月に放つ拳 下
錬太郎は悲鳴のほうへ飛んだ。考える間もなかった。聞こえたと思ったときには錬太郎は瞬間移動を行っていたのである。これは錬太郎の本能、願いのためである。錬太郎は自分の助けられたなかったものを助けたいという願いを持っていた。自分がどうしようもなく失ってしまったからこそ、誰かを守りたいという気持ちである。自己満足でしかない願いだけれども、この願いは力になり助けを求めている人たちのところへ錬太郎を向かわせたのである。
瞬間移動をおえた錬太郎はたくさんの人たちの姿を見つけた。錬太郎が現れたのは、宇宙船が収納されている港のような場所だった。錬太郎たちが乗ってきた宇宙船たちが、たくさん止まっている。そして宇宙船に乗り込むための広場のようなところがあって、錬太郎はそこに現れた。
錬太郎が現れた広場には、いかにも研究者という風体の人たちと、重武装している兵士たちがいた。兵士たちは武器を構えて研究者のような格好をしている人たちを守っていた。錬太郎が、彼らを見つけるのはとても簡単だった。なぜならば、まともな人間の形をしているのは彼らくらいのものだったからである。後は怪物たちばかりである。またおかしなものもいくつかあった。
怪物たちを取り込んでいく肉の塊がいた。肉の塊というのは肉の塊である。あまりにも大きな肉の塊が、月面基地の地下深くからあふれてきているのだ。怪物たちがその肉の塊に触れると、あっという間に取り込まれて、形を残したまま肉の一部になってしまっている。この肉の塊としか言いようのないものは、何とか脱出しようとしている兵士たちと、研究者たちを狙っているようだった。
肉の塊というのを敵だと理解するのに時間はまったく必要なかった。何せあまりにもむちゃくちゃであったからだ。手当たり次第に手をつけている。怪物を狙えば怪物を食い、周りにある機械の類にでも触手を伸ばしている。誰が敵かといって考える必要がないほどの敵だった。
何が起きているのかを理解した錬太郎は肉の塊たちを消し飛ばしていった。わずかに残った力しかないといっても、錬太郎の力は絶大であった。一度腕を振れば、怪物たちが銀の砂の粒に変わり、二度振れば、奇妙な肉の塊を銀の砂の粒にして撤退させることができていた。錬太郎はまず助けなくてはならないと考えた。自分というのを考えるとここで消耗するというのはよくない。何せ力を使えば使うだけ、しに近づいていくのだから。しかしそんなことはどうでもよかった。死ぬということよりも人を守りたかった。残された命をいいことに使いたかったのだ。
宇宙船への道をきれいにしたとき、錬太郎は自分を送り出してくれた人たちの姿を見つけた。この人たちは錬太郎の乗っていた宇宙船の乗組員たちであった。ずいぶんとぼろぼろになっていたけれども、ほとんどの人が生き残っているようだった。彼らは錬太郎を見つけると、涙混じりに喜んでいた。宇宙船に乗り込んだ人たちも一生懸命に戦い生き残っていたのである。誰もが一生懸命に戦っていたから、今ここで出会えたのだ。もしも錬太郎に頼りきりであれば、怪物たちに食われて終わっていただろう。
船の船員たちが言う。
「錬太郎! 無事だったか!」
様子の変わった錬太郎に少し驚いているようだった。しかし錬太郎が生きて戻ってきてくれことをずいぶん喜んでいた。うれしいのだ。生き残ってきてくれたから。それがうれしい。何せ戦いというのが激戦であった。怪物たちと戦い、命を落としたものもいる。そして、錬太郎たちを連れてきて、怪物の姿になっても戦ったシージオのことが頭にある。彼と同じように錬太郎もまた死んでしまったのではないかという気持ちが誰にもあったのだ。しかし、生きて戻ってきてくれた。戻ってきてくれたというだけがうれしかった。
錬太郎がうなずいた。しかしずいぶんと消耗しているようだった。声を出そうとしていたのだが、なかなか出せないでいた。錬太郎に残されているエネルギーが後わずかなものになっていたからである。
錬太郎はこういった。
「シージオさんはやり遂げました。そしてダナム博士は俺が」
