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悲劇 三

 美術室に向かう廊下を錬太郎は歩いていた。先生とすれ違ってから錬太郎は少しだけ心を持ち直して普段どおりの勢いで歩くことができるようになっていた。美術室には、おそらく錬太郎が連れて行くと約束をした池淵頼子がいるはずだ。錬太郎は彼女に声をかけて、ついてきてもらえるのかどうかというのを確かめなくてはならない。残念なことに携帯電話の番号もメールのアドレスも知らないので直接ききにいかなくてはならないのが面倒なことである。

 廊下は人気がなかった。とても寂しい廊下だった。夕焼けが差し込んできて、光はあるけれども、陰のつき方が激しくてあまり長居をしたくない廊下になっていた。美術室というのは少し離れた場所にある。そのため放課後になってしまうとほとんどの学生というのは美術室に近寄らない。あえて美術室に来る用事というものを持ったものなどほとんどいないのだ。だから人気などというのはまったくないわけで、当然だけれども部活動さえ終わる時間になってくるとこの道を歩くものなど、錬太郎くらいのものだろう。

 あと少しで美術室というところで、声をかけられた。元気のいい挨拶もついてきた。

「あぁ! れんちゃん! 久しぶり! 三日ぶりかな!」

錬太郎に声をかけてきたのは、背の低い女子生徒である。名前を万年院静という。平均的な身長よりも低い。そして体が細い。そのせいで錬太郎のようにやたらと背の高い男がそばに立つと、とんでもなく小さく見えてしまう。あと少しで美術室というところで彼女が教室から出てきて、錬太郎を見つけたのだ。彼女が声をかけてきたのは、錬太郎を見つけたからである。それ以外に特別な理由というのはない。

 錬太郎の視線が、かなり下に向かった。その目の動かし方というのは手馴れたところがある。何度も繰り返していた目の動かし方だった。錬太郎が目を下に動かしたのは、万年院の身長が低いからである。身長が低いので、顔を見ようとするとどうしても目を下に向けなくてはならない。特に錬太郎は男子の平均身長よりも十五センチ近く高いので思い切り下を見るようにしなければ目もあわせられないのだ。ひざを突くということをやってもいいが、それをやると、万年院が嫌がるのだ。

 錬太郎は挨拶をしてきた女子生徒、万年院に挨拶を返した。

「お久しぶり、しぃちゃん」

万年院の挨拶よりもずっと小さな声で挨拶をした。しかしおかしなことではない。人気がまったくない廊下で、大きな声を出す意味がないのだ。これが人通りの多い交差点だとか、雑音のひどいディスコならばわからないでもない。しかしここは人気のまったくない廊下だ。どうして大きな挨拶を交し合わなければならないのだろうか。

 しぃちゃんと呼ばれた女子生徒万年院は一気に距離をつめてきた。十メートルほどあった距離が、あっという間になくなった。距離を縮めてきたのは挨拶をしたのだから、会話でも一丁やってやるかというような気持ちになったのである。この幼馴染と話をしようじゃないかという楽しい気持ちを万年院静は持っていた。そもそも挨拶をしたのだから、まったく何もせずに素通りさせるなどということが頭にない。

 そして一気に距離をつめてきた万年院静が話を始めた。

「いやぁ、晶子さんに相談してよかったよ。こんなに早く対応してくれるとは思わなかった!

 話は聞いてるよね! 頼子先輩がへこんでるみたいだからさ相談に乗ってあげてほしいって話!」

話のスピードというのが非常に早いのに加えて、声がでかかった。もともと声が大きいのに加えて、興奮しているのも悪かった。そのため声がでかくなっている。そして特に人の悩みに関係する問題である。池淵頼子本人がとても悩んでいる大切な問題だと思っているものだから錬太郎の姉に相談することで解決できるという思いも加わって、うれしくなってこうなった。

 錬太郎の表情が少しだけゆがんだ。うるさいなというような顔ではない。むしろもしも失敗したときには面倒くさいことになるだろうなという顔だった。というのが錬太郎は池淵頼子を無理やりに連れて行くなどとは考えていない。そのためもしも池淵頼子がいやだといったらそのまま帰えるつもりなのだ。そうなったとき、この興奮気味の女子生徒が許してくれるのかというところに頭が働いたのである。その失敗したときに目の前にいる女子生徒が何を言ってくるかというのを考えて、いやな顔をしたのだ。

