聖女、あとメイド
この世界では前世的なテーブルマナーというものはまだ確立されていない。
貴族社会で「指を服で拭かない」「食べ終わった骨を投げ捨てない」「テーブルめがけてくしゃみをしない」といったマナーが唱えられたのはせいぜいこの十年のことで、まだ浸透しているとは言い難い。
料理の出し方も全然違う。
前世の私が想像する貴族の食事というのは、客は席についていて料理は一品ずつ運ばれてくる、というもの。でもここではすべての料理は客が席に着く前にもうテーブルの上に並べられている。
料理は大皿に盛りつけられていて、大抵はホストがそれを小皿に取り分ける。トングもないから手づかみで。
食べ方もやっぱり手づかみ。貴族の正式なマナーとしては、薬指と小指を折りたたんで、人差し指と中指を揃えて、親指とで挟んで食べる。今気づいたけど、お寿司みたいね。ああ、使うのは右手だけ。
それにみんながみんな同じものを食べるわけじゃない。料理は上座から順番に配られて、なくなったらそこでおしまい。
例えばなんだけど、この国では豚より野鳥の方が格が上なので、まず野鳥の丸焼きが切り分けられて配られて、なくなったらそこから先の人には豚のローストが配られる、という感じ。
そんなに改まっていないパーティーだと客は自分の食べたいものの乗った皿を自分で取る。ビュッフェみたいな感じよね。
最初から個別の皿に盛りつけて出すのはこの世界ではメグくらいだ。私がそうするように指導したからだけど。
そしてやっぱりおいしくない!
父と一緒の夕食だけはまだマシだったけど、朝も昼も酷いものだった。
「メーグー! 貴女が作って!」
だから翌朝の私はメグを頼った。
ずっと手伝わせているのでメグはそこそこ料理ができる。もちろん私には及ばないけどね!
メグは微妙な顔をした。
「ご主人が自分でやったらええべや。おさんどん好きだべ?」
「好きだけど、私が作ったらみんなびっくりするでしょう、ここじゃお嬢様なんだから。貴女が作って」
「しょうがねえべなあ……」
重い腰を上げたメグは勝手に厨房に入って、勝手に食材を漁った。料理人は抗議していたけど、腰の強いメグは無視した。
「できたべ、ご主人」
「ありがとう」
二人分の皿を持ってきたメグはそのまま一緒のテーブルに着こうとして、慌てた他のメイドたちに引っ張っていかれた。
「お嬢様、困りますねぇ! 勝手なことをされては!」
仕方ないから一人で食べていたらメイド長がズカズカとやってきた。満面に怒りの形相を浮かべて。
この国では料理は女の仕事で、料理人も全員女だ。つまりこの家ではメイド長の管轄するところだ。そこを私が勝手に料理させたものだから相当イライラしているようだ。
そりゃ誰だって自分の職掌を侵されたら気に入らないわよね。そんなことをされたら誰だって怒る。私だって怒る。
でも、そんなの私の知ったことじゃない。だって私は悪役令嬢、常に自分ファーストだもの。おいしいものが食べたければ作らせるし、お風呂に入りたければ沸かさせるの。
私はメイド長を横目で見て、料理に目を戻してから言った。
「まともなものを作れない料理人が悪いのよ。仕事を取られるのが嫌なら自分の役割はきちんと果たすことね」
「なっ……!」
「私も忙しいの。これから外出するから、部屋を掃除して、布団を干して、シーツを換えて、夜は食べられるものを出しなさい」
「……ッ!」
メイド長は顔を真っ赤にして、足音も荒く去って行った。
私は王宮へと赴いた。今日は聖女との約束の日だ。
久しぶりにドレスに着替えて──ああ、ドレスって言ってもあれよ? ベルサイユ宮殿で着るような華麗なものではないからね? あくまでも中世のドレス。メグにお兄さんを呼んでもらって、自分の馬車で登城した。
王宮も久しぶりね。まあ来たって楽しいところではないんだけど。
控室に通された私はほとんど待つことなく謁見室に通された。謁見室とは言っても外国の使者が陛下にお目通りするような正式のところではなくて、王家の私的な招待に使われる部屋だ。要するにごく親しい人と会うための部屋だ。
そこに聖女が待っていた。
──うわ、眩しい。大きく開け放たれた窓から差し込む光の中で聖女は光り輝いていた。それは太陽の光によるものではなくて内側から溢れる幸福と自信とによるものだった。
この世で一番高貴な方に、私は淑女のものよりも深く頭を下げた。
「お久しぶりにお会いいたしますわね、ルミア様」
「あれからもう一年も経ちますのね、セシリア様。いえ、お姉様……とお呼びしてもよろしいでしょうか」
「もちろんですわ」
私は聖女の手を取った。
「ご結婚おめでとうございます、本当に……。この国の、そして人類の代表として貴女の前には様々な問題が立ちはだかることでしょう。でも、貴女には頼れる伴侶があるのですから。お二人で手を携えて立ち向かえば、どんな困難でも乗り越えられないことはございませんわ。わたくしが申し上げるのは僭越ではございますが、頑張ってくださいませ」
「はい。ありがとうございます」
「日取りもお早くなられたそうで……。きっと幸福を待ちきれなかったのですわね」
ところが、何の気なしにそう言うと聖女は頬をほんのり赤く染めて、私から手を離して、もじもじと左手で右手の甲をさすった。
「あの……その、実は……」
「どうなさいましたの?」
「……はい、実は、その、その……子供ができて、しまいまして……」
「あら……?」
「おなかが目立つようになる前に、と……」
「まあ……それは、おめでとうございます」
「ありがとうございます……」
私は半分上の空で「お二人のお子様なら、それが男の子でも女の子でもきっとお美しくなられますわ」なんてお世辞を言って、聖女も半分上の空でまた「ありがとうございます」と、なんだか恥ずかしそうに俯いて答えた。
うん、これは私の察しが悪かった。結婚式を早める理由って言ったらそれが一番よくあることよね。でも前世は十六歳になる前に死んで、今十七歳の私にそんな察しの良さを求められても、無理強いってものじゃない?
