侯爵邸
未舗装の田舎道を弾むように馬車が走る。カラカラと軽快に車輪が回る。
深い轍も何のその、いかに四頭立てとは言えこの速さは考えられない。今までの馬車と全然違うわ。
荷馬車はもちろん遅い。貴族用の馬車は壁と屋根がついていて重いので、結局荷馬車と変わらない速度しか出ない。
それと比べたら誇張抜きに倍もスピードが出ているんじゃないだろうか。
私はメグと馬車の中で、小さな窓をいっぱいに開けて、飛ぶように過ぎる景色を眺めていた。
馬車を操縦しているのはもちろんメグの兄だ。真新しい服に身を包んだ彼は何だかすごいやる気を見せている。
アレクは馬にまたがり馬車を追っている。今度は替え馬ではないけど、騎士が駄馬というわけにもいかないので男爵のところで借りてきた。
ちなみに男爵も結婚式に招かれているけど、式の二日前に都入りする予定だそうだ。滞在費を浮かせたいのだろう。
今回の移動は順調だった。いつかみたいに盗賊に邪魔されるなんてこともなく、道は狭いけど前の馬車を何度も追い越して、途中一泊するだけでまだ日が高いうちに私たちは都に入っていた。
すごい、もう着いちゃった。
聖女と王太子の結婚式を控えて都は大賑わいだった。大混雑と言ってもいい。
正門から大通りに──なんて正規のルートではどれだけ時間がかかるかわかったものじゃない。私たちは都の周りをぐるっと回って横から町に入った。
それでもやっぱり道はごった返していて、せっかくの新しい馬車がのろのろとしか進まないものだから、体感では道中よりも都に入ってからの方が長かった。
貴族はそのほとんどが自分の領地を持っている。だからいつも都にいるわけではない、というより大抵は自分の領地にいる。領地経営の方が大切だもの。
でもずっと顔を出さないでいると宮廷のことなんてわからなくなっちゃうから、仕方なく都と往復している。
私の父も自分の領地と都を行ったり来たりの生活だ。兄もそうね。私が王子の婚約者だったし、今は義妹が王太子妃だから、将来は侯爵になるだけではなく廷臣としても働かなければならない。
私の実家は大きかったし──つまり裕福だったし、代々大臣を務めていることもあって必要だったから、侯爵領と都の両方に邸宅を構えている。どちらも貴族の家としての機能を備えた邸宅だ。前世の別荘とは違うの。
門構えはもちろんのこと、メイドから執事に至るまで人員一式を揃えている。警備のための兵士と指揮官としての騎士も詰めている。つまり単純に考えても費用が二倍かかる。
人が来たり招いたり、我が家はどうしても必要だったしそれをする余裕もあった。でもそんな余裕のないお家だって多い。下級貴族でも役職がある場合はやはり都に邸宅を持っているけど、維持管理費が大変らしい。
そうでない場合は、例えば騎士階級だとそこまでする必要はないから貴族用の宿に泊まる。家を構えるよりはマシだけど、それでも旅費も滞在費もかかる。
遠くの領主は移動するだけでも大変だ。遠ければ遠いほど時間も旅費もかかる。だからそういう領地は大抵は分家した男爵とか騎士とかが押し付けられている。例のタナー男爵みたいに。
侯爵領は比較的都に近いとはいえ、やはりこの世界での移動は大変だ。だから母はほとんど侯爵領にいてお城を運営している(邸宅の管理は女性の仕事だ)。弟もこっちにはめったに来なかったわね。
私? 将来は王妃になる予定だったから、婚約してからはずっと都にいた。侯爵領の方が好きだったんだけどね。
ようやく侯爵邸に着いた。ここも久しぶりだわ。王子様と婚約してからの三年間はこちらに住んでいたんだけど、何の感慨もないわね。もうあの田舎の小さな家の方が愛着がある。
出迎えはなかったので門番に伝えて馬車とアレクの馬だけ渡して、二人は町へと消えていった。アレクは貴族の邸宅にはいたくないって言うし。メグの兄は彼の護衛だ。
私はメグをお供に勝手に家に入った。
「ただいま戻りました……?」
中は大混乱だった。
貴族の邸宅だというのに召使いたちは走っているし怒号は飛び交っているしでまるで戦場のようで、とてもじゃないけど他の貴族には見せられないあり様だった。アレクがついて来ていなくて良かった。
我が家の使用人たちは結婚式の準備で忙しいようだ。執事は私の前で頭だけ下げて、すぐに食器がどうのワインがどうの飾りつけがどうの招待客のリストがどうのと確認に戻った。
これでは私の出迎えどころではない。見に行くことまではしないけど、厨房の様子も推して知るべしね、これは。
またエリザの伯爵家から人が来て荷物を運び入れているようだ。知らない顔のメイドたちが荷物を抱えて行ったり来たり、アリの行列みたいに働いている。
彼女たちの流れを見るに、どうやら父と母の居室だったところが兄とエリザの新居になるようだ。二人の間に子供が産まれたら、今の兄の部屋がその子供の部屋になるのだろう。
本来は一か月後が結婚式だったから、余裕を持って新居に慣れる予定だったはずだ。
でも急に早まっちゃったから、エリザの前に父も慌ててお引越しだし、式の準備も忙しいし、あっちもこっちもバタバタしている。
私は荷物をメグに持たせて自室に入った。
おそらく私が出て行ってから一度も開けられたことはなかったのだろう。帰ると言ってあったのに掃除していないようだし。部屋は埃っぽくてカビ臭くて、おまけにじっとりしていた。布団も干されていなかった。
夕方だけど私は窓を開け放って換気した。
「いえね、お嬢様は明日お戻りになられる予定でしたでしょ? それなら直前に干した方が良かろうと、そう考えておりましたのですよ。お早めにご到着ならそうおっしゃってくださればよろしかったのに」
呼びつけたメイド長はちっとも悪びれない顔で言い訳した。
このメイド長は母が嫁入りするときに実家からついてきたメイドの一人だ。
メイドの統括は本来ならばその家の当主の妻の仕事だ。でもここは都の別宅で、私の母は侯爵領の本宅の方で家内の統括や財産の管理をしている。お部屋係はこのメイド長の管轄するところなので、彼女の手抜かりだ。
「それが掃除もしない理由になる?」
「それも直前が良かろうかと」
「私はここにいる間、毎日やりなさいと厳しく申し付けていたはずだけど」
メイド長は面倒くさそうな、何とも嫌な顔をした。
「今すぐシーツを換えなさい。もちろんお風呂の用意もね」
メイド長は表情を消して頭を下げた。
ここのメイドたちには何も期待していない私はメグを伴ってお風呂に入った。何故って淑女は一人では入浴しないことになっているからだ。何でも思い通りになるあの小さな家ならともかく、ここではどこに行くにもメイドが無理矢理ついてくる。
いや、いたのよ? 頼りになるメイドたちが、以前は。でも彼女たちは今は聖女と一緒に王宮にいる。全部あげちゃったからね。ちょっと頼りないけど、今では私の思い通りになるメイドはメグだけだ。
夕食には誰も戻ってこなかった。父はもちろんのこと、兄もどこかに招待されているそうだし、エリザも王宮に上がったまま帰ってこない。厨房も大混乱みたいで、私はボソボソのパンと出汁気のないスープをメグの給仕でモソモソ食べた。
花瓶の中の枯れた花を見るような目でメグが言った。
「お貴族様っつったらいつもええもん食っとるんだと思っとったんだども、今日は百姓より貧しいもん食っとるべな」
「言わないで……」




