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救済者と始まりの被害者 一

 花飾錬太郎は目を覚ました。まぶたがパチリと開かれた。冷や汗で額がぬれていた。また呼吸を忘れていたようで、あわてて呼吸を繰り返していた。マラソンでも走り終わったかのようであった。花飾錬太郎が目を覚ましたのは、彼が普段目を覚ます時間が訪れていたからである。なかなか朝、目を覚ますことができない人というのがいるけれども、錬太郎はそうではなかったのだ。

 決まった次官がくれば、決まったように目を覚ます。昨日、その前も、そのまた前の日も決まった時間に目を覚ましている。決まった時間に目を覚まさない日というのがあるとしたら、何かに夢中になって深夜になってもおきて眠る時間が変わってしまわない限りは、ないだろう。錬太郎は、きっちりと決まって時間に眠り、決まった時間に起きたのだ。

 そして目を覚ました顔色の悪い錬太郎は飛び起きた。全身をばねのように使い、跳ね起きたのである。余裕を持って目を覚ましたという動きというのではなかった。あわてていて、遅刻でも恐れているような雰囲気がある。錬太郎が飛び起きたのは、信じられないことがおきていたからである。信じられないことというのは、自分が目を覚ましているということである。眠りに着く前の彼は自分は死んでしまって、二度と目を覚ますことなく永遠の闇の中に沈んでしまうのだと信じていたのである。

しかし錬太郎は目を覚ましている。死の眠りについたはずなのに永遠に戻るはずがない場所に自分がいた。

 錬太郎がつぶやいた。

「夢か? あれはすべて、夢だったのか?」




 跳ね起きると錬太郎は今いる場所を確認した。錬太郎の形相は必死そのものだった。自分が長年使っている部屋を、殺人犯の部屋を探す警察官のような必死さで見て回っていた。それはそうで、もしも錬太郎の感じている淡い期待が本当かもしれないのだから必死にもなる。というのが、錬太郎というのは、何もかもが奪われてしまって絶望していたのだ。故郷家族友達、何もかもが失われて悲しんでいたのだ。しかしそれが何かしらの奇跡で戻ってきたかもしれない。

 錬太郎にはどうして自分がもう一度同じところに戻ってきたのかというのはわからなかった。そして理屈を理解しようということも考えていなかった。錬太郎は戻ってきたというだけで十分だった。それを証明するために自分を信じさせるに足りるものを見つけていくために必死になった。今錬太郎が行っているのは日常の証拠探しである。

 十分ほどの証拠探しの後、錬太郎はつぶやいた。

「俺の部屋?」

呼吸はずいぶんと荒くなっていた。しかしその声には十分な希望が満ちているようであった。家捜しをしたので汗をかいていたけれども、それをまったく気にしている様子もない。錬太郎は確信ではないけれども、自分が戻ってきたと思えるものをたくさん見つけられたのだ。小さなころに買ってもらったラジコン。男勝りな姉から身だしなみを整えるようにといって送られた大きな鏡。友達が自分に押し付けるように貸してきたマニアックなコミック十冊。

 どれもこれも、間違いなく錬太郎の部屋にあったもので、失われたと思っていたものであった。ほかにも錬太郎は自分が生きてきた証拠になるものをたくさん見つけていた。当たり前のことで、ここは錬太郎が暮らしていた部屋で、暮らしている家で、世界なのだ。彼が生きてきた証拠は山のようにあった。それを見つけられたことで、錬太郎はほっとして、つぶやいたのだ。あの怪物たちと戦い命を使い果たすまで戦った世界から戻ってこれたのだと。

 理屈はまったくわからないが戻ってこれたという確信を得られた錬太郎はベッドのそばにおいてある時計を手に取った。針はまだ六時を刺していない。少しあわてているようであった。錬太郎が時計を手に取ったのは、そろそろ時計が鳴り始めるからである。

 錬太郎はほとんど目覚まし時計の目覚ましというのを使ったことがない。なぜなら決まった時間に決まったようにおきることができたからである。しかし一応の保険として、時計の目覚ましをかけていた。普段は時計の目覚ましがなる前に目覚ましを切ってしまうので、うるさくならない。しかし本日は、悪夢を見た恐れから目覚まし時計を切っていなかったのである。さてそろそろなり始めるぞというのがわかっているので、それを防ぐために、時計に手を伸ばしたのである。朝っぱらからうるさいのはいやだったのだ。

