第弐拾捌話 もう一人の邪視
弱々しい声で雪緒は言った。
「……母さんが、牛女だった……」
それを聞いただけで、時雨は即座に屋上を後にした。
理由は至極簡単な事だ。雪緒ではなく、自分が牛女を殺すためだ。
これは時雨の勝手な願いだ。時雨は、雪緒に人の名残がある者を殺してほしくないのだ。
人の名残がある者を殺してしまえば、罪悪感が残る。心に傷が残る。しかし、その傷にじきに慣れてしまうのだ。何も感じなくなるわけではない。けれど、心が麻痺してしまい、罪悪感を少ししか感じなくなってしまう。
また殺してしまった。けど、仕方ない。それが仕事、それが役目だ。だから、殺してしまっても仕方ない。
そう、思うようになってしまう。
人を殺した自分を肯定して、言い訳が自然と出て来る。
殺すしかなかった。殺す方が世間のためだった。皆を守るために殺したんだ。
罪悪感よりも先に言い訳が出て来るようになってから、気付く。自分が人として失ってはいけないものを失ってしまった事に。
……雪緒くんには、そうなってほしくないんだ。
時雨は雪緒と初めて会った時、雪緒の事を少しだけ自分と似ていると思った。初対面の第一印象だったから、気のせいかと思った。けれど、きさらぎ駅で再会してから、その印象が間違っていなかった事を知る。
雪緒は臆病だ。誰かが傷付くのが怖い。その臆病さが、かつての自分に似ていた。
『大丈夫。ーーは僕が守るよ』
『安心して、君を助けに来たんだ』
『僕の側を離れないでね』
いつか、自分が誰かに言った言葉が自然と想起された。
時雨と雪緒は似ているけれど、同じという訳ではなかった。雪緒に時雨ほどの力は無い。ただ少し霊力があっただけの、ごく普通の少年だった。誰かを守りたいという意思は同じだけれど、雪緒には力がなかったのだ。
かつて、初めて怪異と対峙したときの時雨に備わっていたものが、雪緒には無かった。
だというのに、雪緒は危険地帯であるきさらぎ駅に足を踏み入れた。それも、上善寺青子という足手まといを連れてだ。
似てると思い、けれど、同じではないと分かった。
雪緒は時雨程割り切れておらず、ちゃんと選択をしながらも、後悔と罪悪感に押し潰されそうになっていた。時雨を式鬼にするのも躊躇い、窮地に陥る程の蒙昧さだった。
けれど、自分に無いその甘さを、時雨は気に入ってしまったのだ。それは、自分には無いものだったから。
時雨が早々に切り捨てたものを、雪緒はずっと持ち続けているのだ。
……だから、それをずっと持っていてほしいと思った。自分のように擦れてしまわないように、心が摩耗してしまわないように、自分が手助けをしなくてはいけないと思った。
時雨は大勢のために少数を切り捨てられる。けれど、雪緒は誰も彼も救いたいと豪語する。
嗚呼……その甘さは、その意思は、僕が最初に切り捨ててしまったものだ。
時雨にとって、そんな雪緒は眩しかった。一直線で、誰かのために必死になれて、助ける事の利を求めないで、助けるための理を求める。そんな雪緒を、助けたいと思ってしまった。
だからこそ、時雨の勝手な願いだ。雪緒にはそのままでいてほしい。擦れず、摩耗せず、割り切らず、助けたい者は全て助けると豪語する雪緒であってほしい。
そのためならば、自分は汚れ仕事も買って出よう。人の名残がある者を、自分が殺そう。彼が殺すのを躊躇う者を、自分が殺そう。自分に躊躇いは無い。だからこそ、自分が殺そう。
商店街の前、絶叫を上げる牛女の前に降り立つ。
「貴女に恨みはありません。ですが、雪緒くんの負担になるのなら、死んでください」
言って、時雨は静かに刀を抜いた。
楸からそれなりに距離を取っていたのだろう。雪緒の居たビルから商店街はそれなりに遠く、向かうのに少しばかり時間を要した。
ようやっと到着した商店街。しかし、そこで雪緒は思いもよらない光景を目にした。
「時雨!!」
思わず、声を上げて駆け寄る。
時雨は力無く地面に平伏しており、その姿はどこもかしこも傷だらけであった。
鬼の面は割れ、刀は半ばから折られていた。
「おい、大丈夫か!?」
「ぐっ……うっ……」
雪緒が抱き抱えるようにして起こせば、時雨は苦しげに呻き声を上げる。
「まなこ!! 誰か治療が得意な妖を呼んでくれ!!」
「すでに手配してあります。応急処置は私がします。主様は主様の成すべき事を」
雪緒から時雨を預かり、離れた場所へと移動するまなこ。
