「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ
「短編」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ
※こちらは短編になります。長編は下記リンクか作者ページ、シリーズから。
https://ncode.syosetu.com/n5080lw/
イチジクとリコッタのサラダを出した日、辺境伯殿の左手が止まった。
——これが私の、五年間で最も幸福な瞬間だった。
けれどそれはもう少し先の話で、今はまだ、婚約破棄の場面から始めなければならない。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「もう君の仕事は必要ない。献立なんて、誰にでも組める」
婚約者であるアルヴィス子爵家の嫡男から、そう告げられたのは秋の終わりだった。
隣にはこの春から宮廷に入った男爵令嬢が、申し訳なさそうに——でも確かに勝ち誇った顔で立っている。
セレスティーヌ・クランメール。
王宮配膳記録官。
五年間、この宮廷のすべての宴席と日常の食卓を、たった一人で管理してきた女。
(……まあ、そうでしょうね)
驚きはなかった。アルヴィスが男爵令嬢に惹かれていることは三ヶ月前から知っていた。正確には、二ヶ月と十七日前。彼が昼食の席で男爵令嬢にだけ二皿目のタルトを取り分けた日から。
記録官の目は、いつだって食卓の上にある。
(前の人生でも同じだった気がする)
この世界に生まれる前の、ぼんやりした記憶。夜遅くまで数字と向き合い、誰にも気づかれない仕事を黙々と続けて、最後は身体を壊して終わった——あの人生と、今の人生は、驚くほど似ている。
ただ、前の人生では倒れる前に誰かに「その仕事、いらないよ」と言われることすらなかった。言われるだけまだ親切なのかもしれない。
「わかりました」
一言だけ返した。
泣きもしなかった。怒りもしなかった。
セレスティーヌの頭の中では、すでに引き継ぎ書の構成が組み上がり始めていた。こういう時に感情より先に段取りが動くのは、前の人生から二回分で身についた職業病だった。
「……それだけか?」
アルヴィスが拍子抜けした顔をしている。もっと取り乱すと思っていたのだろう。五年間、彼の好みに合わせて宮廷の献立を微調整してきたことなど、彼は知らない。アルヴィスが嫌いな魚の骨がこの三年間一度も彼の皿に現れなかったことも。
知る必要もない。
「引き継ぎの書類を作成いたします。三日ほどお時間をいただけますか」
「……ああ。好きにしろ」
好きにしろ、と言われたので、好きにすることにした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
配膳記録官という職務を、宮廷の誰もまともに理解していない。
セレスティーヌは三日間、自室に籠もって引き継ぎ書を作った。正確には、作ろうとした。
だが五年分の業務を文書にすると、途方もない量になった。
——宮廷に出入りする貴族四百二十三名分の食物禁忌リスト。
——季節ごとの食材調達先と価格変動の記録。
——各国大使の宗教上の食事制限と、それを悟らせずに満足させる献立の組み方。
——厨房の人員配置と、誰がどの調理に向いているかの適性記録。
——王太子殿下が苦手だが公式には言えない食材を、自然にメニューから外す方法。
——そして、年に二度だけ王都を訪れる辺境伯の食事から胡桃を抜く理由。
(こんなもの、三日で引き継げるわけがない)
前の人生でも、退職の引き継ぎは地獄だった。あの時は二週間もらったのにそれでも足りなかった。今回は三日。しかも自己申告。
結局、セレスティーヌは要点だけを二十ページにまとめた。後任がいれば、あとは現場で覚えるしかない。
いなければ——まあ、それは私の問題ではない。