息も絶え絶えだった。
船の船員が、深くうなずいた。ほとんど動揺するところはなかった。覚悟しているようだった。船の船員たちはシージオの計画を知っていたのである。そのため錬太郎の報告を聞いても、それほど驚かなかった。そして悲しみよりも、胸を張りたくなるような気持ちがあった。
乗組員が、こういった。
「わかった。ならば、計画通りにいこう。脱出だ。錬太郎助けてくれるか」
しっかりと錬太郎の目を見て伝えていた。力強い声だった。乗組員たちの仕事は、これからだからだ。これから救出した人たちを地球につれて帰らなくてはならない。そして地球に戻ったら、壊された社会を組み立てなおさなくてはならない仕事が待っている。まだへこたれるわけには行かないのである。
錬太郎はうなずいた。何とか力を振り絞っていた。錬太郎もまだ力が残っていた。もう少しだけ力が残っているから、最後まで燃え尽きてやろうという気持ちになっているのである。あと少し、あと少しだからこそ、後悔しないようにしようという気持ちである。
乗組員たちの手伝いを錬太郎はしていた。怪物たちが襲い掛かってこないように、じっと見張りをしていた。そして動かなかった。錬太郎ができることというのは、無事に乗組員たちを、そして保護した研究者たちを地球に送り届けるだけであった。
その中にイオニス少年の父親と母親を見つけた。気がついたのはたまたまだった。イオニス少年とよく似た男性が、目の前に現れたのだ。そしてその男性のうでを引っ張るようにしている女性を見て、もしやと思ったのである。
イオニス少年の父親と母親は、錬太郎の様子というのがあまりにも不思議だったので、彼に近づいてきたのである。イオニス少年の父親が、錬太郎の姿を見て興奮して、それをイオニス少年の母親がいさめるというようなことをやった。それを見て確信した。
目の前で口論を始めた二人に、錬太郎はこういった。
「もしかして、イオニス・タイム君のご両親ですか?」
何とか絞り出した声であった。錬太郎が力を振り絞って聞いたのは、イオニス少年のことがあったからに他ならない。両親のことを気にしていたイオニス少年の願いがもしかしたらかなうかもしれないと思うと、心が激しく高ぶったのだ。そしてその一助をなすことができるかもしれないと思えば、弱弱しくなっていた魂も激しく高ぶるというものである。
錬太郎の質問に二人は大きくうなずいた。二人とも、息子のことをとても大切に思っていたのである。そしてこのようなおかしな事件が起きてしまったことで、とても心配していたのだ。そこで錬太郎がイオニス少年の話をしたものだから、何事かと考えたのだ。もしかしたら無事なのかと。
大きくうなずいた二人に錬太郎はこういった。
「イオニス君なら無事です。お二人のことを心配していましたよ」
錬太郎の声はかなり小さかった。できるだけ力を振り絞っていたけれどもそれでもずいぶんと小さな声であった。錬太郎は二人の心を安心させていやりたいと思ったのである。イオニス少年の話をし始めたとき、ずいぶん二人の顔色というのが悪くなっていたのを見逃していなかった。真っ青になって、神様に祈りだしそうだった。錬太郎はまずは二人の心をどうにかしなければならないと考えたのだ。そうして、この心の不安というのは、間違いなくイオニス少年の安否にかかっていると見定めて、彼が今無事であるということを伝えたのである。
錬太郎の答えを聞いて、二人は安心した様子だった。よかったよかったといって、お互いに喜んでいた。二人ともとても心配していたのである。自分たちの子供なのだからきっと無事だろうというような考えでいたけれども、やはり心のどこかではだめかもしれないという考えもあったのだ。何せダナム博士は世界中の人間を標的にして事件を起こしたのだから。また、生き残っていたとしても怪物たちがうごめいている世界で、小さな子供が生き残れる可能性というのは非常に低いのもわかっていた。しかしそれが今はっきりと消えたのだ。何せ錬太郎というのは自分たちを助けてくれた人たちの仲間で、自分の息子のことを知っている人間だから。これほど安全なことはなかった。そして無事がわかったからこそ二人は心のそこから喜んだのだ。
