悲劇 二
ホームルームが始まった。チャイムがなった後のことだった。少し遅れてから担任の先生がクラスに入ってきた。漫画の話で熱中していた二人だったが、一度目のチャイムが鳴ったところでさっさと話を中断していた。そしておとなしく先生が来るのを待っていた。ほかのクラスメイトたちも一度目のチャイムがなったときにはさっさと席に戻っていた。そのためホームルームというのは先生が入ってきて、あっという間に始まった。
そしてあっという間に終わってしまった。担任の先生はこういった。
「特に連絡事項はないね。あぁ、そうだ。進路調査票を来週までに提出して頂戴よ。もしも来週までに提出できないようなら、先生が自宅に連絡しちゃったりするかもしれないから、気をつけて。では、ほかに何かいいたいことがある人、いる?
いなかったら、朝の会はこれで終わりぃ。よし、いないじゃあ、今日もがんばっていきましょう」
連絡事項が毎日あるわけでもない。そのため担任の先生は特に問題がないようならば、さっさとやることをやって、さっさと出て行くことが多かった。ほかのクラスの担任をしている先生たちは、いろいろと話をしたりするらしいのだが、このクラスの担任の先生というのはやることをやって、必要なときだけ時間をとるというのが多かった。
ホームルームが終わるとクラスメイトたちが動き出した。携帯電話を取り出してみたり、友達に話しかけてみたり。ホームルームがすばやく終わると、一番初めの授業の間に微妙な時間ができる。その時間というのはどういう風に使ってもいい。もちろん静かに使うのが基本である。勉強をするのもいいし、友達からノートを借りるのもいい、宿題を写させてもらうというのもありだろう。好きに使っていいのだ。
ホームルームが終わったときに錬太郎は進路調査票を出せなかった。錬太郎のかばんの中には、記入漏れのない進路調査票が入っていた。しかし錬太郎は、ホームルームを終えて、出て行く先生を見送ることしかできなかったのである。錬太郎はまだ、微妙に悩んでいたのだ。一応大学進学といって決めてはいた。決めてはいたけれども理由がまったく人に見せられないように思えたのだ。錬太郎はどうして大学を志望するのかというところに、こう書いてある。
「見てみたいと思ったから」
まったく嘘はないのだ。大学というのがどういうものなのか、何をする場所なのかを見てみたい。体験してみたい。それだけなのだ。しかしそれだけでは志望理由にはならないと錬太郎は思っている。正しい理由ではない。そういう気持ちがあったものだから、錬太郎は調査票を先生に提出できなかった。こんな理由では人前に出て行く勇気を持てなかった。
ホームルームが終わって少ししてから一時間目の授業が始まった。授業を担当している先生が荷物を持って現れて、
「さぁ、はじめようか」
といって始まった。授業というのは決まった時間に、決まった内容の科目の勉強をすることになっている。遅れてくるということはまずありえない。一時間目の担当をしている先生はしっかりと時間を守って、仕事をしているのである。
一時間目が終わった。特に、何の問題もなく一時間目の授業が終わった。生徒たちは黙って授業を聞いていた。話を聞き流しているということはない。先生が問題を飛ばしてくれば、それを打ち返すことも十分にできていた。問題が特に起こらないというのなら授業はさっさと終わっていく。延々と先に進むというのもありだろう。しかし、あまり先に先に進んでいくと、先生の授業の計画が狂うのだ。なので、やるところが終わると、それ以上は進まない。そうして時間内にやることをやってしまったら、後は時間がきたらすぐ終わりということになる。
休み時間になった。学生だからといって一日中勉強をしているということはない。休む時間も必要だ。
休み時間になって少ししてから早房ツバメが話しかけてきた。質問をしてきたのだ。
「ださなかったのか? もう書いていたじゃないか。あれで出してもたぶん受け取ってもらえると思うぞ」
早房ツバメは不思議だったのだ。進路を決めてしまっていて、しかも理由も一応は決まっているのを知っていた。理由こそ人それぞれあるが道は決まったのだ。錬太郎の調査票を先生にもっていったとして、それがいったい何の問題になるのか。早房は錬太郎が、大学に進むというのを知っているのだから、出すこと自体はまったく難しくもなんともないだろうと思っていたのだ。何せ書いて出すだけだから。
不思議そうにしている早房ツバメに錬太郎は答えた。