最後に、個人的な観察記録帳だけは持っていこうと思った。
公式の配膳記録は宮廷の備品だが、この手帳は私物だ。五年間、毎日つけてきた。宴席の空気、料理への反応、誰が何を残し、誰が美味しそうに食べたか。
ただ——一冊だけ、迷った。
リュシアン・ヴェルトレーゼ辺境伯に関する記録帳。
辺境伯は年に二度、冬の政務報告と夏の軍事会議で王都を訪れる。無口で、社交を好まず、宴席ではいつも端の席で黙々と食べている。
けれどセレスティーヌは知っていた。
この人は、胡桃を食べると翌日かならず体調を崩す。本人は「旅の疲れだろう」と思い込んでいるが、胡桃だ。三年前の夏の晩餐会で気づいた。以来、辺境伯が出席する宴席では、すべての料理から胡桃を抜くよう厨房に指示してきた。
辺境伯は一度も体調を崩さなくなった。
そして一度も、理由を知らなかった。
(持っていっても仕方がない)
セレスティーヌはその帳面を、公式記録の棚の奥に差し込んだ。
翌朝、誰にも別れを告げずに宮廷を出た。荷物は旅行鞄ひとつ。
前の人生と同じだ。最終日にロッカーを片付けて、同僚に「お疲れ様でした」とだけ言って、夜の道を一人で歩いた。
違うのは、今回は身体を壊す前に出られたこと。それだけで十分だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
セレスティーヌが去って、最初の七日間は何も起きなかった。
厨房長のボルドーは優秀な料理人だったし、後任の配膳担当に任じられた男爵令嬢——アルヴィスの新しい恋人——も、表面上は仕事をこなしているように見えた。
「ほら、大した仕事じゃなかったろう」とアルヴィスは笑った。
八日目に、最初の事故が起きた。
隣国ルクセイア王国の大使を招いた午餐会。大使が口をつけた前菜に豚肉の煮凝りが使われていた。ルクセイア正教では豚肉は禁忌である。
大使は無言で席を立った。
宰相が顔面蒼白で外交書簡を書く羽目になった。
「なぜ確認しなかった!」
宰相が厨房長を怒鳴りつけた。ボルドーは青ざめて答えた。
「前任の配膳記録官が……各国大使の食事制限一覧を管理しておりました。引き継ぎ書には要点しかなく、ルクセイアの項目が……」
「要点しかない? 二十ページもあるだろう」
「はい。ですが前任者の実際の記録は、帳面七十二冊分でございました」
宰相の顔から表情が消えた。
十二日目。
秋の収穫祭の大宴会で、仕入れた食材の量が三割足りなかった。セレスティーヌは毎年、三ヶ月前から各地の収穫予測を取り寄せ、不作の年は代替食材を確保し、複数の農家と価格交渉を終えていた。後任にはその手順が引き継がれていなかった。
急遽、王都の市場から高値で買い付け、宴会の経費は予算の二倍に膨れ上がった。
男爵令嬢が「前任者がきちんと引き継いでくれなかったから」と言い訳するのを聞いて、ボルドーは黙って背を向けた。あの二十ページを三日で書いた女の労力を、この子は一生かかっても理解しないだろうと思いながら。
十八日目。
王太子殿下の夕食にセロリのポタージュが出された。
王太子殿下はセロリが嫌いである。公式にはどこにも記録されていない。セレスティーヌだけが知っていた。殿下が六歳の頃、セロリのサラダを前にして一瞬だけ小さく顔をしかめた。あの瞬間を見逃さなかったのは、当時見習いだったセレスティーヌだけだった。以来、セロリは殿下の食卓に一度も上らなかった。十年間。
「……この料理は誰が決めた」
王太子殿下の声は静かだったが、厨房は凍りついた。
二十三日目には、とうとう厨房で小火が出た。
セレスティーヌが組んでいた厨房の人員配置表——誰が火を使い、誰が水回りを担当するかの日次表——を、後任が「面倒だから」と廃止した結果だった。二つの竈で同時に油を使い、消火用の水桶が所定の位置にない。幸い大事には至らなかったが、煤だらけの厨房で、ボルドーは壁に背をつけて座り込んだ。