 時計を止めようとしたときであった、錬太郎はくしゃみをした。風邪を引いたときのくしゃみではない。鼻がむずむずとしてきて、どういうわけだかくしゃみが出てしまったという感じである。しかし大きくくしゃみをするということはなく、小さなものだった。くしゃみが出るなという予感を感じ取って、錬太郎はくしゃみの衝動を弱めたのである。錬太郎がくしゃみをしたのは風邪を引いたからではない。錬太郎の持っている時計が太陽の光を反射したためにくしゃみが出たのである。ちょうど上ってくる朝の日差しが、カーテンの隙間から差し込んでいたのだ。それが、銀色の時計のフレームにぶつかり、錬太郎の目に入っていった。そうすると青空を見上げたときと同じような勢いで、くしゃみが現れてしまったのだ。

 くしゃみをしたときに、錬太郎は時計から手をはなしてしまった。思い切り捨ててしまうということではなく、微妙な力の入れ加減を間違えて、取りこぼしたのである。錬太郎はくしゃみを抑えるというところに一生懸命になりすぎていたのだ。錬太郎は自分のくしゃみというのが大きくなると、うるさいだろうなと考えたのである。朝の早い時間であるから、音が少ない。音が少ないから、大きなくしゃみなどしたらご近所さんに聞こえてしまうだろうし、家族も何事かと思うはずだ。そう考えて、抑えるところに意識が向きすぎてしまっていた。そうして意識が時計に向かなくなっていて、それに加えて、自分の手のひらが思いのほかぬれているというのに気がつかなったものだから、時計を落としてしまうようなことをやってしまったのである。

 時計が自分の手から離れるとすぐ、錬太郎ははっとした。目をかっと開いて、口元がやってしまったというようにゆがんでいた。錬太郎は自分の失敗に気がついたのである。このままだと時計は部屋の床に落ちる。そして金属が床に大きくぶつかって、とんでもないことになるだろう。とんでもないというのは音が鳴るということもあるが、時計が壊れてしまうかもしれないということである。錬太郎はもしかしたら時計が落ちて壊れるかもしれないということに気がついて、やってしまったというような顔をしたのだ。

 しかし、あわてて時計に手を伸ばそうとしても届かない。ほんの一瞬の出来事である。後一秒もしない間に床にたたきつけられるだろう目覚まし時計をキャッチしようと動いていたが、どうやっても届くような距離ではなかった。時計が重力にひかれて落ちていく速度は錬太郎が全身の力を使って、失態を取り戻そうとするよりも早かったのだ。もうすこし目覚まし時計が高い位置から落とされていたら、錬太郎はキャッチできていたかもしれないが、流石に床から一メートルもないかというところから落とされた時計をつかみなおすのは難しかった。

 「落とした」

錬太郎が思ったとき、時計が動きを止めた。床におちることなく、あと数センチのところで止まっていた。まるではじめからそういうものだったかのようであった。床からあと一センチというところでトリックを使い作られた不思議な写真のように動きを止めたのである。目覚まし時計がまったく動かなくなったのは、見えない力によってとどめられているからである。それは崩壊した世界で自分の手足として錬太郎が使っていた力と同じものであった。時計が床とすれすれの位置で止まっているのは錬太郎の力が発揮されているからである。これは錬太郎の念力である。

 自分の部屋の床すれすれで動きを止めた時計を認めた後、錬太郎はふらついた。顔色が悪くなっていた。真っ青だった。呼吸が荒くなっていた。汗もかいているようだった。錬太郎は調子を崩していた。悪夢だと思い始めていた世界が本当だったということが恐ろしいんではない。一キログラムにも満たない軽い物体を念力で動かしただけで、錬太郎の体にとんでもない疲労感が襲ってきたのである。念力が使えるということ自体が恐ろしかったのではなく、現在肉体を襲っている疲労に耐えられなかったのだ。