イオニス少年の両親に絡まれているところで船の船員が大きな声を出した。
「錬太郎! これで全員だ! 脱出するぞ!」
大きな声であった。広場によく響いた。すでに広場には見張りをしていた錬太郎とイオニス少年の両親しかいなかった。船の船員は自分の仲間を残して飛び立つつもりなどなかった。そして保護している人間を残していくということも考えていなかったのである。しかしいつまでもぼんやりと待っているわけにはいかない。できるだけ早く脱出するのがいいだろうということで、大きな声で呼んだのだ。
「準備ができたから話をするのをやめてこっちにきてくれよ」
と。
呼ばれてあわてて、イオニス少年の両親と、錬太郎は船に乗り込んだ。錬太郎が一生懸命に走ろうとしていたがいまいちうまく動けていなかった。それを見かねて、イオニス少年の父親が、錬太郎に肩を貸してくれた。見た目が細いのにずいぶんと力が強かった。あっという間に錬太郎を船に連れ込んでしまった。錬太郎たちも急がなければまた怪物たちに襲われるかもしれないという考えがあったのである。できるだけ安全なところに戻りたいというのは誰もが思う願いである。
宇宙船が月面基地から飛び立ってから錬太郎の体を作る光がどんどん弱くなっていった。全身を作っているネフィリムの光は、蛍の光のように弱弱しい点滅を繰り返していた。また、船に乗り込んだ錬太郎の表情にも余裕というのがなかった。目がうつろになり、焦点を結べなくなっていた。座席に座るところまでいけず、床にへたり込んでしまっていた。限界が訪れようとしているのだ。錬太郎に残されているエネルギーというのはもうない。立ち上がるなどというのはとうに難しくなりいまや光を捉えることさえ怪しいほど。
宇宙船に乗り込んでいる研究者たちがざわついていた。口々に錬太郎の状況というのを分析しているようだった。すでにネフィリムであるというのはばれているようだった。当然で、彼らこそネフィリムを作り出した研究者たちなのだ。ダナム博士と比べるとその技術力というのは低いけれども、錬太郎が何者で、どういう状況なのかというのはすぐに見透かしていた。だからこそざわついてしまうのである。何せネフィリムというのは魂を操る状態と人間と変わらない状態というのを切り替えることができていたからである。エルバーハ、エルヨ、ネピルの三人のことである。彼らはできていたのに錬太郎にできないわけがないと不思議がっていたのだ。
研究者たちがざわついているところで、イオニス少年の父親が錬太郎に聞いた。
「なぜ戻らないのか」
子供をしかるような調子が合った。仕方のないことである。イオニス少年の父親は錬太郎の今の状況が、自殺をしているようにしか見えないのだから。イオニス少年の父親もまた、ネフィリムがどういうもので、どういう理屈で力を使っているのかを理解ししていた。理解していたからこそネフィリムが常に光の状態であることがどれだけまずいことが起きるのかというのもわかっていた。まずいことというのはネフィリム自体が死んでしまうということである。錬太郎は戻れるはずなのに、まったく戻る様子がないのだ。しかしネフィリムというのは本能で、元に戻ることができるというのもしていた。となればこれは自殺であろう。それはイオニス少年の父親には、許せないことだった。
真剣な目で自分を見つめる人たちに向けて錬太郎は首を振った。
「もう、戻れない。芯になるところまで使い切っちゃった」
わずかにだけれども笑っているように見えた。心配してくれたのが、胸に響いたのである。
イオニス少年の両親が、泣きそうな顔をした。錬太郎がどうしようもない状況にあることがはっきりとわかったからだ。これはイオニス少年の両親に限ったことではない。周りにいる科学者たちも同じような顔をしていた。彼らは兵士たちよりも、ルアウダやイオニス少年たちよりもずっとネフィリムについての知識があった。どういう理屈で動いているのかだとか、どういう能力が使えるのかというのが頭にある。頭にあるからこそ、どうしようもないと状況を理解するのが早かった。素人目にはまだどうにかなるような状況でも、専門家が見るとどうしようもないというのをすぐに見抜いてしまうことがある。彼らもまた、そうだった。
