プロローグ
「やれやれ……今日も終電か」
俺はモニターに映ったCAD図面を眺めながら、大きく肩を回した。
ぐるり、と。
次の瞬間。
バキバキッ。
「……うわ」
肩から背中にかけて、嫌な音が鳴った。
思わず顔をしかめる。
「もう若くないんだよなぁ……」
誰もいない設計室に、自分の声だけが響いた。
時計を見る。
二十三時を過ぎていた。
蛍光灯の白い光。
無数に並んだ机。
昼間は社員たちの声で騒がしいこの部屋も、今は完全な静寂に包まれている。
聞こえるのは、空調の低い唸りと、どこかで動いているパソコンのファンの音だけだった。
俺の前にあるモニターには、上下水道施設で使われる巨大なポンプ設備の電気回路図が映っている。
画面を埋め尽くす線。
配線。
リレー。
シーケンス回路。
制御盤のレイアウト。
細かな記号と数字が、まるで蜘蛛の巣のように画面いっぱいへ広がっていた。
「……これ、明日の朝までに確認しないといけないんだよな」
ため息を吐きながら、マウスを動かす。
カーソルが一本の線をなぞる。
たった一本。
だが、その一本を間違えれば大問題になる。
現場に納めた巨大なポンプ設備が動かなくなる可能性があるからだ。
下水処理場も。
浄水場も。
基本的には二十四時間止められない。
蛇口をひねれば水が出る。
トイレを流せば、汚水が処理される。
ほとんどの人は、それを当たり前だと思っている。
だが、その当たり前を支えている設備は、誰かが設計し、誰かが作り、誰かが保守している。
そして俺は、その中の一人だった。
俺――西田晶。
大手電機メーカーで、上下水道施設向けポンプ設備の電気設計を担当している。
社会的に見れば、悪くない仕事だと思う。
景気に左右されにくい。
福利厚生もしっかりしている。
会社の保養所もある。
有給休暇も、制度上はきちんと使える。
自分が設計した設備が、日本中の水道や下水道を支えている。
仕事そのものが嫌いなわけではない。
むしろ――。
「仕事自体は、嫌いじゃないんだよなぁ」
画面を見ながら呟く。
問題は。
「忙しすぎるんだよ……」
思わず、深いため息が漏れた。
この仕事は一年中忙しいわけではない。
三月から八月くらいまでは比較的平和だ。
定時で帰れる日もある。
有給も取りやすい。
旅行に行く社員もいる。
夏になると、
『来週から北海道に行くんですよ』
なんて話をする同僚もいる。
俺も、その話を聞くたびに思う。
――いいなぁ、と。
制度だけを見れば、かなり恵まれている会社だと思う。
問題は――九月から翌年二月までだった。
年度末までに納める案件が、一気に増える。
設計。
確認。
修正。
客先との打ち合わせ。
仕様変更。
また修正。
営業から、
『すみません、西田さん。客先から変更が入りまして』
というメールが飛んでくる。
「……またかよ」
そう呟きながら修正する。
修正が終わる。
すると別の案件で電話が鳴る。
『西田さん、この図面なんですけど』
「あ、はい」
話が終わる。
メールを見る。
また新しい修正依頼。
「…………」
時計を見る。
二十二時。
いつの間に。
そして気がつけば終電だった。
終電を逃せば、会社の仮眠室。
そんな生活が半年近く続く。
「……まあ、三月になれば楽になるんだけどな」
俺は椅子の背もたれへ体重を預けた。
ぎしっ、と椅子が鳴る。
天井を見上げる。
問題は、その頃には――。
「疲れ切って寝てるだけなんだよな」
苦笑した。
せっかく休みが増えても、旅行へ行く気力なんて残っていない。
家で寝る。
昼頃に起きる。
冷蔵庫を開ける。
適当に飯を食う。
またベッドへ戻る。
そして気がつけば夜。
「……何のために働いてるんだろうな」
ぽつりと呟いた。
答える人はいない。
広い設計室には、俺一人だけだった。
しかも俺は高卒採用だ。
仕事内容は大卒社員と大して変わらない。
同じように図面を描く。
同じように客先と打ち合わせる。
同じようにトラブルが起これば対応する。
なのに。
給料には、しっかり差がある。
給与明細を見るたびに、世の中の厳しさを思い知らされる。
「まあ……食ってはいけるだけマシか」
そう呟いて、自分の腹をぽんと叩いた。
ぽよん。
「…………」
手に伝わる柔らかな感触。
嫌な沈黙が流れた。