(あの子は、毎朝俺より先に来ていた)
ボルドーは思い出していた。セレスティーヌがまだ見習いだった頃、厨房の隅で帳面を広げて、料理人たちの動きを黙って見ていた。「何を書いている」と聞いたら、「誰が何を得意としているか記録しています」と答えた。十五歳の小娘が。
あれから十年。あの帳面が厨房の安全を守っていた。それを「面倒だから」の一言で。
宰相は引き継ぎ書を読み返し、ようやく気づいた。
この二十ページの文書は「要点」ではなく「氷山の一角」だったのだと。
セレスティーヌ・クランメールが五年間たった一人で支えていた宮廷の食卓は、外交と内政と人命に直結する仕事だった。それを「献立なんて誰にでも組める」と言い放った男がいる。
宰相はアルヴィスの顔を思い出して、長い溜息をついた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
リュシアン・ヴェルトレーゼ辺境伯が冬の政務報告のために王都を訪れたのは、セレスティーヌが去ってから一ヶ月後のことだった。
到着した夜の歓迎晩餐会。
出された料理を一口食べて、リュシアンはフォークを止めた。
(……違う)
何が違うのか、すぐには分からなかった。味は悪くない。だが、何かが欠けている。あの、どこか安心する感覚がない。王都に来ると不思議と肩の力が抜けて、辺境では食べられない柔らかな味がする——あの感じが、今夜はまるでなかった。
翌朝、リュシアンは酷い蕁麻疹に見舞われた。
「旅の疲れですかな、辺境伯」
侍医はそう言ったが、リュシアンの中で何かが引っかかった。王都に来るたびに体調を崩していた時期がある。それがいつからか、まったく起きなくなった。
——三年前の、夏からだ。
気になって厨房に足を運んだ。
「私の食事に関する特別な指示はあったか」
厨房長ボルドーが戸惑いながら記録を調べ、首を傾げた。
「現在の記録には辺境伯に関する特記事項はございません。ですが……前任の配膳記録官の時代には、あったかもしれません」
「前任?」
「セレスティーヌ殿です。先月、退職いたしまして」
ボルドーは一瞬、言葉を探すように間を置いた。
「……よく働く方でした。誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで帳面を書いていた。辺境伯の宴席がある日は、朝から三度も厨房に確認に来られました。他の方の宴席では一度もないのに」
リュシアンは記録室に向かった。
公式の配膳記録は整然と並んでいた。五年分の宴席記録、食材発注書、予算表。すべてが同じ筆跡——細く、几帳面で、それでいてどこか温かい文字で書かれている。
棚の奥に、一冊だけ背表紙のない帳面が挟まっていた。
開いた。
最初のページに「辺境伯殿 観察記録」と書かれていた。
リュシアンは、立ったまま読んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
〈三年前・夏の軍事会議 初日〉
辺境伯殿、到着。宴席では例年通り端の席。本日の前菜に胡桃のクラッカーを添えたところ、召し上がった。翌朝の侍医報告に「辺境伯、軽い不調」とある。旅疲れと診断。
——気になる。
〈同年・夏の軍事会議 三日目〉
試しに辺境伯殿の前菜から胡桃を抜き、代わりにアーモンドを使用。翌朝の報告なし。体調良好の模様。
——やはり胡桃だ。本人に伝えるべきだが、配膳記録官ごときが辺境伯に「お身体のことで」などと切り出す場面が想像できない。まずは厨房への指示で対処する。
〈同年・冬の政務報告〉
全品目から胡桃を除外。辺境伯殿、滞在中ずっと体調良好。
本日の晩餐で、辺境伯殿がスープを飲んで少し目を細めたのを確認。
ボルドーの南瓜のポタージュは確かに美味しい。だが彼は四百名分の料理を同じ味で出しているのだから、辺境伯殿の反応はこの方自身の舌が優れているということだ。