 万年院静が、さらに何かを告げようとしたときであった。美術室の扉が開いた。結構な勢いで扉が開いた。扉を開いた誰かというのは、ずいぶん機嫌を悪くしているに違いない。そう思わせるには十分な勢いがあった。

 美術室から出てきたのは、髪の毛の長い女子生徒である。名前を鬼島姫百合。錬太郎と万年院静の先輩である。身長百五十センチほどで、万年院よりは少し厚みがあった。しかし錬太郎だとか早房ツバメからしてみるとずいぶん細く見える。また、髪の毛がまっすぐで肩を少し過ぎたところで切りそろえられている。出てきたときの顔というのが少しばかり怒りに染まっていた。出てきた理由は万年院静だ。

 錬太郎は、はっとした。だるそうにしていた目を開いて、すぐにきりっとして見せた。万年院と面倒くさい問題について頭が混乱していたが、目の前にいる女子生徒が先輩であることに思い当たったからである。挨拶をしないというのがまずい。錬太郎の部活動の先輩ということではないが、知り合いなのは間違いないのだ。無視しておくわけにはいかない。

 そしてすぐに、挨拶をした。

「お久しぶりです、姫百合先輩」

苗字で呼ばなかったのは、鬼島姫百合が、自分の苗字を嫌っているから。彼女が苗字を嫌いな理由は、いかついからである。

 錬太郎が挨拶をすると鬼島姫百合はすぐに挨拶を返してきた。

「久しぶり。また大きくなったみたいね。うらやましいわ。少し分けてくれないかしら。今何センチ?」

鬼島姫百合の声というのはずいぶん澄んだ声だった。不思議なことで声の抑揚というのが非常に少なかった。普段よりも少し機嫌が悪いからだろう。

 錬太郎は答えた。

「百八十九くらいだったと思います」

錬太郎は少し鬼島姫百合から引いているようだった。なんとなく、彼女の機嫌が悪いことを察したのだ。しかしどうして機嫌が悪いのですかなどというような話をするつもりはまったくない。

 鬼島姫百合の表情が少しだけ変わった。私は平均身長を超えるか超えないかというくらいしか伸張がないのに、あなたはまだ身長が伸びたりするんだ。ふうん。といったような表情だった。

 鬼島姫百合は、そうだったといって手をたたいた。大きな音は出していない。手のひらと手のひらを少し勢いをつけてあわせただけだ。

 そしてこういった。

「万年ちゃんうるさいわよ。教室まできっちり聞こえてたわ」

目を細めて、自分よりも身長が低い万年院をにらんだ。しかし迫力がない。美術室から出てきてまで注意をしたのは、本当にうるさかったからである。一応注意をしておかないと同じ音量で話し続けるのでそれをとめたかったのだ。

 注意を受けた万年院静は小さくなった。もともと小さいのが、余計に小さく縮こまった。万年院自身も自分が時々興奮して、声が大きくなっているのを知っている。だから、注意されたことで、恥ずかしくなってしまったのだ。しっかりと注意をして、最近はできるだけ抑えられていたのに、そういう気持ちがわいてきてしまって、彼女はどうにも胸を張っていられなかった。

 万年院静がしょんぼりとし始めたところで錬太郎は、鬼島姫百合に聞いた。

「池淵先輩はいますか? 姉が話したいらしくて」

少し大きめの声で、鬼島姫百合に聞いた。このようにしたのは用事を済ませるため。そしてもう一つは、小さくなっている万年院静をかばうためだ。このまま何も話さずにいたら、へんな沈黙が訪れるのは目に見えていた。だから、さっさと要件を済ませて、それで気まずい事態を避けようとしたのである。

 鬼島姫百合は、答えた。

「すぐに出てくると思うわよ。ちょうど支度をしていたところだしね」

特に悩むとか、迷うということはなかった。それはそのはずで、鬼島姫百合が錬太郎の姉、晶子にお願いをしたのだから、池淵頼子を呼び出すというのもおかしなところが少しもない。