「ああ。理由がなおかしいような気がして出せなかった」
錬太郎は少し笑っているようだった。自分がおかしくてしょうがないのである。錬太郎のカバンの前にある進路調査票には自分が考えて決めた道というのがしっかりと書かれている。しかしそれを持っていくだけの気持ちになれないのである。理由もしっかりと書かれている。また、嘘もない。正直な気持ちを正直に書いていた。しかし出せないような気持ちがあるのだ。おかしくてしょうがない。理屈に合わないのが自分でもわかっていたのだ。
早房ツバメが質問をしてきた。
「理由がおかしい? まだ何か、理由があるとか?」
早房ツバメは自分の顔を前で手を振って見せていた。まったくなにがいいたいのかわからないといった表情だった。早房にとって、進路調査票というのは錬太郎のように一生懸命になって考えるものではないのだ。もちろん進路を考えることは大切だろう。しかし結局のところ大切なのは自分がその進路を選び取って、達成できるのかというところに限ってくる。どれだけ道を選ぶ理由がすばらしくあろうが、歩けなければ意味がない。少なくとも早房にとっては理由などどうでもよかったのだ。だから、真面目にいちいち考えている錬太郎というのが不思議だった。
さっぱりわからないという早房ツバメに錬太郎は答えた。
「わからない。たぶん、これ以上の理由はないはずなんだがな」
解けない問題にぶち当たって、悩んでいる学生そのものである。しかししょうがない話である。自分ではすでに理由が出来上がっているというのに、それを先生に持っていくというだけのことができないでいるのだから。まったくおかしなことであると思ってしまってもしょうがない。提出しなければならない書類は出来上がっている。どこにいきたいのかというのも決まっている。理由も決まっている。しかし持っていくことができない。どうしてもっていけないのかといわれても答えられない。これはおかしい。
早房ツバメがこういった。
「律儀なことだな。まぁ、時間はある。悩めばいいさ。納得できる理由が見つかるまでお前の好きなようにすればいい。いざとなったら、俺が背中を押してやるよ」
力強い口調だった。本当に、錬太郎が迷い続けてどうしようもなくなったら、理由になってくれるような頼りがいのある言葉だった。早房ツバメは、これといって難しいことを考えたわけではない。恩を売っておきたいとか、利益につながるなどということは考えていない。ただ、もしもの時には助けになりたいという気持ちがあったのだ。よくあるちょっとした友情だ。
夕焼けであった。強烈な赤い光が、教室の中を染め上げていた。もう少し時間がたてば太陽の角度が変わってきて、穏やかな赤色で町全体を染めてくれるだろう。そろそろ、晩ご飯でも食べたくなる時間なのだ。授業がすべて終わり、特に問題もなく時間は過ぎていった。時間が過ぎれば、自然のルールとして、太陽が傾いてくる。朝が来れば昼が来て、昼が来れば夕方が来て、そして夜が来る。夜になったら月が出て、その自然な流れが、当たり前のように現れたのだ。
錬太郎は一人きりで教室にいた。でかい体をいすに乗せて、ごつい上半身を机の上に伏せていた。机の上には進路調査票がおかれていて、理由の部分は錬太郎が始めに思いついた理由がまだはっきりと書かれている状態であった。周りに人はいなかった。ほかのクラスメイトたちはやることがあったのだ。部活動にいってみたり、さっさとうちに帰って勉強をしてみたり、遊んでみたりする用事がある。錬太郎には教室に残らなくてはならない理由があった。姉のお願いだ。それを果たすつもりで、錬太郎はここにいた。
早房ツバメは部活動に行った。帰りのホームルームが終わるとさっさとかばんをまとめて、錬太郎に手で挨拶をして教室から出て行った。早房ツバメにも、やることがあるのだ。錬太郎に付き合って、教室で時間をつぶしているわけにも行かない。
錬太郎は、机の上の鉛筆を転がしていた。指先で鉛筆を転がしてみて、その行方を占っていた。特にこれをやったところで未来が見通せるわけではない。ただ、なんとなくこうやって何かに理由を求めていたら、自分の納得できる理由が見つかるのではないかと、そんな無責任な思いが浮かんだのだ。自分の理由がいまいち認められない理由であったので、いっそのこと運任せにしてやろうと、そういう考えである。