陰気になってしまった宇宙船の中に警告音が鳴り響いた。錬太郎がこの警告音を聞くのは二回目だった。一度目は宇宙空間で完全なるネフィリム池淵頼子と戦ったときであった。この警告音が鳴ったということは、何者かが宇宙船の邪魔をしているということである。
宇宙船の乗組員がアナウンスした。叫んでいた。
「何かに、引っ張られてやがる!」
絶望感に満ちていた。言葉通りのことがおきていたのだ。宇宙船というとんでもない質量を持った船が、しかも光に近い速度で飛んでいこうという物体が、何者かに引っ張られて動けなくなりつつあるのだから、悲鳴も上げたくなるだろう。悪夢のようだ。夢の中で一生懸命に走っても、まったく前に進めないような気持ちである。しかも進めないだけならいいけれども、何者かが自分を狙って追いかけてくるのだ。これはもう生きた心地はしないだろう。夢ならば救いがあるだろうけれども、現実でこんなことがあったとしたら、心臓は縮み上がりり呼吸は荒くなる。つかまったら、命を持っていかれるのだから、たまらない。
アナウンスをきいた錬太郎が立ち上がった。下唇をかんで、自分を激励しているようだった。弱弱しい光しかなかった目に光が宿っていた。錬太郎は最後の花を咲かせに行くつもりなのだ。錬太郎しか対応できないだろう問題がおきているのがわかっているのだ。もしもここで命を惜しんで、何もかも奪われてしまったら、それこそここまでやってきた意味がない。錬太郎は心の中で、自分を励ましていた。もう少しだけがんばろうと、もう少しだけ無理をして、戦おうと。死ぬのなら、最後までと、励ましていた。
やっと立ち上がった錬太郎にがイオニス少年の両親にこういった。
「イオニス君に、戻れなくてごめんといっておいてください。後、ベルトを壊してすまなかったと」
自分の力を使ってイオニス少年から渡されたベルトとよく似たベルトを錬太郎は能力を使って作った。錬太郎の周りに光が集まったかと思うと、錬太郎の目の前に銀色のベルトが出来上がったのである。錬太郎はイオニス少年に申し訳ないという気持ちがあるのだ。旅立つ前にイオニス少年にベルトを渡されていたのだが、戦いの中で失ってしまった。イオニス少年がとても大切な宝物なのだという話をしていたのを覚えていて、きっとイオニス少年はベルトが戻ってこなければ悲しむだろうと思ったのだ。せっかく両親が戻ってくるのだから、ベルトもあったほうがいいだろうと思い、気を回していた。ただ、力を振り絞っていたために、いまいちうまくはできていなかった。
それをイオニス少年の父親に渡した。イオニス少年の父親は、目の前で何が起きたのかわからないといったような顔をしていた。ずいぶん驚いているようだった。錬太郎が父親に渡したのは、特に意味はない。母親でもよかった。ただ、自分はもう地球に戻ることはできないだろうから渡してくれるだろうという人に任せただけである。錬太郎はもう、自分が戻れないことを理解しているのだ。もう戻れないからこそ、人に任せたのである。
錬太郎は近くにいた宇宙船の船員にこういった。
「俺が行きます。さよならです」
できるだけ力をこめた声だった。しかしずいぶん弱かった。別れの挨拶をしたのは、未練を残さないためである。きっちりと挨拶をして、心残りをなくしておくことで何もかもを搾り出す気持ちになっていた。
錬太郎の挨拶に宇宙船の船員が、無言でうなずいた。声が出せなかったのだ。悲しみで顔がゆがんでいた。
錬太郎は一気に宇宙に出て行った。瞬間移動である。船を開くことができないのがわかっていたから飛んだのだ。錬太郎が乗り込んだ船の中というのは、周りにたくさんの人がいた。そのため無理に入り口を開くようなまねをすれば宇宙空間に放り出されることになるだろう。それはよろしくなかった。