「また太ったな」
高校時代は陸上部だった。
毎日のように走っていた。
グラウンドを何周もして。
雨の日でも筋トレして。
足が動かなくなるまで走った。
だから、どれだけ食べても太らなかった。
むしろ、食べても食べても腹が減った。
ところが。
社会人になると、運動する時間がない。
朝、起きる。
満員電車。
仕事。
残業。
終電。
帰宅。
寝る。
休日は疲労回復。
なのに食べる量だけは、高校生の頃とあまり変わらない。
結果。
当然のように、腹だけが育った。
「……そりゃ太るよな」
先日の健康診断でも、医者から苦笑された。
『西田さん』
「はい」
『このままだと、三十代で生活習慣病になりますよ』
特に酷かったのが中性脂肪だった。
検査結果の数字を見た瞬間、俺自身も思った。
――これは、まずい。
「運動……しないとなぁ」
分かっている。
そんなことは分かっている。
分かっているけど。
「時間がないんだよ……」
仕事が終われば終電。
休日は疲れて寝る。
そして月曜日。
また仕事。
完全な悪循環だった。
「……もう、こんな生活嫌だな」
誰もいない設計室で、ぽつりと呟く。
自分の声が、やけに小さく聞こえた。
俺はしばらくモニターを見つめたあと、ようやくマウスへ手を伸ばした。
保存。
電源を落とす。
ウィィィン……。
モニターの光が消える。
途端に、設計室から色が消えたような気がした。
静寂が訪れる。
夜のオフィスには誰もいない。
廊下を照らす蛍光灯だけが、妙に白々しく光っている。
俺は鞄を持ち、仮眠室へ向かった。
◇
シャワーを浴びる。
蛇口をひねる。
ざああああっ。
熱い湯が頭から降り注いだ。
「あー……」
思わず声が漏れる。
「生き返る……」
一日の疲れが、少しずつ溶けていくような気がした。
肩。
首。
背中。
熱い湯が当たるたび、固まっていた身体が少しずつ緩んでいく。
シャワーを終え、タオルで髪を拭く。
狭い仮眠室。
簡素なベッド。
小さなロッカー。
会社に泊まるためだけに作られた部屋。
俺はベッドへ腰を下ろした。
そして。
天井を見上げる。
「……田舎で暮らしたいな」
ふと、そんな言葉が口からこぼれた。
自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からない。
ただ。
この白い天井を見ていると。
急に、違う景色が見たくなった。
「朝起きたら畑を耕して」
目を閉じる。
土の匂い。
朝の冷たい空気。
遠くで鳴く鳥。
「牛とかヤギとか飼ってさ」
朝になれば乳を搾る。
昼には畑仕事。
汗をかいて。
腹が減って。
自分で作った野菜を食べる。
夕方になれば、今日一日の仕事を終えて家へ帰る。
飯を食って。
風呂に入って。
疲れたら、そのまま眠る。
時計を見る必要もない。
終電を気にする必要もない。
明日の納期を心配する必要もない。
「そんな生活ができたら……幸せなんだろうな」
会社もない。
終電もない。
納期もない。
残業もない。
ただ土を耕して。
動物を育てて。
飯を食う。
「……いいなぁ」
思わず笑ってしまう。
「現実逃避もいいところだな」
明日になれば、また会社へ行く。
そして。
九月から二月まで。
あの地獄の半年間が始まる。
そう思った、その瞬間だった。
『よろしい』
「……え?」
頭の奥に。
声が響いた。
びくり、と身体が跳ねる。
男とも。
女とも。
老人とも。
子供ともつかない。
不思議な声だった。
耳から聞こえたわけではない。
直接、頭の中へ言葉を流し込まれたような感覚。
『その願い、叶えよう』
「…………は?」
俺は固まった。
仮眠室には誰もいない。
当然だ。
鍵も閉めている。
「誰だ?」
慌てて周囲を見回す。
ベッド。
ロッカー。
壁。
天井。
誰もいない。
「……疲れすぎたか?」
幻聴。
そう思った。
残業続きだ。
睡眠不足だ。
疲れている。
だから頭がおかしくなった。
そうに違いない。
だが――。
次の瞬間。
足元が。
ぐにゃり、と歪んだ。
「え?」
俺は目を見開いた。
床が。
黒く染まっていく。
じわり。
じわじわと。
まるで白い床の下から、漆黒の液体が染み出してくるようだった。
「な、何だ……?」
立ち上がる。
だが。
