涼やかな菱星を時には振り返り
俺の声は君に聞こえているだろうか。
俺が君に言葉を告げる。
君は俺の言葉に耳を傾ける。
だから、俺の言葉は君に伝わっている?
本当に、俺の声は君に聞こえている?
何を不安になっているのだと、思われるかもしれない。
もちろん、俺の言葉を彼女が無視したことなど一度たりともない。
だけど、声がどこまで彼女の中に到達しているか、という話になると、俺はもどかしくて仕方がなくなる。
きっと、俺の声は葵衣の耳の内側のどこかに引っかかっていると思うんだ。
それは、耳を越えて、葵衣の心の淵まで届くことはない。
好きになればなるほど、もっと俺の声を、俺の言葉をどこまでも深く受け入れてほしいと思ってしまう。
なんて悲しい恋の性なのだろう――。
ずっとそばにいたから分かる。
いつからか、俺の言葉は届かなくなったようだった。
俺が葵衣に必死に言葉を紡ぐとしても、忘れ去られる言葉たち。
まるで、届くことのない手紙をしたため続けているようだった。
俺はその届くことのない手紙に、何枚も何枚も切手を貼って、その手紙の価値を高めようとし続けていた。
そんなこと、意味なんかないのに。
愛は年月じゃない、と言われると俺は図星さされて苦笑いするしかない。
「ずっと、傍にいたのに、どうしてこんなに遠い気がするんだろう」
「どうして俺を置いて行っちゃうの?」
そんなこと、言ってみたくもなる。
だけど、その言葉が葵衣の心に届いたとしても、届かなかったとしても、俺は喜べはしない。
悲しませたいわけじゃない、悲しまされたいわけはない。
俺と、葵衣は従兄だったから、ずっと昔から仲が良かった。
俺達の仲は、血のつながりで自然と近くなったように見えるかもしれない。
だけど、ちゃんと二人にだって一般の男女と同じ、始まりの物語がある。
俺が葵衣をちゃんと認識するようになったのは、四、五歳の頃だと思う。
親戚同士の集まり。
家元の家の大広間で、白露流の人たちが一堂に会す日のことだった。
畳の上にずらりと、偉い人も小さい子供も正座させられて座っていた、。
それは子供にとってすごく退屈な時間だった。
暇を持て余した俺は、茶や菓子を持ってバタバタ動き回るおばさんの姿や、他の流派について大人たちが話す様子などを、あますことなく観察していた。
しかし、徹底的に大人の動作はつまらなく、暇つぶしにもならなかった。
その時、若葉色の着物を着た女性の視線が、一人の娘へととまった。
その娘が葵衣だった。
俺は、その女性が葵衣に対して何を面白い事でも言ってくれはしないかと、少しワクワクした心持ちで待っていた。
その時、
「わぁ。久しぶり、葵衣ちゃん今日も可愛いね~」
と女性が言ったのだ。
俺はガッカリした。
大人が子供に言う可愛いなんて、挨拶みたいなものだ。
例えば街中で「おばさん、こんにちは」と挨拶をしただけで「あら、涼君可愛いね~」と返される。
俺が着付けで変なミスをしたときも「可愛いね~」だ。
男の俺でも言われるくらいのものだ。
よほど他に話題がないときに使う手段か、変な空気を誤魔化すときの手段なのだろう。
「可愛いね~、この前も着付け上手に出来たね、可愛いね~」
「いーえ……」
俺はその声に振り返り、葵衣を見た。
葵衣は正座のまま、いーえいーえ、と首をガシガシ振っていた。
その時俺は、失礼ながら、可愛い……か? と首を傾げた。
葵衣の丸々とした頬は上気して真っ赤になり、ゆでだこのようだった。
(やっぱり、大人の可愛いなんて信用できるものじゃないんだな……)
俺はそう思った。
それだけで終わればいいものの、俺はそれ以降も葵衣を見ては考えていた。
あの女性は、葵衣のどこを可愛いと言ったんだろうと、彼女の顔をまじまじ見た。
たぶん、深い意味なんてないのだろうが、俺はやけに気になった。
そして、二週間後、俺は葵衣の虜になっていた。
俺は馬鹿だなあと思った。
本当は、初めて会った時から葵衣が好きだったのかもしれない。
だから、他の誰かが先に葵衣の可愛さに気付いているのが嫌だったんじゃないか。
幼少期の俺は、素直じゃないなあ。
それで馬鹿な男だなあ。
それ以降、俺は葵衣の傍にいたがった。
こうやって隣を死守していれば、これからもずっと一緒に居られるのだと、勝手に思っていた。
でも、ふとした瞬間に気付く。
俺の声が葵衣に届かなくなっていることを。
ある日、葵衣は着付けの稽古のない日、俺が葵衣の家を訪れると、彼女はいなかった。
珍しい事だった。
いつも休みの日は決まって遊んでいたのに、その日葵衣はどうしていたのか。
「おばさん、葵衣は?」
俺は葵衣の母親にそう訊いた。
「え? あらやだ、涼君と遊ぶのかと思ってた。葵衣が走って行くから……」
「ふーん……?」
俺は彼女の家の縁側で、彼女の帰りを待った。
葵衣はすっかり暗くなってから帰ってきた。
「どうしたの?」
土埃で汚れた着物で帰ってきた葵衣に、俺はぎょっとして訊いた。
「走ってはしゃいでたら、転んじゃった」
葵衣は心ここにあらずといった風で言った。
その瞬間からだった。
俺の言葉が葵衣に届かないような不安が始まったのは。
たぶん、走って転んだだけじゃ総括できない何かが起きている。
だけど、葵衣は悲しいわけでも、嫌なことがあったと言う訳でもなく、何か不思議な雰囲気を醸し出していた。
俺を置いて、一歩大人になってしまったような感じだった。
葵衣はその日のことを俺に教えはしない。
でも、それでいい。
葵衣はきっと、誰にも話さないのだろう。
俺にも、大河にも話はしないだろう。
根拠はないけど、そんな気がする。
その後、葵衣と大河が出会って以降、俺の声はもっと葵衣に届かなくなってしまった。
手紙に細工されて、その場面に立ち会えなかったなんて、情けない……。
もし、俺がその場に間に合ったら?
俺が大河の着付けをしていれば、未来は組み替えられていた?
……そんな疑問、無力すぎる。
運命がめぐりあわせようとするのなら、何もかなわない。
葵衣は今日、大河と結婚する。
俺はきっとこの手で、誰よりも美しく彼女を着飾り、送り出すだろう。
大河――あいつは、いくらなんでもズルすぎると思う。
なんで、あいつの言葉はいとも容易に、葵衣の心まで届いて、彼女をとろかすんだろう。
本当、ずるいと思う。
悔しいけど、仕方なさ過ぎる。
葵衣は一人しかいないからな。
それじゃ、また。
大好きでした。




