第一章 風の記憶は春に吹く
※初見の方は本話末《登場人物紹介》をご覧ください
春の風が、街の角を抜けていく。
その風の匂いには、どこか懐かしい焦げの匂いが混じっていた。
私は、奥里坂市の大学に通っている。
本当は東京の大学を受けるつもりだったが、思うように勉強が進まず、結局この春は地元の大学へ進学することになった。
けれど、夢を諦めたわけじゃない。今も、編入試験を目指して勉強を続けている。
それでも──この町を離れることに、どこかためらいを感じているのは確かだった。
あの夏の夜。
深夜ラジオ《ドッとライジング!》が、黄泉へ抜ける穴を笑いで揺らし、風のリズムが狂い、町中の音が薄紙の下に押し込められた夜。
私と弟の孝、同級生の琴音、浜崎は、息と声を揃え、封印を再起動させた。
芸人の掛水は戻れず、黄泉側に残り、「見届け人」のような立場になった。──たぶん今も、向こうで笑っている。風に乗せて。
風は、忘れない。
◇◇◇
「ようこそこちらへ。お待ちしておりました。」
公民館の扉を押した瞬間、低い声が耳に落ちた。
入口に立つ白髪の老人が、眉を下げて笑っている。胸元の名札には「豊郷講師」とあった。
「講座、まだ席はありますか?」
「ええ。あなたの分を、ちゃんと一つだけ空けてあります。」
言い回しは少し芝居がかっていたが、不思議と嫌味ではなかった。私は軽く会釈をして席に座る。
黒板にはチョークで丸が三つ描かれており、それぞれに『風』『炎』『水』と書かれている。
「本日の講座は“身近な民俗学──奥里坂に根付く風習”です。風習は文字通り“風の習い”。風は息、息はいのち。わたしたちの暮らしは、見えぬものの通いで出来ています。」
豊郷は、祖父母の世代が語った記憶の端を、糸巻きのようにほどいていった。
川に掲げる鈴、季節の変わり目に火を焚いて風向きを読む行、山の口に立つ禁足の印。
知らないはずなのに、懐かしい気配がする。聞いているうちに胸の奥で、薄い膜がふっと温かく膨らむ。
──知っている。いつか、どこかで。
火の色、風の匂い、鈴の音。私の、誰かの、遠い手のひらの感触。
「さて。」と豊郷は、会場を見渡したのち、まっすぐ私の目を見た。観衆は二十名ほどいるのに、彼は私だけに話しかけるように、穏やかに言う。
「お話、面白かったですか?」
「……はい。あの、私──」
「後で、少しお時間をいただけますか。幾つかお尋ねしたい。」
頷く私の胸で、春の風が一段強くなる。
◇◇◇
講座が終わり、私と豊郷は静かな休憩室にいた。
古い土鈴がいくつも吊るされ、風が吹くたびに微かな音を立てる。
「……貴女は、生まれ変わりを信じていますか?」
豊郷が湯飲みを手に、穏やかに尋ねた。
「わかりません。けど、夢を……よく見ます。いつも同じ夢です。」
私は、言葉を探しながら、ゆっくりと口を開いた。
「焼け落ちる塔の中にいるんです。木の階段が炎に包まれて、外では、刀を持った人たちの叫び声が響いてる。
床が軋んで、屋根がきしむたび、熱風が吹き込んできます。息を吸うだけで喉が焼けそうで……」
その光景を思い出すと、今でも胸が熱くなる。
夢なのに、痛みも、匂いも、音も本物のようだった。
「私の隣には、槍を持った男の人がいました。
肩まで届く髪で、少し年上の……優しい顔の人です。私を背中で庇って、『姫君、早く』って言うの。
けど、崩れた梁が落ちてきて──その人は、とっさにそれを支えるんです。
炎の中で、木が爆ぜる音がして、肩に火が移ったのが見えました。」
喉が詰まり、言葉が震える。
「それでも彼は笑って、『ここまでお支えできて、幸せでした』って。
……そして、そのまま立ったまま動かなくなったんです。私の目の前で。」
豊郷は静かに頷いた。
その表情は、悲しみと安堵の入り混じったようなものだった。
「そのあと、塔の奥から、もう一人の人が来ました。
弓を持った青年で、私と同じくらいの年。煤だらけで、顔がよく見えないんですけど……必死に私の手を取って、『行きましょう!』って。
階段が崩れる中、彼は何度も矢を放って、追ってくる人たちを止めてくれて。
塔を出たあとも、山の中をずっと走り続けた。……その途中で、彼が立ち止まるんです。
“ここから先は、あなた一人で”。
“生きて──生き抜いてください。私はまた、会いに行きます”って。」
夢の中の風が、今も耳の奥で鳴っているようだった。
燃える塔。崩れた梁。背中を焦がした匂い。
泣きながら振り返ったとき、青年の顔は煤けて見えなかった。