雪緒が時雨の元へと駆け付けている間、仄と小梅は二人を守るように二人と怪異の間に立つ。
「……主殿。すぐに黒曜を呼び戻してくだされ。それと、鈴音と凍花もお喚びくだされ」
小梅が、聞いたことも無いような逼迫した声で言う。そして、小梅の隣に立つ仄も、眉間に皺を寄せて表情をしかめる。
小梅の逼迫した声を聞き、雪緒は意識を時雨から目の前の怪異に向ける。
その怪異に、道明寺楸の面影は一つも無い。
牛の頭。薄い着物一枚に身を包んだ女体。それだけみれば、他の牛女とあまり変わり無い。しかし、その牛の頭は白骨化しており、着物の隙間から見える手足は酷く痩せ細っていた。
手に持つのは鍬一つ。それ以外の武器らしい武器は無い。
「なんだ、これ……」
見るからに弱そうな牛女。しかし、その牛女が放つ気配は、今まで出会ったどの怪異よりも大きく、強かった。
目の前に立った時の圧力も、底冷えするまでの気持ち悪さも、怖気のする空気も、全てが今までの怪異を上回っているのだ。
これが、楸だと言うのか? こんな化け物が、自分の母親だとでも……。
「主殿!! 早く百鬼夜行をお喚びくだされ!!」
呆ける雪緒に、小梅が声を荒げて叱責する。
小梅の声で我に返る。右手に破敵剣を握り、左手に護身剣を喚び出す。浄化するべき牛女はもういない。全て、目の前の怪異の糧となってしまったのだ。もうあの場所に護身剣を置いておく利点は無い。
助けられた人は居ただろう。けれど、助けられなかった人の方が多かった。
「式鬼神招来」
懐から式鬼札を三枚取り出し、黒曜、鈴音、凍花を喚び出す。
「何事だ、主……いや、言わなくとも大丈夫だ。だいたい分かった」
「ちょっ、なんですかこれ? 私こんな禍々しい相手久方振りに見ましたよ」
「口を慎みなさいな凍花。目の前の怪異は、主様の母君ですよぉ?」
「え、は? どういう状況なのですか?」
状況をまったく理解できていない凍花一人が置いてけぼりになっているけれど、他の者は皆状況を正しく理解している。そのため、すぐさま戦闘体勢に入る。
凍花は何が何やら分からないといった風だけれど、そういった状況には慣れたものなのか、すぐさま戦闘体勢をとる。
雪緒は、一つ息を吐いて目をつむり、楸の姿を思い浮かべる。
「……御免、母さん。痛いと思うけど、我慢してくれ」
言って、目を開ける。
目を開けた直後、目前に広がる牛女の顔。
「ーーっ!!」
突然の事に動揺する雪緒。
気付かなかった。気付けなかった。瞬きの一瞬。その間に、距離を詰められた。
「……カワク……ウエル……クラウ……カワキハ……ミタサレヌ……」
底冷えするような音で発っせられる言葉。
あまりの悍ましい声に雪緒が硬直していると、黒曜が雪緒を後ろに思い切り引っ張って飛ばし、巨大な棍棒を牛女に叩き付ける。
牛女は鍬でその一撃を受け止める。
「ーーむっ!」
細い腕。細い鍬。折れてしまいそうな脚。黒曜の攻撃を受け止めきれる要素など無いはずなのに、牛女は黒曜の重い一撃を易々と受け止めて見せた。
「黒曜、離れなさい!!」
凍花がすぐさま地面に氷を這わせて、牛女の脚どころか、全身を地面に繋ぎ留める。
「お二方!!」
「分かっておる! 仄殿、合わせまする!!」
「ああ!」
小梅と仄が巨大な炎の塊を生み出し、同時に牛女に投擲する。
「燃えろッ!!」
「火生三昧!!」
二つの炎が氷付けになった牛女を包み込む。
初動が遅れた雪緒も、ようやっと動き始める。
「堕ちろ!!」
紫電を溜め、炎に包まれた牛女に落雷を落とす。
空気をつんざく轟音が響き渡る。
鬼主を燃やした一撃。いかに牛女が強力でも、痛痒の一つでも与えられるはず。
「……おいおい、まじかよ」
炎と土煙が晴れ、姿を現した牛女を見て愕然とする。
「無傷かよ……」
そこに立つ牛女には傷一つついておらず、また、その衣服にも損傷は無い。
見た目は今まで会った怪異の中で一番ひ弱だと言うのに……。
「ウエル……カワク……ウエル……カワク……ウエル、ウエル、ウエル……」
牛女の頭蓋の眼窩の奥に、怪しい光が燈る。
「……クワセロ……」
牛女が緩慢な動作で鍬を振りかざした。
〇 〇 〇
人気の無い路地裏。そこに、隻眼の男がふらりと入り込む。
「はっはぁっ……! やってやったぜこんちくしょう……! ……ってぇ……」
眼球の失われた眼窩に手を当て痛みに呻く。しかし、その顔は厭らしいほどに笑っており、事が思い通りに進んだ事を喜んでいた。
