第32話 一杯が変えた景色
ロータスクラブ会場。
「それでは。」
黒服が静かに響二十一年のボトルを持ち上げた。
グラスを軽く傾ける。
とくり。
琥珀色の液体が、クリスタルグラスへ静かに流れ込む。
会場の照明を受け、その色はまるで溶けた琥珀のように輝いた。
「まずは香りをお楽しみください。」
ホテル専属ソムリエが優しく声を掛ける。
張社長はグラスを鼻へ近づけた。
ふわり。
甘い蜂蜜。
熟したリンゴ。
バニラ。
樽由来の柔らかな甘み。
幾重にも重なる香りが鼻を抜ける。
「……。」
張は思わず目を閉じた。
(これだ。)
(二十一年という時間が造った香りか。)
ゆっくり口へ運ぶ。
ほんの少しだけ含む。
舌の上へ広がる甘さ。
その後から、優しい木の香り。
最後に長く続く余韻。
「…………。」
張は静かにグラスを置いた。
「……美味い。」
その一言だけだった。
しかし、その一言には重みがあった。
周囲の社長たちも、それぞれ選んだ酒を口へ運ぶ。
竹鶴二十一年。
「柔らかい……。」
「角がまるでない。」
「これが本物の熟成か。」
白州十八年。
「爽やかだ。」
「森の中にいるような香りがする。」
「和食にも合う。」
余市シングルモルト。
「力強い。」
「煙のような香りが残る。」
「魚料理にも負けない酒だ。」
誰もが感嘆の声を漏らした。
ホテルオーナーは苦笑する。
「参った。」
「今日の甲州ワインには自信があった。」
「だが……。」
グラスを見つめながら肩をすくめる。
「今日は完全に食後酒へ主役を持っていかれた。」
料理長もうなずいた。
「これほど状態の良いボトルを見たのは初めてです。」
ソムリエも続ける。
「保存状態も完璧。」
「香りも飛んでいません。」
「まるで蒸溜所から届いたばかりのようです。」
張はもう一度グラスを眺める。
「こんな酒を。」
「魚人街の店が用意したのか。」
隣の社長が静かに笑った。
「魚屋じゃなかったな。」
「宝箱だった。」
別の経営者もうなずく。
「ブラックプリンス。」
「覚えておこう。」
「近いうちに店へ行ってみたい。」
その頃。
会場の外、待合ホール。
萌香と琥珀はインカムを通して会場の様子を聞いていた。
『響二十一年、大好評です。』
『皆様、とても驚かれています。』
『ホテルオーナー様も絶賛されています。』
萌香は静かに息を吐いた。
「第一段階成功。」
琥珀は猫耳をぴくぴく動かす。
「本当にうまくいったニャ。」
その時、恭子の声がインカムから聞こえた。
『萌香。』
「はい。」
『まだチーズは出さない。』
『酒だけで十分、会場が動いてる。』
萌香は笑う。
「はい。」
「商売は全部一度に見せない。」
『そういうこと。』
恭子は楽しそうに笑った。
『腹八分目で終わらせるから、続きを欲しがる。』
『それが商売さ。』
「勉強になります。」
恭子は会場を見渡す。
名士たちは酒を飲みながら、もうブラックプリンスの話しかしていない。
「ブラックプリンスって何者だ?」
「魚人街へ行ったことあるか?」
「紹介してもらえないだろうか。」
「今度、ホテルでも使いたい。」
その会話を聞きながら、恭子は心の中で笑う。
(狙い通り。)
(商品を売ったんじゃない。)
(“ブラックプリンス”という名前を売った。)
その瞬間だった。
ホテルの料理長が、ワゴンの上に置かれた大きな包みへ視線を向ける。
「……その包みは?」
黒服が微笑む。
「まだお出ししておりません。」
「本日の、もう一つの特別なおもてなしでございます。」
料理長は思わず息をのんだ。
「まだ……あるのか。」
ワゴンの上には、
白い紙に大切に包まれた二つのチーズ。
ブリー・ド・モー AOC。
ロックフォール AOP。
本当の驚きは――
まだ始まったばかりだった。




