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 前編 午前三時の湯気


午前三時。


街が眠り、誰にも言えない疲れや寂しさが、ふと胸に浮かぶ時間。


そんな夜の底に、たった二時間だけ開く小さな食堂があります。


夜勤帰りの看護師、売れない俳優、配達員、孤独な作家、離婚した会社員。


それぞれ違う人生を抱えた男女が、温かい夜食を前に、少しずつ本音をこぼしていく物語です。


派手な事件はありません。


けれど、味噌汁の湯気や、焼き鮭の香り、だし巻き卵の優しさの中に、誰かの人生を変える小さなきっかけがあるかもしれません。


どうぞ、お腹を空かせながらお読みください。



午前三時。


街が一番静かになる時間にだけ、灯りのともる食堂があった。


駅前の商店街から一本外れた、古い路地の奥。


昼間なら見落としてしまいそうな小さな看板に、墨でこう書かれている。


「夜食処 三日月」


営業時間は、午前三時から午前五時まで。


たった二時間だけ開く、不思議な食堂だった。


カウンター七席と、四人掛けのテーブルが二つ。


壁には古い時計と、少し色褪せた献立札。


焼き鮭定食、卵かけご飯、肉じゃが、味噌汁、だし巻き卵、焼きおにぎり、豚汁、ナポリタン、親子丼、深夜のカレー。


どれも特別な料理ではない。


けれど、この店で食べる夜食は、不思議と胸の奥まで温かくなる。


店主の名前は、月島灯司。


年齢は四十歳。


無口ではないが、余計なことは言わない男だった。


「いらっしゃい」


午前三時ちょうど。


暖簾が揺れ、一人目の客が入ってきた。


白いコートを腕に抱えた女性だった。


夜勤明けの看護師、佐伯美琴。


三十二歳。


疲れた顔をしているのに、背筋だけはいつも真っ直ぐだった。


「灯司さん、今日も開いてる」


「開けてなきゃ、佐伯さんが倒れるだろ」


「倒れません。たぶん」


美琴はカウンターの端に座り、深く息を吐いた。


灯司は何も聞かず、湯気の立つ味噌汁を出した。


具は豆腐とわかめ、刻みねぎ。


それから焼き鮭、ほうれん草のおひたし、白いご飯。


美琴は箸を持ち、まず味噌汁を一口飲んだ。


「……生き返る」


「今日も大変だったか」


「大変じゃない夜勤なんて、ありません」


そう言いながら、美琴は焼き鮭をほぐした。


皮はぱりっと焼けていて、身はふっくらしていた。


熱々の白ご飯に鮭をのせ、少しだけ醤油を垂らす。


口に入れた瞬間、疲れで固まっていた表情が少しだけほどけた。


「患者さんに言われたんです」


「何を?」


「佐伯さんは、いつも大丈夫そうに見えるねって」


美琴は笑った。


でも、その笑顔は少し寂しそうだった。


「本当は全然、大丈夫じゃないんですけどね」


灯司は返事をしなかった。


代わりに、小皿にだし巻き卵をのせて出した。


「頼んでません」


「余り物だ」


「嘘。絶対、今焼いたでしょう」


「余った卵で焼いた」


美琴は小さく笑った。


だし巻き卵は、箸で持つと少し震えるほど柔らかかった。


口に入れると、じゅわっと出汁が広がる。


甘すぎず、しょっぱすぎず、体がゆっくり安心していく味だった。


そこへ、二人目の客が入ってきた。


黒いパーカーに、安物のリュック。


売れない俳優、間宮蓮。


二十九歳。


「腹減った……今日、オーディション三つ落ちました」


暖簾をくぐるなり、蓮は情けない声を出した。


美琴が少しだけ顔を向ける。


「三つも受けたなら、すごいじゃないですか」


「落ちたんですよ?」


「受けない人より、ずっとすごいです」


蓮は目を丸くした。


そして、へなへなとカウンターに座る。


「灯司さん、今日の俺に必要なものを」


「親子丼だな」


「なぜ?」


「顔がひよこみたいだから」


「ひどい」


灯司は鶏肉を小さめに切り、玉ねぎと一緒に甘辛い出汁で煮た。


溶き卵を二度に分けて流し入れる。


一度目はふんわり固め、二度目は半熟のまま火を止める。


熱々のご飯にのせると、卵がとろりと広がった。


蓮は丼を抱え込むようにして食べた。


「うま……」


一口食べただけで、彼の肩から力が抜けた。


「俺、才能ないのかな」


