袖
夜が明け切る前に、数字を数えた。
この夜の村の死者は、ゼロ。負傷が七人、うち重いのが一人。羊が二頭。三日前の四人と合わせて、ロゼンの戦の代価は、それが全てだった。
子供は、一人も欠けなかった。影踏みの逆、優勝常連の三人組は、朝には水桶の陰の取り合いで喧嘩をしていた。それでいい。お前らはそのまま、転がり方だけ覚えて、戦争の方は忘れろ。
畑には、翼の骸が十三と、俺の失敗作の破片が散らばっていた。破片は魔力に還して消した。骸は、消せない。雷の傷も、大穴の焦げ跡も、消せない。この村で起きたことは、いずれ、起きたこととして王都に届く。
――届いた最初のそれは、昼前に、砂煙を上げて街道からやって来た。
「ヴィルフリイイイイイル!!」
馬から転げ降りるように駆けてきたのは、ラウル兄上だった。後ろには、砦で見た顔ぶれが二十騎ばかり。全員、軍装じゃなく、狩装束で。
「休暇だ! 全員まとめて休暇を取った! 狩りに来たんだ、文句あるか!」
条令で止まった人が、条令の縁を、自分で見つけて越えて来たらしい。間に合わなかったけど。それでも来た。この人はそういう人だ。
兄上は俺の無事を上から下まで三回確かめ、それから、畑の骸の列を見た。翼の骸。眉間の一点の傷。焦げ跡。石垣の袋小路。そして、煤と血で汚れた、弟の顔を。
何かを言いかけて、兄上は、やめた。代わりに俺の頭を、ぐしゃりと掴んだ。
「……帰ったら、ゆっくり聞かせてもらうからな。全部だ」
「……うん」
「だが今日は、無事でよかった。それが先だ」
抱きしめられて、俺は少しだけ、八歳のふりを休んだ。
――兄上の後ろで、騎士の一人が骸の傷を検分し、手帳に何かを書き付けているのが見えた。あの手帳はいずれ、砦の報告書になり、王都に上がり、旗の数を二本間違えない人の机に載る。
そこから先は、第一王子の、目の話だ。
◇
発つ前に、村を回った。
村長は俺の手を握って何度も礼を言い、ブレンは「次に来るときまでに、石垣を倍にしとく」とだけ言った。イーロは羊を一頭連れてきて「これ、殿下の羊」と言い張り、ガレン卿が真顔で受領を検討し始めたので、丁重に村に預けた。
マーサは、村に残らなかった。
「四十年ぶりに帰りましたら、わたくしの居場所は、もう殿下の袖の繕いの中にございました」
そう言って、いつもの几帳面な手つきで、旅装の紐を締めた。その腕の中に――ニナがいた。
「この子は、わたくしが預かります。王都でも、田舎でも、殿下の行く先でも。……この村には、この子の眠れる夜が、まだございませんから」
ニナは、あれから一度も喋っていない。母親の袖は、埋葬の朝、マーサが半日かけて、ゆっくりと、指を一本ずつほどいたそうだ。代わりに袖の端切れを小さく畳んで、ニナの胸元に縫い込んでやったと。
帰り道、ニナは歩き疲れて、マーサの背中で眠った。休憩のとき、俺が代わって抱えた。煤と、まだ落ちない血の染みた手で、眠っている小さな体を抱え上げた。
――その指が、無意識に動いて、俺の袖を掴んだ。
仕立てのいい、皺ひとつなかった王子の袖に、小さな指が喰い込んで、皺を作る。眠りの中の、ただの癖だ。母親を亡くした子の、ただの癖かもしれない。妹が毎晩、俺の袖で眠った、あの癖と同じに見えるのは、俺の願望かもしれない。
女神は言った。強く結ばれた魂は、同じ世界に流れ着くことがある、と。
確かめる方法は、ない。まだ、ない。
だから俺は、何も言わずに、袖を掴まれたまま歩いた。街道の空を、俺の偵察機が一機だけ、高く付いてきていた。中庭で初めて浮いた、あの羽音の末裔だ。あの音の意味を、この世界の誰も、まだ知らない。
……いや。
袖を掴む小さな手だけが、知っている気がした。
一部完結です。
ここまで読んでいただき誠にありがとうございました。




