と道具小屋を作ってくれるかな」
そして先ほどまで皆が食事をしていた場所へ目を向けた。
「物も増えてきたし、このままだとあちこちに散って、どこに何があるのか分からなくなる」
そう言って少しだけ考える。
「それが終わったら、長屋かな」
深く悩む様子もなく続けた。
「人数も増えてきたし、このままだと本当に誰か外で寝ることになる」
それだけ告げると、アルス自身も流れに混じるように建物の中へと向かっていく。
誰かが場所を譲ろうとする気配もあったが、アルスは気にする様子もなく空いている場所へ腰を下ろした。
特別扱いを求めることもなければ、それを当然とする気配もない。ただこの場で暮らす一人として自然にそこへ収まる。
その姿を見て、周囲もそれ以上は何も言わなかった。
やがて灯りが落とされ、交わされていた声も少しずつ途切れていく。
そうして拠点は、静かに夜の中へと沈んでいった。
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