黒いものは、俺の足元まで広がっていた。
底が見えない。
光を吸い込むような闇。
「ちょっ――」
足が沈んだ。
「え?」
くるぶしまで。
次の瞬間には、膝まで。
「うわっ!」
飛び退こうとする。
ベッドの端へ手を伸ばす。
だが遅かった。
黒い闇が足を掴んでいる。
ずるり。
「待て!」
腰まで沈む。
「何だよ、これ!」
身体が。
ゆっくりと。
だが確実に。
闇へ飲み込まれていく。
「ちょっと待て!」
必死に手を伸ばす。
何かを掴もうとする。
だが。
掴めない。
「待て、待て待て待て!」
胸まで。
首まで。
「俺はまだ明日の仕事が――!」
そこまで叫んだところで。
視界が。
完全な闇に染まった。
「何なんだよ、これぇぇぇぇぇっ!」
そして――。
意識が途切れた。
◇
「……おい」
誰かの声がする。
遠い。
水の底から聞こえてくるような声だった。
「おい。起きろ」
身体を揺すられる。
「……ん」
頭が重い。
身体も重い。
まぶたを開こうとする。
だが、眩しい。
「…………」
最初に見えたのは。
青空だった。
「……え?」
俺は瞬きを繰り返した。
眩しい。
あまりにも眩しい。
雲一つない青空。
どこまでも広がる、濃い青。
見慣れたビルもない。
電線もない。
飛行機雲もない。
ただ。
空があった。
「…………」
頬を撫でる風。
乾いている。
日本の湿った空気とは違う。
鼻の奥に入ってくるのは、土の匂い。
草の匂い。
そして。
どこか獣のような、生き物の匂い。
「……ここ、どこだ?」
起き上がろうとした。
その瞬間。
視界に。
見知らぬ男たちが入った。
「…………」
俺は動きを止めた。
褐色――いや。
長い間、強い日差しを浴び続けてきたような赤銅色の肌。
腰には獣皮。
腕や足には、日焼けした筋肉。
手には石で作られた刃物。
五人。
六人。
いや。
もっといる。
全員が、俺を見下ろしていた。
その目には。
明らかな警戒があった。
「…………」
俺は固まった。
男たちも固まっている。
風が吹く。
ざわり、と草が揺れる。
遠くで鳥の声が聞こえた。
誰も動かない。
誰も笑わない。
俺だけが。
完全に場違いだった。
やがて。
そのうちの一人が口を開いた。
「おい、おまえ」
「……はい?」
反射的に返事をした。
「どこから来た?」
「…………」
俺は周囲を見回した。
アスファルトはない。
コンクリートもない。
電柱もない。
自動車の音もない。
代わりにあるのは。
土を固めただけの道。
踏み固められた地面。
泥と藁を混ぜたような壁。
太陽に焼かれた干しレンガ。
木の柵。
そして。
見たこともないほど素朴な道具。
「…………」
心臓が。
どくん、と大きく鳴った。
嫌な予感がした。
「ここは……どこですか?」
男が怪訝そうな顔をする。
まるで。
そんなことも分からないのか、と言いたげだった。
「エリコだ」
「…………エリコ?」
その言葉を聞いた瞬間。
頭の中で、何かが繋がった。
聞いたことがある。
確か。
歴史の授業。
古代文明。
世界最古級の都市。
人類が、狩猟採集生活から定住生活へ移っていく時代。
「いやいや……」
俺は首を振った。
「そんなわけないだろ」
声が震えていた。
だって。
そんなものは現代日本には存在しない。
そもそも。
この男たちの格好は何だ。
映画の撮影?
テレビ番組?
テーマパーク?
いや。
そんなものには見えない。
目の前の人間たちは。
本当に。
ここで生きている。
「おまえはどこから来た?」
もう一度、男が尋ねる。
俺は答えに詰まった。
東京?
日本?
地球?
そんな答えを言ったところで、信じてもらえるはずがない。
「……正直に言います」
「うむ」
「俺にも分かりません」
「…………」
「気がついたら、ここにいました」
嘘ではない。
本当に、それしか分からない。
男たちは顔を見合わせた。
低い声で何かを話し始める。
俺には聞き取れない。
――いや。
違う。
聞こえている。
なぜか意味が分かる。
「…………?」
俺は眉をひそめた。
どうしてだ。
どうして俺は、この言葉を理解できる?
考えているうちに。
一人の男が、慌てたように走り去っていった。
「……何なんだ?」
胸の奥が落ち着かない。
逃げるべきか。
だが。
どこへ?