部活動の終わりを知らせるチャイムがなかった。勉強の時間が終わるチャイムも始まりのチャイムも部活動の時間が終わり、さっさと帰れとせかすチャイムも音は変わらない。すべて同じだ。しかし夕焼けに染まっている教室で、一人きりできくチャイムというのは不思議と寂しい感じがする。このチャイムはさっさと生徒たちに帰れといって知らせるチャイムである。学校で働いている先生たちもいろいろと仕事があるのだ、いつまでも子供たちがいてもこまる。
チャイムがなると錬太郎は立ち上がった。机の上を片付けて、かばんにしまう。そうしてゆるゆると立ち上がった。なんとなくだるそうな様子だった。しょうがないことだ、何せ頭の中にはどうしたらいいのか怪しい問題が二つある。ひとつは理由があるのに理由として認められないという問題。
もうひとつは、姉からのお願いだ。上級生、池淵頼子を自分のうちへ招待してこなくてはならない。あまりいい気持ちはしないだろう。特に上級生の女子生徒に声をかけて、つれてくるなどというのは精神的にいただけない。かといって、一度お願いを聞いてしまっているから、やらないというのも心苦しい。
そういうわけで、錬太郎は教室から出て行った。足取りは重い。できるのならばほかの人に代わってもらいたいなという気持ちが、体全体からあふれ出ていた。しかしいかなくてはならない。姉のお願いを一応聞いたという体裁を手に入れるため。もしかすると断ってくれるかもしれないのだから、それにかけてしまえばいい。そんな気持ちが合わさって余計に、足取りは重たいのだ。
錬太郎は姉、晶子の後輩池淵頼子がいるだろう美術室に向かっていた。でかい体を面倒くさそうにして歩いている姿というのは、なんとなく不気味なものがあった。ゾンビ映画に出てくるけだるげな歩き方をするゾンビとよく似ていた。一応は心を決めてある行きだしたのだけれども、歩いている間にいろいろと面倒くさいなという気持ちが湧き上がってくるのだ。そうなってくるといかないでいいのではないかという気持ちと、いかなくてはならないという気持ちが交じり合って、いやな螺旋を描くようになる。その螺旋がどうにも調子を悪くさせる。
途中、担任の先生とすれ違った。先生はトイレにでも行ってきたのだろう手をハンカチで拭いていた。
すれ違ったとき先生が錬太郎を呼び止めた。
「きまったかしら?」
担任の先生が声をかけたのは、錬太郎の様子が普段とは違っていたからである。これは瞬間的に違っていると思ったのではない。廊下を歩いている姿というのも、いまいちよろしいものではないけれど、朝のホームルームあたりで錬太郎が何かもやっとした表情をしていたのを、担任の先生は見抜いていたのである。それで心配して、声をかけてきたのだ。
錬太郎は答えた。
「まだです」
ため息交じりの答えだった。一応理由を決めてはいるのだけれども、理由に自分が納得できない。そんなことを先生に説明をしたところでどうなる。かといって、どうだったといって尋ねられているのだから、無視するわけにもいかない。何せ担任の先生なのだから。アンニュイな気持ちがあるけれど答えないわけにも行かないわけで、返事というのもいまいちよくない調子で吐き出されてしまった。
もやもやとしている錬太郎の答えを聞いた先生が言った。
「納得できるまで悩めばいいさ。まぁ、勉強はしっかりとしておきなさい。そうすれば好きな道を選べるだろうからね。生活態度もいいし、後は自分しだいというところだろうな。まぁ、大いに悩みなさい」
ずいぶんやさしい口調だった。担任の先生というのも長く勤めているからだろう。錬太郎のような生徒というのを何人も見ている。そのため進路の話になったとき微妙に調子を悪くしているものだとか、機嫌が悪くなっているものを見るのも扱うのも手馴れている。だから、心落ち着いた調子で錬太郎に助言をしてくれたのである。
錬太郎は頭二つほど小さい先生に頭を下げて礼をした。ずいぶんきれいな礼だった。担任の先生の言葉が胸に刺さったのだ。どこにどう刺さったのかはわからない。はっきりとどこに刺さったのかということはできないけれども、錬太郎の胸には刺さったのだ。そして刺さったからこそ、頭を下げたくなってしまう。お礼のつもりなのだ。
担任の先生はさっさと職員室に戻っていった。職員室に帰る先生の歩くスピードは結構すばやかった。足の運び方が非常に早いのである。しかし怒っているとか、急ぎの仕事があるということではない。いつもどおりのスピードである。ただ、錬太郎だとか早房ツバメのように身長が高くないため、一歩が小さいのだ。そのためいつの間にか早足で歩くようになったのである。