それなのに──どこか、懐かしい。誰かを重ねてしまいそうになる。
「……だから、少し怖いんです。この夢がただの夢じゃない気がして。」
豊郷はしばらく黙っていた。
そして、深く、ゆっくりと息をついた。
「──そうですか」
それから、彼は右肩の布を少しめくった。
炭化したような火傷の跡が、春の光の中に浮かぶ。
皮膚は波のように盛り上がり、長い時間を経た傷跡だった。
「十五年ほど前のものです。……あなたの夢に出てくる“槍の男”、その傷と似ていませんか?」
私は息を飲み、思わず自分の足元を見下ろした。
タイツの下──魚の形のような火傷痕がある。
ずっと、幼いころのお湯の事故だと思っていた。
けれどその時、何かが胸の奥でざわめいた。
夢の中の炎、焼ける木の匂い、風の唸り。
それらが、彼の肩の火傷と重なる。
豊郷は静かに頷き、微笑んだ。
「魂というのは、時に長い旅をします。
風のように形を変え、やがてまた、どこかで巡り会うのです。」
それだけを言って、湯飲みを口に運んだ。
春の風が障子を揺らし、鈴が小さく鳴った。
◇◇◇
世界から音が消えた。
外で鳴っていた鈴の音も、鳥の声も、何もかもが途絶えた。
ポケットの中でスマホが震える。
通知はない。だが、勝手にラジオアプリが開いた。
画面の中央に、再生マークが点滅している。
表示されている時刻は──0時53分。
ぞくりと背中が粟だつ。
耳の奥で、懐かしい声がした。
『……美希ちゃん、聞こえるか?』
──掛水さんの声だ。
私は一瞬、呼吸を忘れた。
彼は、黄泉の向こうに消えたはず。
もう、この世にいないはずの人。
なのに、あの優しいバリトンが、確かに耳元で息をしていた。
『あかん……風がズレとる。命のリズムが、乱れとる……』
声が歪み、ノイズが混じる。
笑っているのか泣いているのか分からない音。
それは“人の声”のかたちをしているのに、何かが決定的に違う。
『……開けろ』
その一言で、背筋が凍った。
音が切れる。だが、風が動かない。
カーテンが、誰かの息に押されるように、ゆっくりと膨らんだ。
私はスマホを握り締め、動けなかった。
画面の中の再生マークが、点滅をやめ、ただ黒い鏡のように私を映している。
その鏡の中──背後に、誰かが立っていた。
◇◇◇
《登場人物紹介(第二部)》
○ 山下美希:
本作の主人公。地元の大学一年生(一浪)。上京(編入)を目指して勉強中。あの夏の“風が止んだ夜”の当事者で、再び町の異変に胸騒ぎを覚える。
○ 山下孝:
前作(第一部)の主人公。高校二年生。美希の弟。ラジオアプリを通じて届く“向こう側の声”に敏感で、琴音・浜崎と行動を共にすることが多い。
○ 水島琴音:
高校二年生。地誌と民俗に詳しい祖父の影響で、土地の昔話や風習に明るい。冷静な観察力で、異変の「理」を見つけるのが得意。
○ 浜崎真弓:
高校二年生。孝と美希の幼馴染。通称ハマヤン。おおらかで面倒見がよく、いざという時に体が先に動くタイプ。下の名前をからかわれがちだが、芯は強い。
○ 豊郷惣一:
民俗学者。公民館で「奥里坂に根付く風習」の講座を開く。風は息、息はいのち――という“風の理”を語り、美希の見る夢と奇妙に呼応する過去を示唆する。
○ 掛水慎太郎:
お笑い芸人。深夜ラジオ《ドッとライジング!》MC。あの夜以降、黄泉側に留まり、風に乗せて現世へ“声”を届けるメッセンジャーとなる。関西弁の柔らかいバリトン。
○ 坂田亮介:
掛水の相方。現世の記憶からは消えているが、黄泉では掛水の隣にいる“もう一つの声”。境界の隙から、時に軽口まじりの伝言を残す。
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《用語ミニガイド(ネタバレなし)》
・風:息と声のリズム=命の流れ。乱れると“音”が薄れ、時に世界が静止する。
・影:輪廻の理を歪める執念の残滓。生者の“風”を奪おうとする。
・黄泉:死者の国。現世を鏡のように映す“向こう側”。
・黄泉口:現世と黄泉の境界の裂け目。トンネルなどに口を開くことがある。
・木札/鈴:印が刻まれた護符と、境界を知らせる音具。風を整える“合図”。
・組み木:理を形にした台座。正しい手順で“力”を宿す器。
・《ドッとライジング!》:深夜ラジオ番組。掛水の“声”が風に乗る通路。今は痕跡が薄いが、当事者の端末には反応することがある。
※初見の方へ:本編は単独でも読めます。必要に応じて本後書きの一覧をご参照ください。