宇宙に飛び出した宇宙船を引っ張り込もうとする力をあっという間に錬太郎は断ち切った。軽く、クモの糸でも切るようなしぐさであった。錬太郎は宇宙船を引っ張り込もうとする力がよく見えていたのである。この力というのを断ち切るために錬太郎は能力を使った。錬太郎の力が万全ではないといっても、その心はいまや激しく燃え上がっていた。たやすい仕事だった。
宇宙船は、引っ張られる力がなくなり、一気に地球に向けて飛んでいった。今まですぐそばにあったものが、手が届かないほどの距離まで移動していた。もともと光に近い速度で飛ぶことができる船なのだから、邪魔がなければこんなものである。今までは鎖だとかが、車に絡みついて前に進ませないように邪魔をしていたような状態であった。それが錬太郎の力で持って切り取られたのだから、前に進むだろう。
錬太郎は、飛んでいく宇宙船にさよならといった。
宇宙船が飛んでいったのを見送って、錬太郎は月に振り返った。錬太郎の目はきらきらと輝いていた。錬太郎は自分の背後から巨大な悪が目覚めるのを感じ取っていたのである。これは完全なネフィリムとして覚醒している錬太郎だからわかることであった。錬太郎は空気を伝わる振動のように月面に現れようとするものの悪意を感じ取っていた。宇宙空間に満ちる魂という名のエネルギーの流れが、巨大な悪意の振動を持って震えているのだ。錬太郎はこの悪意の振動を生んでいる存在をここで始末せねばならないと決意していた。間違いなく害悪しか生まないだろうから。
何もかも食らおうとする巨大な顔が月面に現れていた。それは人間の顔だった。大きな大きな人の顔である。しかしきれいな顔ではなかった。たくさんの肉の塊が寄り集まってひとつの顔を作り出していた。この月面にできた顔は、怪物に変じた人間の成れの果てである。地上に生まれた怪物たちと違っているのは、ダナム博士の恨みを一手に買っているというところである。この月面にできた顔というのはダナム博士が一番復讐をしたかったものたちを怪物に変えて、放置していた結果生まれた怪物であった。この怪物は共食いを行い、その体を膨らませていった。そして混乱に乗じて月面に現れ、空腹を満たそうとしていた。複雑な思考回路というのはとっくの昔に消えうせている。この月面の顔にあるのは食欲だけである。
広大な月面を覆う肉が作る顔を見て、錬太郎はうなずいていた。
そしてこういった。
「こいつだ。こいつが全部壊した」
うれしくてしょうがない様子だった。錬太郎は笑っていた。なぜならば、自分の故郷を好き勝手に壊した相手を思い切り叩きのめすことができるからだ。まさか、あと少しで命の火が消えるというときに、これほどまでの幸運が訪れるとは思っていなかった。しかしと思うところもある。なぜこの月の顔がここにあるのかと。ここはまったくの別世界ではなかったのかと。しかしそんなことはもうどうでもよかった。忘れもしない忌々しい月の顔面を心の赴くまま思い切りたたき伏せるのだから。それだけあれば錬太郎は満足だった。
月の表面に出来上がった顔の口元が、光り始めた。錬太郎がかつて見た光と同じである。銀色の光。何もかも奪っていこうとする光である。月面に出来上がった大きな人間の顔は、錬太郎の故郷を奪ったのと同じように、すべてを奪うつもりなのだ。腹がへっているから、目の前のご馳走を食べる。それだけしかこの怪物にはないのである。そしてそれだけしかないために、目の前にいる錬太郎をも無視した行動ができるのであった。
月の行動を見て錬太郎は、笑った。大きく笑った。自分が最後に見た光とまったく同じであったからだ。そしてすぐに忘れもしない喪失感と、怒りというのが沸いてきたのである。あまりにも激しい怒りであったため、錬太郎は笑ってしまったのだ。笑わずに入られないほどの怒りだったのである。
錬太郎が笑っている間に、光が高まっていった。どんどん月の口元に光が集まっていった。その光の強さというのは遠く地球からでも見えるほどである。これからさらに威力を高めて、地球の表面にある命を奪い取る算段なのだ。