それにしても王子様……。
そりゃ聖女はたくさん産むのが仕事みたいなところはあるけどね……。この子、私より一つ下だから十六歳よね?
もう少し考えましょうよ、王子様……。
聖女もスケジュールがギッチギチみたいで昼食を一緒に、というわけにもいかず、私は退場した。
侯爵邸に戻った私は当日のドレスを用意した。私は聖女の義姉でもあるし、経緯が経緯だけに王家の方で何だか気を使われたみたいで、家族ともども主役と近いところに席が用意されていた。なので入城も会場入場も順番が先の方になる。早めに準備しておかないとね。
またエリザの結婚式に着るためのドレスも選んだ。
それとエレアノールさんからの返事がようやく届いて、エリザの結婚式の翌日に会うことになった。彼女はどうも自領にいたようで、手紙はあっちに回されてこっちまで戻るのに時間がかかったようだ。
よし、これで準備はオーケー。式まで丸々四日も空いてしまったけど、時間をどう潰そうか。一回村に帰ろうかな? ──と思ったけど往復で四日かかるし、無理か。
……あ、いっそ実家に顔を出そうかな? 母の顔もしばらく見ていないし。
うん、そうね。実家に帰りましょう。実家なら無理なく一日で帰れるし。あちらで待たせてもらって母と一緒にまた都入りしよう。
侯爵邸は今日も忙しくて、朝と同じくお昼も期待できそうにない。どうせそんなことだろうと考えていた私は、昨日のうちにアレクに伝えてレストランを予約しておいてもらっていた。貴族が行くようなお店じゃなくて、裕福な商人が行くようなお店を。この世界の基準の、だけど。
貴族用のレストランはアレクが嫌がるだろうし、それに今は全国から貴族が集まっている。多分お客がいっぱいで落ち着いて食べられないと思う。
私はまた馬車に乗って家を出た。ドレスを貴族の平服に着替えて、しゃなりしゃなりと澄まして馬車に乗る。
で、馬車の中でいつもの庶民の服に着替えた。これで庶民のフリは万全ね。
私が着替えるのを見ながらメグがボヤいた。
「どうもなあ、お屋敷の女たちは嫁さが連れてきた女たちが気に入らねえみてえなんだべ」
「嫁さ……エリザのこと?」
「んだ。古い女たちにしてみりゃあ自分らで固まってるところを引っかき回される気がしとるし、新しい方にしたって仕事の邪魔されて不愉快だべな」
「それでケンカ──というか反目しあってるってわけ?」
「まあ喧嘩するくれえならええんだけどな、仕事もサボっとるんだべ。新しいのに押し付けてな。そこへきてまたご主人は嫁さのマブダチだってんで気に入らんでな、掃除も料理も後回し後回しにしたみてえなんだ」
「許しがたいわ……」
馬車はアレクたちが泊まっている宿屋に着いた。ここに預けておいて、後は徒歩だ。
「やあ、お疲れ様」
馬車を降りると待っていたアレクに声を掛けられた。アレクも騎士の旅装を庶民の服に着替えていた。庶民と言っても裕福な商人の息子って感じだけど。
「本当にね。そちらはどう?」
「宿は、まあ、おかげで確保できたよ。とんでもない人出でろくに空いてなかったんだけど、充分頂いていたからね。ただ、食事がね。君の料理に舌が慣れ過ぎた……。君は?」
「強制的にダイエットさせられているところよ」
「ご主人、まだ帰らねえべか? ご主人のメシが恋しいべ……」
「しばらく無理かなー……。ま、今日は期待しましょう。庶民のレストランでもいいところなんだから」
「本当に期待できるかな?」
「心の持ち方ひとつよ」