 美術室から胸の大きな女子生徒が現れた。この女子生徒が錬太郎の姉、晶子がつれてこいと錬太郎にお願いをした池淵頼子である。身長が百六十センチ後半で、同年代と並んでみると頭が少しだけはみ出る感じになる。池淵頼子は両手に荷物を持っていた。部活動が終わったため、帰りの支度をしていたのだ。そして、錬太郎が自分を呼び出していることに気がついて、荷物を持って出てきたのだ。

 池淵頼子に錬太郎が挨拶をした。

「お久しぶりです、池淵先輩。姉さんから連絡が届いているはずなんですけど」

恐る恐るというのがふさわしい話し方である。錬太郎というのは自分が女性に受けない見た目をしているとわかっていた。何せ身長がやたらと高く、筋肉もついている。その結果、どうしても女性が好む格好とは違ってくる。最近の流行とは違っているとわかっているのだから、話しかけるというのにも気を使わなくてはならない。もしかしたら怖がられるかもしれない。それは勘弁してもらいたいところである。

 池淵頼子は、挨拶を返した。

「久しぶりね。えぇ、届いているわ。断るわけがないじゃない。お邪魔させてもらうわ」

何度か鬼島が誘ったという話だったが、ずいぶん普通の対応だった。友達同士の手紙のやり取りについて話をしているような、気軽な感じである。それはそのはずで、今までは友達がすこし気を回してくれていて、断りやすかったのだ。それがいまや、錬太郎の姉晶子が自分の弟まで使って、無理にでも話を聞きたいといって動き出している。ここまで動かれてしまうと、断るというのも難しい。それこそここでいやだといって断れば、錬太郎の姉晶子が、じきじきに現れる可能性さえあるのだ。

 そして池淵頼子は、荷物を差し出した。右手に持っている重たそうな荷物を差し出した。細い右腕がプルプルと震えていた。池淵よりこの両手というのは荷物でふさがっていて、錬太郎というのが男で、力持ちである。そしてエスコートをしなければならないのが錬太郎だから、やることというのはひとつだ。

 池淵は、こういった。

「持ってくれないかしら。私の細い腕だとちょっと重すぎるの」

少し含みのある言い方だった。こういう含みのある言い方をしなくてはならなくなったのは、錬太郎が荷物を突き出している池淵頼子を、前にして、たいした動きを見せなかったからなのだ。錬太郎は腕を突き出しているのをぼんやりと見ているだけだったのだ。どうみても荷物もちをしようという気持ちはなかった。

 錬太郎は少しいやな顔をした。荷物もちまでやらないといけないのという気持ちが顔に出ていた。

 錬太郎の前には、鬼島姫百合と、万年院静と、池淵頼子がたっていた。三人とも少し期待している目だった。言葉にはしていなかったが、もちろんこういうときにはどうしたらいいかわかっているねというのが、雰囲気として感じ取れた。

 雰囲気を察した錬太郎はうなずいた。いやいやという感じではない。しょうがない、やってやるかという思い切ったうなずきであった。荷物もちくらいならたいしたことではないのだ。重たいといってもせいぜい一キロか二キロのもの、ダンベルよりは軽かろう。そしてこういった。

「わかりました」

 そして、池淵頼子の差し出した荷物を受け取った。池淵頼子はずいぶん重たそうに荷物を持っていたが、錬太郎はそうでもない様子だった。実際荷物を受け取ったとき錬太郎はこんなものかというような表情をしていた。

 それを見て、鬼島姫百合が言った。

「万年ちゃんくらいなら片腕で運べそうね」

驚いている様子であった。鬼島姫百合というのは錬太郎がなかなかいい体をしていることは知っていた。しかしその腕力というのが、自分たちがひぃひぃいいながら持ち運ぶ荷物を軽々と持って、たいしたことが内容に振舞えるほどだとは思っていなかったのだ。

 鬼島にからかわれた万年院静はいやそうな顔をしていた。錬太郎なら簡単にやってのけると知っていたからである。

 鬼島姫百合と、万年院静に池淵頼子と錬太郎が挨拶をした。錬太郎が

「では、失礼します」

といい、続いて池淵頼子が

「失礼します」

といった。

 そして花飾の家に向かった。池淵頼子の前を錬太郎が歩いていた。その後から少し遅れて池淵頼子がその後をついていった。錬太郎のほうが歩くスピードが早いのである。



 学校の校門を出たとき、錬太郎は目を細めた。夕焼けが、まぶしかった。

 池淵頼子がこういった。

「展望台にいきたいわ。もう少ししたら、夕焼けに染まる町が見えて、とてもきれいなの。知ってるでしょ」

 錬太郎が答えた。

「知ってますけど、日が暮れますよ」

池淵頼子のいう夕焼けを見に行くために学校近くの展望台に行くとしたら、間違いなく日が暮れる。そうなると足元が危なくなる。道が整備されていないということではないから、まったく光がないということはない。しかし、好き好んで危ない道をつれて歩きたいとは錬太郎は思わないのだ。