辺境伯殿は美味しいと思った時、左手でスプーンを少しだけ止めて、それからもう一口召し上がる。本人は気づいていないと思う。
——私もなぜこんなことに気づいたのか、よく分からない。記録官の職業病だと思いたい。
〈翌年・夏〉
辺境伯殿の食事を組む時間が、他の方の三倍かかっている。反省。
ただ、この方の前菜は毎回考え甲斐がある。辺境は寒冷地なので、普段は塩漬けの肉と根菜が中心のはず。王都にいる間だけでも、温かい土地の食材を召し上がっていただきたい。
本日はイチジクとリコッタのサラダを出した。南部から取り寄せたイチジクは予算外だったが、宴会の余り食材を別の日に転用して帳尻を合わせた。
——これは配膳記録官の業務の範囲内だ。たぶん。
辺境伯殿、左手が止まった。
三口目で、少しだけ口の端が上がった。
——私は今、記録官としてこれを書いているのか、それとも。
この行は後で消す。
〈翌年・冬〉
消さなかった。
辺境伯殿、到着。今年は例年より二日早い。雪が早かったのだろうか。
本日の食後の菓子にレモンタルトを出した。辺境伯殿は「甘味は不要だ」と給仕に断った。だがその直後、隣の席の皿を一瞬だけ見たのを私は見逃さなかった。
——試しに翌日、食後の紅茶に小さなフィナンシェを一つだけ添えた。茶菓子であって菓子ではない、という建前で。
辺境伯殿は何も言わずに食べた。左手が止まった。
武人は甘味を断るものだという矜持と、本当は甘いものが好きだという本音。その両方を記録しておく。たぶん本人は誰にも知られたくないだろうが。
初日の晩餐で辺境伯殿の隣に座った令嬢が、殿方の食事中にしきりに話しかけていた。辺境伯殿は相槌を打ちながらスープを飲んでいたが、左手は一度も止まらなかった。
——味に集中できなかったのだろう。あのポタージュは今季のボルドーの最高傑作だったのに。残念だ。
記録官として残念なだけだ。
ところで、令嬢が席を立った後、辺境伯殿がほっとしたように肩を下ろしたのが見えた。この方は無愛想なのではなく、人と話すのが苦手なだけなのだと思う。端の席に座るのも、そういうことだろう。
——不器用な人だ。少し、親近感がある。記録官も、人と話すより帳面に向かう方が楽な生き物なので。
〈さらに翌年・夏〉
辺境伯殿、到着。
廊下ですれ違った時、会釈をされた。
「いつも食事が美味い。礼を言う」
五語。辺境伯殿がこの五年で私に向けた言葉の総数を、この五語が超えた。
手が震えて本日の発注書を二度書き直した。
——職業病は治る気配がない。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
帳面の最後のページ。日付はセレスティーヌが宮廷を去る前日だった。
〈退職前日〉
明日で最後。
引き継ぎ書に辺境伯殿の胡桃の件を書こうとして、やめた。
後任に引き継げば済む話だ。たった一行、「辺境伯殿は胡桃に不耐性あり、全品目から除外のこと」と書けばいい。
でも書けなかった。
この五年間、辺境伯殿が知らないところで、辺境伯殿の身体を守ってきたこと。スプーンが止まる瞬間を数えてきたこと。イチジクのサラダを出す日を半年前から考えていたこと。南部の農家に「夏に最も甘い実が採れたら、一番に連絡してほしい」と手紙を出していたこと。
それを「引き継ぎ事項」の一行にしてしまったら、この気持ちまで業務になってしまう。
私は記録官だ。記録官として優秀だったと、自分では思う。
でもこの帳面だけは、記録官の仕事ではなかった。
最初から——ずっと。
だからこの帳面は、ここに置いていく。
誰にも読まれなくていい。
辺境伯殿。
貴方の身体に合わない食材は胡桃です。
どうかお気をつけて。
それから——
貴方が美味しいと思った時に左手が止まる癖を、知っているのはたぶん世界で私だけです。
それが少しだけ、誇らしかったのです。