「あいつのあの顔、傑作だったなぁ……」
雪緒が最後に見せた、抗えない現実に絶望をした顔。それを思い出し、くひひっと意地悪く笑う。
「ご機嫌ですね」
そんな男に、誰かが声をかける。
視る事が得意なはずの邪視が、ぼんやりとしか確認できない謎の人物。普通であれば驚き、うろたえもするだろうけれど、邪視にとっては見知った相手だ。驚く事もうろたえる事も無い。
「あぁ、あんたか。そりゃあ、上機嫌にもなるさ。全部上手く行ったんだ。これでこの町の奴らも全部殺せる。一人残らず、一切合切な」
歓喜の中に狂喜を込めた笑みを浮かべる男。
「ようやく……ようやくだ……!! この糞汚ねぇ町をぶっ壊せる……!!」
男は、この町が嫌いだ。憎くて憎くて仕方がない。
人と違うからと、人より恐ろしいものを持っているからと、迫害をしてきた者達の居るこの町が、大嫌いだ。
「本当に、憎かったのですね」
「当たり前だ! 俺を……俺の眼を気味悪がって迫害してきた奴らの住むこの町が、俺は心底から大嫌いなんだよ!!」
怒り心頭に言った男の残った方の眼が、赤くほの暗い光を帯びる。
そう。この男もまた、生前から邪視の持ち主だったのだ。皇后崎のように事件にはならなかったものの、噂が立ち、迫害を受けてきたのだ。
それが、六十年前の事。
きさらぎ駅に入り込むのに、老若男女は関係無い。老人であった男はきさらぎ駅に迷い込み、異形となった。しかし、怪異を有しているからか、男は異形に成り果てても幾らかの自我があった。
そして、雪緒がきさらぎ駅を終わらせた後、異形の姿のまま現実世界に放り込まれた。
他の者は形を求めて伝承に根付いたけれど、男は違った。男には根源となる怪異を既にその身に有していたのだ。いや、それ以前に、男は邪視として語られた怪異譚そのものであったのだ。
邪視を持つ男はこの町の老人が知る邪視である若い時分の姿になり、怪異として形を成した。
力を得た男は、この町の者に復讐をするために考えを巡らせていた。そんな時にであったのが、このなんだか分からない人物だ。
最初は至極驚いたけれど、力を貸したいと言われればやぶさかではなかった。
そうして、目の前の人物の知恵を借り、今回の計画を実行に移したのだ。
先ず、徘徊していた牛女から怪異の性質を抜き取り、男の眼球に宿す。そして、その眼球を通して相手に変性の呪いをかける。
呪いを広げ、怪異となった者から生命力を根こそぎ奪う。それこそ、死ぬまでだ。
呪われた者と牛女は縁により繋がっているので、牛女が縁を辿って自動的に力を吸おうとするため、それを男の力を宿した目で留めて力が牛女に流れないようにする。
変性の呪いは周囲に広がるようになっているので、待っていれば自然と牛女の餌が増える。
七星剣の浄化は予想外だったけれど、使い手が未熟なために浄化は滞り、怪異化に浄化の速度が追い付けなくなった。
そうしてたまりにたまった牛女の餌を、今までせき止めていた眼球を破壊する事で一気に牛女に喰わせる。
そうすれば、牛女が持っていた力以上の力を牛女は手にする事ができるのだ。
千人以上の人の生命力を喰らった牛女は、数百人を喰った鬼主とは比較にならない程の力を得た。
自然と、笑みがこぼれる。
「あれなら、この町を壊せる……! 全部、全部壊しちまえ……!!」
「いえ、そうはなりませんよ」
しかし、歓喜する男の言葉を、男の協力者であるはずの者が否定する。
それには男も驚いたように目を見開く。
「……は? なんでだ?」
「私はそんな未来を知りませんし、おもそも、あれも貴方もーー」
「…………あ?」
「ーー此処で、退場ですから」
「は? あ、れ……?」
何かが身体を貫く感触。自らの腹を見れば、目の前の者の腕が深々と突き刺さっていた。
「な、んで……」
当然の疑問。それに、あまりにも素っ気なく答える。
「ですから、退場です。この先の物語に貴方とあれの出番は無いんですよ」
言って、突き立てた腕を引き抜く。
ぐらりと、男の身体がぐらつき、倒れる。
「…………っそ、が……」
「ありがとうございます。お休みなさい」
それだけ言って、その者は去っていく。
ぼやける背中を睨み、恩讐を募らせながらも何もできない。腹に空いた穴は怪異と言えど致命傷だった。
「……はっ……やっぱり、くそったれだ……」
空虚を胸に抱き、男は力尽きた。