 池淵頼子がこういった。

「それなら、コイントスで決めましょう。言い争ってもしょうがないし、私も錬太郎君も譲らないでしょうから。

表が出たら、私のお願いを聞いてね」

ずいぶんと楽しそうだった。コイントスをすることが楽しいということではない。これから二人で行くことになるだろう展望台で見る夕焼けのことを思って、心弾ませているのだ。池淵頼子は錬太郎がお願いを聞いてくれると確信していた。

 錬太郎が眉をひそめた。面倒くさいことをやるなという気持ちが出てしまったのである。錬太郎は、口では辞めておこうというような意味の言葉を出した。しかし池淵頼子のお願いを聞かないつもりだったわけではないのだ。むしろ頭は展望台に向かうように切り替わっていた。池淵頼子がいちいち面倒くさいことをやるのでそれが時間の無駄だろうというように錬太郎は思ったのだ。

 池淵頼子がコインをはじいた。ポケットの中に入れていた小銭を使って、親指に載せてはじいた。

 コインが宙をまった。コインは結構な高さまであがった。

 コインは、池淵頼子の手のひらに落ちた、コインは裏を示しいた。



 錬太郎は、口角を上げた。意地の悪い微笑だった。錬太郎は思ったのだ。表が出たら、展望台に行くという話しだったが、裏が出たわけだから展望台へ行くという話しはなしだろうなと。さて面倒くさいことをやって、目的を達成できなくなりそうな先輩は、道切り抜けるのだろうか。それを思うと、錬太郎は悪い笑みを浮かべずに入られなかった。

 池淵頼子は、コインを受け止めた手にもう片方の手を合わせた。コインを受け止めた手と反対の手というのはあいている。だから、その空いている手を受け止めた手の上に置く。ちょうど、拝むような形である。

 そして、かぶせたほうの手が、下になるように手をひっくり返した。上下が反転するのだ。上を向いていたものが下を向くようになる。当然だけれども、コインの裏のしるしもひっくり返ることになるだろう。

 そして手を開くと表側を示しているコインがある。それを錬太郎に見せた。池淵頼子はずいぶん満足気だった。一応、表が出たからである。一度出てきた裏表示のコインについては、記憶にありませんということで済ませるつもりらしい。何にせよ、目的は達成できるだろう。錬太郎が見ないふりをしてくれたら。

 錬太郎の眉が上がった。怒っているということではなくあきれているのだ。まさかここまで露骨ないかさまをやられるとは思わなかったのだ。

 池淵頼子が言った。

「表が出ましたね。私のお願いを聞いてもらいましょう。だめ?」

流石に、だめだろうかというような気持ちが、声の勢いに出ていた。ずいぶんしおれている。池淵頼子も流石に無理があったのがわかっているのだ。いっそのこと普通にお願いをしたほうがよかったかと、反省するくらいの気持ちがある。

 錬太郎は言った。

「わかりました。いきましょう」

怒っていたりはしていない。初めから展望台にいくということだけは決めていたところがある。ただ、理由が変わっただけだ。もともと展望台にいくことだけは決めていたのだ。いまさら帰るつもりなど錬太郎にはなかった。ただ、面倒くさいことをやるなよというあきれがあっただけだ。

 池淵頼子はうなずいた。うれしそうだった。



 展望台は、学校から少しはなれたところに作られていた。展望台といってもものすごく大きな山にあるわけではない。小高い丘の上に、ベンチがいくつかおいてある。そしてその近くに自販機が置いてあって、町の景色を楽しむことができるようになっているだけである。アトラクションがあるとか、遊べる遊具があるとか、そういうものはない。数年前に町のお金に余裕があったので、ベンチを作ってみたりしたのである。その名残が、今でもここにある。