この行は後で消す。
——消さなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
リュシアンは帳面を閉じた。
手が、震えていた。
「……厨房長」
「は、はい」
「この記録官は、今どこにいる」
「さあ……退職届の住所欄には、ラヴェンナ街道沿いの生家、とだけ」
リュシアンは帳面を懐に入れた。
その足で宰相府に向かい、政務報告の延期を申し出た。宰相が理由を聞くと、リュシアンはこう答えた。
「胡桃の礼を言いに行く」
宰相には意味が分からなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その頃、セレスティーヌは故郷の小さな町で、小さな食堂を開く準備をしていた。
客はまだいない。看板も出していない。ただ、毎朝市場に行って旬の食材を買い、一人分の献立を組んで、一人で食べる。五年間、他人のための食事ばかり考えてきたので、自分のために料理をするのは新鮮だった。
(前の人生では、コンビニの弁当ばかり食べていた)
あの頃の自分に教えてあげたい。食材を選んで、火を通して、皿に盛って、窓辺で食べる。ただそれだけのことが、どれほど贅沢か。
もっとも、前の自分はきっと「そんな暇はない」と言うだろう。そしてデスクでおにぎりをかじりながら、帳簿の数字を追い続けるのだ。
ふと、アルヴィスのことを思い出した。
不思議と、悲しくはなかった。彼は五年間、一度もセレスティーヌの作った献立について何も言わなかった。美味しいとも、まずいとも。
食卓に興味がない人と、食卓を作る人。最初から合わなかったのだ。
前の人生でも、同じような人はいた。経理部の仕事を「数字を打つだけでしょ」と言った上司の顔が、一瞬アルヴィスと重なった。
(二回目の人生で、同じことを繰り返すのは御免だ)
昼下がり、食堂の窓を磨いていると、街道の向こうから馬が来た。
冬の陽光を背に、長身の騎士が馬から降りた。旅装は質素だが、腰の剣と体幹の安定が、ただ者ではないことを示している。
セレスティーヌは窓越しにその影を見て、心臓が止まるかと思った。
(——なぜ)
扉が開いた。
「セレスティーヌ・クランメール殿か」
リュシアン・ヴェルトレーゼ辺境伯が、そこに立っていた。
宴席の端の席に座っていた時よりも、ずっと大きく見えた。天井の低い食堂では、その背丈がいっそう際立つ。
ただ——扉の取っ手を握る手が、わずかに白くなっていることに、セレスティーヌは気づいた。
(この方は、この扉を開けるまでに何度か躊躇したのだと思う)
あの帳面に書いた通りだ。不器用な人。人と話すのが苦手な人。その人が、政務報告を延期して、馬で半日かけて、ここまで来た。
「辺境伯殿……なぜ、ここに」
「胡桃の礼を言いに来た」
セレスティーヌの顔から血の気が引いた。
「……あの帳面を、読まれたのですか」
「読んだ」
逃げ場がなかった。あの帳面には、業務記録には絶対に書かないことが書いてある。彼のスプーンの癖。イチジクの日を半年前から考えていたこと。「この行は後で消す」と書いておいて消さなかったこと。
つまり——全部、知られた。
「私は」セレスティーヌは唇を噛んだ。「記録官として逸脱しておりました。申し訳——」
「五年間」
リュシアンが遮った。その声は、宮廷の宴席で聞いたどの声よりも低く、静かだった。
「五年間、俺は王都に来るたびに、不思議だった。辺境では眠れない夜も、食が進まない日もある。だが王都の食事だけは、どれを食べても腹の底から温まった。旅の疲れが嘘のように消えた」
リュシアンが懐から帳面を取り出した。セレスティーヌの筆跡が表紙に見える。
「理由が書いてあった。全部」
「……」
「南瓜のポタージュの日。イチジクとリコッタの日。俺の皿だけ胡桃が抜いてある日。全部、あんたが組んでいた」
