俺は生き返りたかった
左腕の感覚が、さっきからない。
瓦礫の下で、俺は自分の心臓の音だけを聞いていた。どく、どく、と間隔が延びていく。埃と焦げた油の匂い。口の中は鉄の味がする。潰れたアパートの隙間から見える空は、煙で茶色かった。
「にいちゃん! アレクにいちゃん、どこ!」
ユリの声だ。近い。生きてる。
「……こっち、来るな」
声が出ない。息だけが漏れる。来るな。頼むから来るな。二発目は必ず来る。あいつらのやり方は三年見てきた。一発目で崩して、逃げ出した人間を二発目で刈る。だから来るな。地下に戻れ。ミラと一緒に、毛布かぶって、耳ふさいで――
「にいちゃん!」
声が、近づいてくる。
動け。動けよ。俺の体。あと十メートル這えば、あいつを突き飛ばして地下に放り込める。歯を食いしばって右腕に力を入れた。瓦礫が軋んだだけだった。指先が、コンクリートの粉を掻いた。
父さんは徴兵された。母さんは配給の列ごと消えた。それから三年、俺の仕事は二人の飯を作ることだった。芋の皮も捨てなかった。薄めたスープを、ミラは毎晩「にいちゃんのスープ、せかいいち」と言って飲んだ。世界一なわけあるか。ほとんど白湯だ。それでもあいつは言うんだ。毎晩。俺が泣かないように。七つのくせに、そういうことをする妹だった。
ユリは十歳で、拾ってきたボロボロの漫画が宝物だった。異世界転生とかいうやつ。トラックに轢かれた奴が、剣と魔法の世界でやり直す話。停電の夜、蝋燭一本でミラに読み聞かせてやっていた。主人公の決め台詞のところだけ妙に芝居がかって、ミラがけらけら笑って、俺が「近所迷惑」と言って、それが俺たちの夜だった。
眠るとき、ミラは俺の袖を掴む。掴んだまま朝まで離さない。だから俺の右袖は、いつも皺くちゃだった。
いつか終わるって、三人で言ってた。終わったら学校に行こうって。
風を切る音がした。
聞き慣れた、あの落下音。
ユリ、と叫んだつもりだった。音はもう、何も聞こえなかった。
◇
白かった。
配給所の袋の白に似ていた。漂白された、嘘みたいな白。中身が入っていたためしのない、あの白だ。
上も下もない場所に、俺は立っていた。痛みがない。左腕がある。それで全部わかった。わかりたくなかった。
「――ようこそ、迷い子」
声のした方に、女がいた。白い衣。長い髪がゆっくり浮いている。祭壇みたいな台の向こうから、女は事務的な優しさで微笑んだ。
「あなたは先ほど、命を落としました。お気の毒に思います。ですが安心なさい。わたくしは女神アステリア。あなたの魂を、剣と魔法の世界へ――」
「ユリは」
女の言葉に、俺の声が刺さった。
「……え?」
「弟だ。十歳。俺のすぐ近くにいた。妹もいる。七歳。地下にいたはずだ。二人は生きてるのか」
女神は、答えなかった。目を伏せもしない。ただ、知らない、という顔をした。その顔で全部わかった。こいつは見てない。俺たちの世界を、見てすらいない。
「転生ってやつか。それ」
台の上に、光でできた書類みたいなものが浮いていた。ユリの漫画で見たやつだ。チート能力。加護。新しい人生。蝋燭の灯りの下で、ユリがミラに読んでやってた、あの。
「ふざけんな」
自分の声が、白い空間に反響した。
「そんなもんが本当にあるなら――あんたが本当に神様なら、なんで今なんだよ。三年だぞ。三年、俺たちの上に鉄の塊が降ってきてた。配給の列に並んだ母さんは帰ってこなかった。隣のばあちゃんは水汲みに出て戻らなかった。ミラは誕生日に『お腹いっぱい寝たい』って言ったんだ。七歳の誕生日の願い事が、それなんだよ。あんたはどこにいた」
「わたくしは――」
「今更、救いか? 死んでから優しくすんのか? いらねえよそんなもん!」
台を殴った。光の書類が散った。
「転生なんかいらない。生き返らせろ。今すぐ、あの瓦礫の下に戻せ。あと十メートルだったんだ。あと十メートル這えばユリを地下に放り込めた。戻せよ。俺の体に戻せ!」
「……できません」
女神の声から、事務的な響きが消えていた。
「あなたの世界は、わたくしの管轄の外です。あの世界に、わたくしの力は一切届かない。生き返らせることも、あなたの弟妹を守ることも、雨の一粒を止めることさえも」
「じゃあ何ができんだよ、神様は」
「……堕ちてくる魂を、拾うことだけ」
女神は、自分の両手を見た。
「世界の狭間に、時折こぼれ落ちてくる魂があります。行き場を失い、消えかけた魂が。わたくしにできるのは、それをこの手で受け止めて、わたくしの世界で生き直させることだけ」
女神は一度、言葉を切った。俺の顔を見て、続けた。
「あなたの怒りは、正しい。ですがその怒りを受け止められる神は、どこにもいないのです。あなたの世界には、最初から」
最初から、いない。
じゃあ俺たちは、誰の見てない場所で、三年間ああやって死んでいったのか。ミラの世界一は、誰にも届いてなかったのか。
膝から力が抜けた。白い床に手をついた。涙は出なかった。出す場所が、体のどこにも残ってなかった。
「……なあ」
長い沈黙のあとで、俺は言った。
