第二章 再会と兆し
風が、動き出した。
豊郷の部屋の障子がかすかに鳴り、
止まっていた鈴が──ひとつだけ、遅れて揺れた。
まるで、誰かの息が通り抜けたあとのように。
「……今の、聞こえましたか?」
静かな声に振り返ると、豊郷がこちらを見ていた。
机の上には、さっきまで湯気を立てていた茶が冷えきっている。
どれくらい時間が経ったのか、わからなかった。
「声が、しました。男の人の……掛水さんの声です。
『開けろ』って、はっきりと。」
「掛水……。あの声の主に聞き覚えがあるようですね。」
美希は豊郷に半年前の出来事を説明する。
掛水によって南トンネルにある黄泉口の封印が解かれかけ、彼はその中で黄泉に取り残されたと。
豊郷の瞳が細くなる。
しばし沈黙したのち、低くつぶやいた。
「黄泉の国に残った生者、というわけですか。
やはり……。風が止まるのは、いつも“何か”が通るときです。
この町では昔から、そう言われています。」
そう言って、彼は静かに視線を落とした。
その眼差しの奥に、微かに痛みのような色が宿っている。
「もう一つ、お伝えしておきたいことがあります。」
美希が息を呑む。
「──七百七十年前、巫女を守るために戦った若武者がいましたね。
彼もまた、この悲願を誓い、この刻に生きているはずです。
そして、巫女を狙う者たちもまた……。
彼らは、死んでもなおその執念を捨てず、影となって現世を彷徨っている。」
その言葉の意味を飲み込む前に、外の風が一段強く吹いた。
鈴が一斉に鳴り、春の光が障子を淡く染める。
どこかで、木戸が軋む音がした。
「……お気をつけなさい。
風が再び止まるとき、それは“誰か”が呼ぶ合図です。」
その声を最後に、豊郷はゆっくりと背を向けた。
美希は軽く会釈し、外に出る。
春の日差しの下、町の音がどこか遠く感じられた。
◇◇◇
翌日。
奥里坂学園の食堂は、高校と大学が併設されているせいで、いつも混んでいる。
高校生の制服と、私服の大学生が同じ列に並び、同じ味噌汁を受け取っていく。
なんだか不思議な場所だ。
浪人して結局この大学に進んだ私は、少しだけ気まずい気持ちで席を探した。
トレイを持って空いたテーブルに向かおうとした瞬間、
少し離れた席で、聞き覚えのある声がした。
「……いや、マジで風止まったんだって。」
「ハマヤン、それ夜更かしのしすぎでしょ。」
──琴音と、浜崎。
そしてその向かいに、弟の孝の姿。
一瞬、足が止まる。
あの事件以来、こうして三人が笑っている姿を見るのは久しぶりだった。
迷った末に、声をかける。
「……ひさしぶり。」
三人が同時に振り向く。
琴音が目を丸くして笑い、孝が小さく手を振った。
ハマヤンは、少し間を置いて、いつもの調子で言った。
「うわ、ミキ姉じゃん。久しぶりだな! 大学入ったんだって?」
「ええ……まあ、地元だけどね。」
「浪人までしてたのに地元かよ。」
「言わないで。泣くから。」
そう言って笑ったけれど、胸の奥では少しチクリとした。
東京へ出るつもりだった。
でも、出られなかった。──出られなかった理由を、風が知っている気がした。
「ミキ姉、顔色悪いよ。」
琴音が言った。
「昨日、なんかあった?」
「……昨日の昼、豊郷先生の講座で、少し変なことがあって。」
私は、あの部屋で風が止まり、掛水さんの声を聞いたことを話した。
そして豊郷の「七百七十年前の話」も。
言い終えたあと、誰もすぐには口を開かなかった。
沈黙を破ったのは、琴音だった。
「……その“開けろ”って言葉、聞き覚えがある。」
「聞き覚え?」
「うちの祖父が残したノートに、“影の言葉”って章があってね。
“影は風の道を開けたがる”って。もしそれが本当なら──」
琴音は小さく息を吸った。
「風の道が、また歪み始めてるかもしれない。」
◇◇◇
放課後、美希は再び公民館を訪れた。
昨日の講座の名残が残る会場は静かで、窓から射す光が鈍い。
奥の部屋に入ると、豊郷が待っていた。
「いらっしゃい。……やはり、来ましたね。」
「昨日の昼、あのあと……風が止まって、声がしました。」
「掛水殿……でしたね。
ごく稀に、生きたまま黄泉の国に迷い込む人間は昔からいます。
そのような者は、黄泉と現世を吹く風に声を乗せて語りかけることがある。
しかし、その声に混じって“開けろ”と聞こえたなら──影が動いている証です」
豊郷は、頷いた。
長い沈黙のあと、静かに言葉を紡ぐ。
「影の声は、風の道を開き、命の通いを断とうとする。
しかし、風は記憶を持っています。──正しい流れを思い出させれば、風は戻る。」
豊郷は机の引き出しから小さな木札を取り出した。
手のひらに収まるほどのそれには、細かい組み木の文様が刻まれていた。
それはあの夏、僧と赤子に巻かれていた布に刻まれていた物に似ている。
「この札を持っていなさい。
風が止んだとき、これを胸に当てるのです。
あなたの中の風が、正しい道を思い出すでしょう。」
木札を受け取ると、指先がかすかに温かくなった。
その感触は、不思議と懐かしかった。
「……これは、あなたのために?」
「いいえ。風のためです。風は人を選ぶ。
あなたがここに来たのも、“呼ばれた”からですよ。」
豊郷はそう言って微笑んだ。
春の光が障子を透かし、鈴が小さく鳴った。
◇◇◇
夜。
アパートの部屋に、春の風がゆっくりと入り込む。
四畳半の狭い空間に、冷えたコーヒーの匂いと紙の擦れる音だけがあった。
小さな机の上には、参考書と開きかけのノート。
テレビもラジオも点けていないのに、どこかで風が鳴っている。
この部屋に引っ越して、もう一ヶ月。
上京用に貯めたお金で借りた、小さな一人暮らしの部屋。
けれど思っていたほど、自由の匂いはしなかった。
夜になると、町の奥から吹く風が、まるで名前を呼ぶように流れ込んでくる。
机の端に置いた木札を胸に当て、静かに目を閉じる。
風の音が遠のき、心臓の鼓動だけが耳の奥で響く。
──それは、世界が息を止める音。
次の瞬間、スマホが震えた。
画面に、通知も発信源もない着信表示。
ただ一行、《通話:0時53分》。
風が止まり、鈴が鳴った。
音が、風の奥から聞こえてくる。
『……聞こえるか。ミキ。』
──掛水さんの声だ。
けれど、前よりもずっと近い。息の湿り気を感じるほどに。
『風が詰まっとる。通したってや。向こう側、開けに来とる。』
ノイズの奥で、声が重なった。
別の誰かが、低く、同じ言葉を繰り返す。
『──開けろ。』
その瞬間、窓の外の電線が鳴った。
風が逆流し、カーテンが内側へ膨らむ。
部屋の空気が一瞬で冷たくなる。
心臓が跳ねた──まるで、何かが“来る”音がした。
◇◇◇