セレスティーヌは目を逸らした。涙が出そうだった。でも泣けなかった。記録官の癖で、今この瞬間も目の前の光景を記録しようとしている自分がいる。
(辺境伯殿の声が、少し震えている。左手が、外套の端を握っている。初めて見る仕草だ)
「……それは職務です」
嘘をついた。職務なら、あんな帳面は書かない。
「職務で、スプーンの止まり方まで数えるのか」
——反論できなかった。
リュシアンが一歩、近づいた。
「俺は食に疎い人間だ。美味い不味いは分かるが、なぜ美味いのかは分からない。あんたの仕事の価値を、宮廷にいる間ずっと見落としていた」
「皆さんそうです。配膳記録官とは、そういうものですから」
「だが」
リュシアンの目がまっすぐにセレスティーヌを見た。
「この帳面を読んで分かったことがある」
間があった。食堂の窓から冬の光が射して、埃がきらきら舞っていた。
「俺が美味いと思って左手を止めるたび、あんたは俺を見ていた。五年間。俺が知らない場所で、俺の身体を守り、俺の好みを覚え、俺のために献立を組んでいた」
セレスティーヌは息を吸った。吐けなかった。
「それを——業務と呼ぶのは、あんたの自由だ」
リュシアンが帳面を開いた。最後のページ。セレスティーヌ自身が書いた文字が、冬の光に照らされている。
「だが俺は、これを読んで初めて気づいた。王都の食事が美味かった理由は、料理の腕じゃなかった。俺を見ている人間がいたからだ。たった一人、俺の左手が止まる瞬間を数えていた人間が」
リュシアンが帳面を閉じて、セレスティーヌに差し出した。
「返しに来たんじゃない。伝えに来た」
「……何を」
「辺境は冬が長い。食材は限られる。塩漬けの肉と根菜ばかりだ。だが——」
リュシアンの声が、ほんの少し揺れた。
「あんたがいれば、それでも美味い食卓になるだろう。俺はそう思った」
セレスティーヌの目から、涙がこぼれた。
五年間、泣かなかった。婚約を破棄された日も、宮廷を去る朝も。誰かの食事を組んでいる間は泣く暇がなかったし、一人になってからは泣く理由がなかった。
自分のために泣くのは、苦手だった。ずっと他人の食卓ばかり見てきたから——前の人生でも、この人生でも——自分の感情の味つけが分からない。
(ああ、ずるい)
この人は、食に疎いくせに、たった一言で全部わかっている。
「俺のために献立を組んでくれ」と言われたら、仕事の話だと思って断れた。
「俺のそばにいてくれ」と言われたら、身分の差を理由に首を振れた。
でも「あんたがいれば美味い食卓になる」は——
それはつまり、献立記録官としてのセレスティーヌと、ただの女としてのセレスティーヌを、同時に求めている。
仕事と心の区別がつかなくなって帳面に余計なことばかり書いていた自分を、丸ごと肯定する言葉だった。
仕事と心の境界線を、彼は一言で消した。
(前の人生では、こんな言葉をかけてくれる人はいなかった。数字を打つだけの仕事を、誰にでもできると言われて終わった。でもこの人は、帳面七十二冊分の仕事を、たった一冊の記録帳から読み取ってくれた)
「辺境伯殿」
セレスティーヌは涙を拭いた。インクで汚れた指先で。記録官の手で。
「私が参りましたら、まず貴方の領地の食材をすべて記録させていただきます。厨房の設備と人員も確認します。保存食の在庫と、冬季の流通経路も。一ヶ月あれば年間の献立計画が組めます」
「……そういう返事になるのか」
「記録官ですので」
(泣きながら業務計画を立てる女を、この方はどう思っているのだろう。記録しておきたいが、さすがにこの場面で帳面は出せない)
リュシアンが——笑った。
セレスティーヌは見た。その笑い方を。唇の右側だけが少し上がる、不器用な笑い方。宴席で一度だけ見た、あの南瓜のポタージュの時と同じ。
でも今日の方が、ずっと深かった。目元まで笑っている。
(記録。辺境伯殿の笑顔。冬、ラヴェンナ街道沿いの食堂にて。本日二回目の観察。これまでで最も——)