 錬太郎がふらついた少し後、時計が静かに床に着地した。ゆるゆると時計が床に着地したのだ。まったく音というのはなかった。あるとしたら床と触れ合ったときに金属の軽い音がしたことくらいである。ゆっくりと時計が着地をしたのは錬太郎の念力が失われたからである。もともと重力にひかれておいていたのだから、邪魔をするものがなければ重力に引かれていくのは自然の流れである。しかし錬太郎が念力を持って勢いを殺していたので、床に思い切り落ちていくということはなかった。もしも念力がなく、そのまま落ちているようなことになれば、完全に壊れることはないだろうが、カバーガラスにひびが入るくらいの事は起きていただろう。

 めまいに襲われた錬太郎は、ベッドに腰掛けた。荒かった呼吸はずいぶんと落ち着いてきていた。しかしまだ顔色は悪い。そして冷や汗が止まっていなかった。錬太郎は立っていられなくなっていたのである。かといって寝込むというほどでもなかった。少し落ち着いていたら体調は回復するだろう。しかしまっすぐに立っていられるほどの余裕はなかった。

 ゆっくりと体調を整えてから、錬太郎は首を縦に振った。大分顔色がよくなっていた。自分の体調がよくなっていることを確認したためである。もしかしたら一日中体力の回復に勤めなくてはならないかとも思っていたところである。しかし、落ち着いて休んでいると、思いのほか早く体調が回復していた。そして体調がよくなっていくにつれて、気分もよくなり、前向きになってきたので、錬太郎はうなずいたのだ。よし、やってやろうという気持ちになっていた。

 そして、立ち上がり服を着替えた。今までの弱弱しい様子からは打って変わってとてもてきぱきとしていて元気がよかった。冷や汗でぬれてしまった寝巻きを脱ぎ捨てて、さっさと学校の制服に着替えてしまった。錬太郎はこれから学校に向かうのだ。学校に向かうためにはまず準備をしなくてはならない。学生服を着るというのは、錬太郎の学校の決まりである。もしも守っていなければ、学校の先生にとっ捕まって説教を受けることになるだろう。そして自宅に戻されるか、たいそう服で一日過ごすことになる。もちろん学校から支給されるものである。そういう面倒を避けるため、いつもどおりの準備をするのである。




 錬太郎が準備を終えて部屋から降りてくるころには、すでに父親と母親、そして姉は朝ごはんを食べていた。父親はすでに食べ終えて、お茶を飲んいる。母親はまだ半分も食べていなかった。姉は、お茶漬けを一心不乱に食らっていた。当たり前の光景であった。錬太郎よりも家族がすばやいのは、今に始まったことではない。昨日も、二日前も、三日前も同じような光景があった。これが当たり前なのだ。

 家族の姿をしっかりと確認してから錬太郎は挨拶をした。

「おはよう」

鼻声になっているようだった。花粉症にでもなったかのようだった。錬太郎が挨拶をするのも、また当たり前のことである。いつもと変わらない朝が来たのだから、いつもと変わらない挨拶をするのは当たり前である。ただ、当たり前の日常があるということがとても大切なことなのだと錬太郎の心には刻まれてあった。そのため、ほんの少しだけ鼻声になったのである。涙がこぼれなかったのはここで泣いてしまったら格好が悪いと思ったからだ。まさか、悪い夢を見て家族が生きていることを確認できて泣くなどと、小さな子供でもなかなかない話をするわけにはいかないのだ。

 少し鼻声の錬太郎に家族が挨拶を返してきた。父親も母親も、姉もまったく変わった様子がなかった。挨拶といってもまともに挨拶を返してきたのは母親だけで、父親も、姉も

「応!」

としか返していなかった。これもまた当たり前のやり取りであった。父親は昔からこういう挨拶の仕方であったし、姉も父親の挨拶のほうがやりやすいということで親しい間柄にはこういう挨拶しかしなかった。

 軽い挨拶が終わると、錬太郎は自分の席に座った。錬太郎はうれしそうだった。できるだけいつもどおりに振舞おうとはしていたが、それでも楽しくてしょうがないといった気持ちが隠せていなかった。家族が見ればすぐにわかるほどニコニコしていた。錬太郎はうれしくてしょうがないのだ。何もかもが失われたと思っていたものが、戻ってきている。自分が失ったものが、目の前にある。どれだけ、戻ってきてほしいとと思っても帰ってこないものが目の前にあるのだ。いろいろと恐ろしい夢を見ていたが、そんな夢を見てきたこともまったくどうでもいいと思えるほどのありがたい光景だった。


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