「その転生の権利。俺のは、ユリにやってくれ」
「……え」
「順番が違うだろ。先に助けるのは年下からだ」
床を見たまま、俺は喋り続けた。止まらなかった。
「あいつ、その漫画大好きでさ。チート能力を選べるんなら、あいつ絶対、回復魔法にするんだ。かっこいい剣とかじゃなくて。『にいちゃんの腕、治せるやつ』って。……そういう奴なんだよ。だから俺のはいらない。あいつが堕ちてきたら、あいつのところに行ってやってくれ。ミラも一緒に。あいつら、離すと泣くから」
女神は、長いこと黙っていた。
それから、静かに言った。
「魂の行き先は、選べません。譲ることも、待つことも。……ですが」
女神の指が、俺の胸の真ん中に触れた。
「こぼれ落ちる魂は、縁の糸を辿って堕ちてくる。強く結ばれた魂は、同じ世界に流れ着くことがあります。……あなたが先に、あの世界で生きていれば」
顔を上げた。
「弟妹が堕ちてきたとき、それを拾えるのは――神ではなく、あなたかもしれない」
俺の体が、足元から光に解け始めていた。拒む力は、もう残っていなかった。ただ、解けていく右袖を握りしめて、俺は最後に訊いた。
「あんたの世界にも、戦争はあるのか」
「……あります。人がいる限り」
「そうかよ」
なら、やることは同じだ。
薄れる意識の端で、女神が何かを言った。祈りみたいな小さい声で、確かにこう聞こえた。
――ごめんなさい。拾うことしか、できなくて。
◇
――転生から、八年。
アルディス王国第三王子、ヴィルフリート・アルディスの朝は、七人の使用人に囲まれて始まる。
着替えを手伝われ、髪を梳かれ、毒見の済んだぬるい朝食を並べられる。腹は満ちる。味は、しない。
八歳になった俺が椅子から立てば侍女が駆け寄り、庭に出れば護衛騎士が三歩後ろをついてくる。転んだだけで城が騒ぐ。
守られている。完璧に、隙間なく、窒息するほど。
……反吐が出る。
守られる側に生まれ直して何になる、と何度も思った。俺が欲しかったのは、守る側に立つ力だ。瓦礫の下で一ミリも動かなかった、あの役立たずの体の代わりだ。
だからこの八年、俺は一日も欠かさず、同じことをやってきた。
「殿下。また、それでございますか」
中庭の隅。専属侍女のマーサが、呆れ半分心配半分の顔で俺の手元を覗き込む。俺の掌の上では、飴色の魔力が、ぐにゃりと形を変えているところだった。
この世界の魔法は、火を出す、水を出す、風を起こす。派手で、単純だ。だが俺の適性は【練成】――魔力を物質に練り上げる、地味で不人気な属性だった。
宮廷魔導師は残念そうに言った。構造を完全に理解した物しか作れませぬ。剣一本練るにも、鍛冶の全工程を頭に叩き込む必要が、と。
冗談だろ、と思った。当たりじゃねえか。
俺が構造を隅々まで知ってる機械なら、ある。三年間、嫌というほど見上げた。撃ち落とされた残骸を拾って、ユリと二人で分解した。プロペラの枚数も、基板の焼け方も、モーターの巻き線も、燃料の匂いも、全部この手が覚えてる。
俺たちを殺しに来た、あの機械。
四枚羽の、ドローン。
「殿下、その……泥団子は、今日で何個目でございましょう」
「泥団子じゃない。三千二百十四個目」
毎日こねた。歩けるようになった日から。羽根の曲率が思い出せなくて百個潰した。モーターの構造がわからず、城の時計職人の工房に入り浸って歯車を齧った。魔力の焼き付きで三百個爆ぜた。掌の火傷をマーサに泣かれた。それでもこねた。昨日も。今日もこねる。
掌の上で、飴色の塊がゆっくりと形を結ぶ。胴体。四本の腕。四枚の羽根。
羽根が、回った。
最初は震えるように。次いで、輪郭が溶けるほど速く。
ぶうん、と低い羽音が中庭の石壁に反響した。飴色の機体が俺の掌をふわりと離れ、ゆっくりと高度を上げて――俺の目の高さで、ぴたりと静止した。
三千二百十三回、地面に転がった塊が。今、空にいる。
「ま……浮いて……!? 殿下、それは、一体……」
マーサの手から水差しが滑り落ちて、砕けた。庭木から鳥が一斉に飛び立ち、護衛騎士が剣の柄に手をかけたまま固まっている。誰も、この音を知らない。この世界で俺ひとりだけが知っている音が、王城の中庭を満たしていた。
俺は浮かんだそれを見上げたまま、動けなかった。息をするのを、忘れていた。
殺しに来る側の機械だ。俺たちの空を塞いで、母さんの列に落ちて、最後に俺の音を全部奪っていった機械。それを今、俺の魔力が、俺の掌が、この空に浮かべている。
今度は、守る側の空に。
気づけば、左手が右の袖を握りしめていた。
皺一つない、仕立てのいい王子様の袖だ。あいつが毎晩掴んで寝た、あの皺くちゃの袖じゃない。ここには誰の手の跡もない。まだ、ない。
……見てろよ、ユリ、ミラ。
兄ちゃんはまだ、誰も守れてない。一人も救えてない。あの白い場所で拾われただけの、ただの死に損ないだ。
だからここから始める。お前らがいつかこの空の下に堕ちてきたとき、真っ先に拾い上げるのは、神様じゃなくて俺だ。
中庭の空に、羽音が響き続けていた。
この世界の誰も、まだその音の意味を知らない。