……最も、なんだ。
セレスティーヌは、この五年間で初めて、自分の記録に書く言葉が見つからなかった。
「イチジクは辺境では手に入りませんが」
セレスティーヌは窓辺に歩み寄り、小さな鉢植えを指した。
イチジクの苗木だった。故郷に戻った日に、市場で買ったもの。
「……育てるつもりだったのか。辺境に行く予定もなく」
「あの方が美味しそうに召し上がった食材は、手元に置いておきたかったのです」
記録官としてではなく——ただ、そう思ったのだ。
リュシアンが、手を伸ばした。
セレスティーヌの手は、インクの染みがまだ残っていた。五年分の記録を書いた手。前の人生では数字を打ち続けて腱鞘炎になった手。この人生ではペンを握り続けて、同じ場所にペンだこができている。
二回の人生で、ずっと何かを記録し続けてきた手だ。
「来てくれるか」
「……はい」
小さな食堂に、冬の光が差していた。
窓の外では街道を行く馬車の音がして、厨房からはまだ何の匂いもしない。
けれどセレスティーヌの頭の中では、もう最初の献立が組まれ始めていた。
辺境の冬、一日目。
塩漬け豚のポトフ。根菜は大きめに切る。
胡桃は使わない。
デザートは——来年の秋、イチジクが実ったら考える。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
後日談をひとつだけ。
セレスティーヌが去った宮廷では、配膳記録官を三名に増員しても、彼女一人が残した仕事の穴は埋まらなかった。
ルクセイア大使との関係修復には半年を要した。収穫祭の予算超過は財務官から正式な問題として上奏された。
アルヴィス子爵嫡男は、男爵令嬢が後任を務めた結果生じた外交問題の責任を問われた。「婚約者に唆されて有能な記録官を追い出した貴族」という評判は社交界に広まり、取引先の商家からも信用を失った。
男爵令嬢は半年で職を辞した。辞表の理由欄には「業務量が想定と異なるため」と書かれていた。
——七十二冊分の仕事を「大した仕事じゃない」と笑った男と、「きちんと引き継いでくれなかった」と恨んだ女。二人の食卓に、もう誰も気を配る者はいなかった。
宰相はため息をついた。
「一人の記録官が、この国の食卓を五年間支えていた。我々はそのことに、彼女がいなくなるまで気づかなかった」
その言葉は、宮廷の記録に残った。
セレスティーヌが不在の宮廷で——彼女以外の誰かの、不揃いな文字で。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌年の夏。
辺境伯領の食卓に、イチジクが並んだ。
寒冷地では育たないはずの果実が、温室の中で小さく実をつけていた。
セレスティーヌが故郷から運んだ苗木から、最初の一粒。
辺境の食卓は、王宮のそれとはまるで違った。食材は少なく、種類も限られる。だがセレスティーヌは毎日、塩漬けの肉と根菜を、飽きさせない献立に組み替えた。干し肉の煮込みに南部のハーブを一振り。根菜のグラタンにチーズの焦げ目をつけて。保存食を「保存食の味」で終わらせない工夫は、七十二冊分の記録が教えてくれた。
リュシアンは毎食、黙って食べた。そしてほぼ毎食、左手が止まった。
食後には、紅茶と小さなフィナンシェが一つ。リュシアンはもう「甘味は不要だ」とは言わなかった。
「美味いな」
リュシアンの左手が、止まった。
向かいに座るセレスティーヌは、新しい帳面を開いて書いた。
〈辺境伯領一年目・夏〉
イチジク初収穫。小粒だが甘い。
リュシアン殿——左手が止まった。
それと、笑った。
今日の笑顔は、南瓜のポタージュの日より、ラヴェンナの食堂の日より、もっと良い。
この行は消さない。
読んでいただき、ありがとうございます。
よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。