月面の顔面が光を打ち出す前に、錬太郎は思い切り拳を固めた。強く握り締めていた。錬太郎に残されたエネルギーがどんどん拳に集まっていった。拳にエネルギーが集まるに連れて、錬太郎の全身から力が抜けていく。錬太郎は何もかもをかけて、月面の怪物を討ち取るつもりなのだ。そのためには、何もかもをささげる必要があった。錬太郎の残されたエネルギーというのはとんでもなく少なくなっている。そのエネルギーを惜しむようなことをしていたら、間違いなく惨劇が引き起こされる。それだけはなんとしても避けたかった。だからすべてをささげることにした。月面の怪物に対抗するために、命と、怒りを拳に注いだのである。
月の表面に出来上がった顔が、光を吐き出した。笑っているようだった。しかしそれはたまたまそのように見えているだけである。この月面の顔面には意思などというのはない。大量の怪物たちが共食いを行って出来上がっただけの肉の塊である。しかし本能というのは残っていた。共食いをするという本能である。彼らはそれに従って動いているだけである。そしてその本能が今こそ何もかも奪えといって動いていた。奪い取るという本能が、銀の光になっていた。
完全に覚悟を決めた錬太郎の念力が月の顔面をぶち抜いた。錬太郎が拳を振りかぶって、突き出した。そのイメージにしたがって体中から集められたエネルギーが心の高ぶりを伴って、打ち込まれた。覚悟を伴って打ち込まれた念力は、太陽のような光を放っていた。月面を覆う怪物の大きさというのはとんでもなく大きかった。しかし錬太郎のように超能力を自在に仕える存在ではなかったのである。錬太郎にとって月面を覆う巨大な顔はただの忌々しいだけのでかぶつだった。
月の光はどこにも届かなかった。錬太郎の光が、月面から生まれていた光をすべて飲み込み、消し飛ばしてしまったのだ。
そして、月面に現れていた邪悪な怪物の姿も消えていた。残っているのは、月面を覆いつくす銀の砂漠だけだった。月面に怪物はいない。
最終決戦を終えた錬太郎は地球と月の間で揺らめいていた。月の引力と、地球の引力の間でクラゲのように揺れていた。すでに錬太郎の体に光はなかった。宇宙空間の暗黒とほとんど同化しているようだった。錬太郎は自分の放った念力のすさまじさの反動で弾き飛ばされてしまったのだ。力が残っていれば、勢いをコントロールすることができたのだが、今の錬太郎にはそんな力はない。そのため、天体の持つ強力な力の間で、ゆれるだけになっていた。
二つの天体の間でゆれる錬太郎はどちらにも落ちていくことはなかった。錬太郎が漂う位置はちょうどつりあっている場所だったからである。そして引力が錬太郎を引き寄せるよりも早く、錬太郎の命の火が消えるだろう。錬太郎はどこにも落ちていくことなく、消えていく定めにあった。
いよいよ最後のとき、錬太郎は一人きりになっていた。まったく誰も周りにいなかった。あるのは暗黒の宇宙だけ。そして遠くにかろうじて見える星星の光だけであった。
錬太郎はつぶやいた。
「少しだけ寂しいな。もしもあの世があるのならみんなと一緒のところがいいな」
錬太郎は目を閉じた。錬太郎の命が終わるときがきたのである。
彼の光があと少しで消えるというというところで、声が聞こえてきた。どこから聞こえてきたのかはわからない。幻聴のようであった。錬太郎はこの声に聞き覚えがあった。ダナム博士の声だった。
「あるべきものは、あるべきところへと帰る。時間の流れにも落ち着く場所がある。
私の研究は君たちの存在で失敗を迎えた。しかし、君たちの願いはきっとかなうだろう。なぜなら私の理論が正しいと、君たちが証明してくれたのだから。
私はもともとそのためにネフィリムを作ったのだ。時を越えて、私の守りたかったものを守るため、それだけのためだったのだから」
錬太郎の視界が真っ白に染まった。錬太郎の体を作る光が最後に輝いたのである。その光が消えた後、錬太郎はもうどこにもいなくなっていた。