見渡す限り、知らない土地だ。
しばらくして。
男が戻ってくる。
隣には、年配の男がいた。
深く刻まれた皺。
長い年月を、この土地で生きてきたことを感じさせる顔。
俺を見るなり。
その男は、ゆっくりと何かを話しかけた。
言葉そのものは。
やはり、聞いたことがない。
なのに。
意味だけは理解できた。
「…………?」
背筋に冷たいものが走る。
ここが本当に古代だというなら。
なぜ俺は会話できる?
俺が混乱していると。
年配の男が言った。
「ついてこい」
「え?」
「話をする」
俺は迷った。
しかし。
他に選択肢はない。
「……分かりました」
立ち上がる。
靴の下で土が鳴る。
ざりっ。
その感触に。
また、現実感が増した。
夢ではない。
これは。
本当に起きている。
案内されたのは、一軒の建物だった。
外から見ると、ただの土壁の家に見える。
だが中へ入ると。
外の強い日差しが遮られ、ひんやりとした空気が肌を包んだ。
「……涼しい」
思わず呟く。
電気もない。
エアコンもない。
それなのに。
外よりずっと過ごしやすい。
そして。
建物の奥に――。
一人の女性が座っていた。
年齢は三十代くらいだろうか。
質素な麻布の服。
首には石や貝で作られた装飾品。
派手ではない。
だが。
目を離せなかった。
理由は。
周囲の人間が彼女へ向ける態度だった。
男たちが。
明らかに敬意を払っている。
誰もが彼女の言葉を待っている。
「……この人が、偉い人なのか?」
思わず呟く。
女性は俺をじっと見つめた。
その視線は。
穏やかだった。
だが。
不思議なほど鋭かった。
まるで。
俺という人間を、一枚ずつ剥がして確かめているような。
「あなたは……とても珍しい服を着ていますね」
「まあ……そうでしょうね」
俺は自分の服を見下ろした。
シャツ。
ズボン。
スニーカー。
現代日本なら、どこにでもいる会社員の格好。
だが。
この場所では。
明らかに異物だった。
「どこから来られたのですか?」
「……それが」
俺は頭を掻いた。
「本当に分からないんです」
「分からない?」
「気がついたら、ここにいました」
女性は黙って俺を見る。
長い沈黙。
外から。
子供たちの声が聞こえた。
誰かが歩く足音。
風の音。
俺の心臓だけが、やけに大きく聞こえる。
「本当に……?」
「本当です」
女性の視線が、俺から離れない。
嘘をつけば。
全部見抜かれる。
そんな気がした。
やがて。
女性は小さく息を吐いた。
そして。
微笑んだ。
「ええ」
「…………」
「あなたは嘘をついていませんね」
「……分かるんですか?」
「分かります」
即答だった。
俺は思わず背筋を伸ばす。
この人。
何者なんだ?
そんな疑問が浮かんだ。
だが女性は、それ以上追及しなかった。
俺が何者なのか。
どこから来たのか。
なぜ突然現れたのか。
何も分からない。
それでも。
「行く場所がないのであれば――」
一拍。
彼女は言った。
「この集落で暮らしてはいかがですか?」
「……え?」
「我々は、あなたを歓迎します」
俺は。
一瞬、言葉を失った。
「俺を……?」
「はい」
追い出されると思っていた。
異邦人だ。
怪しい男だ。
正体不明だ。
普通なら。
警戒されて当然だった。
下手をすれば拘束されてもおかしくない。
なのに。
この人たちは。
俺を受け入れるという。
「……ありがとうございます」
自然と。
頭が下がった。
深く。
深く。
俺は頭を下げた。
◇
建物の外へ出る。
眩しい太陽。
乾いた風。
土の匂い。
人々の声。
どこかで子供が笑っている。
男たちが働いている。
石器を使って作業をしている者。
何かを運んでいる者。
動物の世話をしている者。
女たちも働いている。
食べ物を準備している者。
何かを作っている者。
子供の世話をしている者。
そして。
誰もが。
先ほどの女性の言葉を聞いて動いていた。
「…………」
俺は首を傾げた。
(もしかして――)
この集落。
(女の人のほうが、立場が上なのか?)
現代日本とは。
何もかもが違う。
家も。
服も。
道具も。
生活も。
そして。
人々の考え方さえも。
俺は。
現代日本から遠く離れた。
いや。
距離ではない。
時間そのものを。
遥かに遡ってしまったのだ。
ナトゥーフの人々が暮らす、古代の町。
エリコ。
そこが。
俺の新しい故郷になった。
……ただ。
このときの俺は。
まだ知らなかった。
ここが。
単なる古代の集落ではないことを。