 展望台に向かって歩いているときに、池淵頼子が話しかけてきた。

「錬太郎君はどうするの? そろそろ、進路を決める時期でしょう」

世間話をするような調子で話しかけてはいたが、真剣な調子が隠れていた。池淵頼子自身が抱えている悩みと重なっている問題だったからだ。

 錬太郎は答えた。

「一応、大学に行くつもりです」

錬太郎は冷静だった。どういう選択肢を選ぶのかということ事態は、とっくの昔に決まっていたのだ。大学に進学する。そこまでは決まっていた。問題なのはここではないのだ。

 答えを聞いた池淵頼子がこういった。

「ふーん」

冷たい感じだった。何せ錬太郎の問題が解決していて、自分とは違うというのがわかってしまったから。冷たくもなる。もちろん錬太郎に非はない。

 錬太郎の手をつかんで止まらせて錬太郎の顔を池淵頼子が覗き込んだ。錬太郎のほうが、はるかに身長が高いので、錬太郎の顔を覗き込むのはとても簡単だ。このようにしたのは、池淵頼子が錬太郎の心の中に迷いがあるということに気がついたからだ。池淵頼子は自分が抱えている悩みと同じようなものを錬太郎にも植え付けてやろうとしていた。ただの嫌がらせである。

 そして錬太郎に質問をした。

「どうして? どうしてそうするの?」

しっかりと錬太郎の目を見つめていた。きいてやったというような達成感が、その顔に浮き出ていた。池淵頼子は錬太郎との付き合いがそこそこある。小さなころからなんども顔を合わせている。万年院静だとか早房ツバメほど親しくはない。しかし、わかることはある。だからこそ、錬太郎が何かに悩んでいることも簡単に見抜いてしまう。だからそこをついた。質問をしてしまえば、何か悩んでくれるだろう。そう思ったのだ。

 質問をつけた錬太郎は、池淵頼子と視線をはずした。異性と目を合わせるのがつらかったということではない。錬太郎は池淵頼子の目をじっと見つめているとどうしようもない焦りを感じてしまったのだ。言いようのないあせり。今まで感じたことがない焦りを感じて、錬太郎は視線を結んでいられなくなった。

 間を空けて錬太郎は、答えた。

「わかりません。なんとなくです」

錬太郎は嘘を答えた。理由自体はすでに進路調査票に書いてある。理由は単純で、見てみたいと思ったから。それだけである。しかし答えなかった。何せこんなに馬鹿な理由があっていいわけがないという気持ちがあるからだ。正直に答える勇気がなかった。

 池淵頼子はそれを聞いて、普通に歩き始めた。先ほどの出来事などまったくなかったとでもいわんばかりの普通さだった。池淵頼子が普通に歩き出したのは、十分目的を果たせたからだ。自分と同じように悩んでいる人がいる。少なくとも自分の手の届く範囲にもう一人いる。それがわかったことで、池淵頼子はほっとしたのだ。ほっとしたからこそ今までのやり取りを続ける必要はない。

 そしてこういった。

「そっか。なんとなくか」

とてもうれしそうだった。


錬太郎は、先を歩く池淵頼子に聞いた。

「はい。なんとなくです。なんとなく俺は、決めました。

 池淵先輩は、どうなんですか。どうして、その進路を選んだんです」

口調にすこし力がこもっていた。自分に対してわずかな悪意が向けられたことを錬太郎は察していた。もちろん理屈として頭が働いたわけではない。動物的な感覚で、錬太郎は池淵頼子が自分に牙をむいたことを察したのだ。だから少しだけ相手に対して攻撃的になった。

 池淵頼子は歩きながら答えた。喜んでいるのか、悲しんでいるのかわからない話し方だった。

「なんとなくかな。晶子さんに話を聞いてもらったり、先生に話を聞いてもらったり、友達の話を聞いてみたりして参考にした。みんな協力してくれた。そして一生懸命になって考えてくれた。そして私は誰もが納得する道と理由を手に入れた」

 池淵頼子は少し前をすすんで、振り返った。軸足を起点にして、きれいに回って見せた。錬太郎と向き合うためである。そして錬太郎に微笑んで見せた。

 池淵頼子はこういった。

「サイコロを振るように選んだの。自分で選ぶ勇気がなかったから。笑う?」

 錬太郎は答えた。

「笑いませんよ」

同じだからとはいえなかった。



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