蓮がぽつりと言った。


美琴は箸を止める。


灯司は鍋を洗いながら、静かに言った。


「才能があるかないかは、俺には分からない」


「ですよね」


「でも、腹が減るうちは、まだ終わってない」


蓮は親子丼を見下ろした。


とろとろの卵。


柔らかい鶏肉。


甘い玉ねぎ。


その全部が、情けない自分を責めずに受け止めてくれているようだった。


「……明日も受けます」


「それでいい」


午前三時二十分。


次に入ってきたのは、配達員の青年だった。


名前は朝倉新。


二十六歳。


雨の日も、風の日も、深夜まで自転車で街を走っている。


髪は少し濡れていて、頬は冷えきっていた。


「寒い……灯司さん、豚汁ありますか」


「ある」


「大盛りで」


「飯も?」


「焼きおにぎり二個で」


灯司は大きな鍋から豚汁をよそった。


大根、人参、ごぼう、こんにゃく、豆腐、豚肉。


味噌の香りと生姜の匂いが、店いっぱいに広がる。


新は両手で椀を包み、まず汁をすすった。


「うわ……染みる」


焼きおにぎりは、表面に醤油が塗られ、香ばしく焼かれていた。


かじると外はかりっと、中はふっくら。


そこに豚汁を合わせると、深夜の冷えた体に一気に熱が戻ってくる。


「今日、配達先で怒鳴られました」


新が言った。


「遅いって」


美琴が眉を寄せる。


「雨だったのに?」


「雨でも、腹が減ってる人は怒りますから」


蓮が親子丼を食べながら言った。


「分かる。空腹って人間を獣にするよね」


新は苦笑した。


「でも、別の配達先で、お疲れさまって缶コーヒーもらいました」


「じゃあ、今日は引き分けだな」


灯司が言った。


新は少し考えてから頷いた。


「引き分けなら、悪くないですね」


午前三時四十分。


扉が静かに開いた。


入ってきたのは、眼鏡をかけた細身の男。


孤独な作家、白鳥一夜。


三十八歳。


売れているのか、売れていないのか、本人もよく分からない小説家だった。


いつもノートを持ち歩き、人の会話を聞いては、少しだけメモをする。


「ナポリタンを」


「珍しいな」


「恋愛小説を書いていたら、急に食べたくなりまして」


「恋愛とナポリタンに何の関係が?」


「分かりません。ただ、昔の喫茶店みたいな恋を書きたくなったんです」


灯司は鉄板を熱し、玉ねぎ、ピーマン、ウインナーを炒めた。


そこへ太めの麺を入れ、ケチャップを絡める。


じゅうじゅうと音がして、甘酸っぱい香りが広がった。


仕上げに粉チーズを少し。


白鳥は一口食べ、目を閉じた。


「……これは危険ですね」


「何が」


「懐かしくもないのに、懐かしい」


美琴が笑う。


「分かります。食べ物って、自分の記憶じゃないものまで呼び起こす時がありますよね」


白鳥は美琴を見た。


その視線は、作家としてではなく、一人の男として少しだけ揺れていた。


蓮はそれに気づき、にやりと笑った。


新も気づいたが、気づかないふりをして豚汁をすすった。


午前四時。


最後に入ってきたのは、スーツ姿の男性だった。


離婚した会社員、久瀬涼介。


四十一歳。


左手の薬指には、もう指輪はなかった。


「カレー、ありますか」


「ある」


「辛くないやつで」


「分かってる」


涼介はテーブル席に座ろうとしたが、美琴が声をかけた。


「今日はこっちに座ればいいじゃないですか」


涼介は少し驚いた顔をした。


それから、遠慮がちにカウンターへ座る。


深夜のカレーは、派手な味ではなかった。


玉ねぎが溶けるまで煮込まれ、牛すじがほろほろになっている。


辛さよりも甘みとコクが強く、最後に少しだけスパイスが追いかけてくる。


涼介は黙って食べた。


黙って、黙って、半分ほど食べたところで、突然言った。


「息子に、会ってきました」


店の空気が少しだけ止まった。


「離婚してから、初めて二人で飯を食べました」


「何を食べたんですか」


美琴が優しく聞いた。


「ハンバーグです。ファミレスの」


「いいですね」


「はい。息子が、僕より大きいハンバーグを頼んでました」


涼介は笑った。


けれど、目元が赤かった。


「父親らしいこと、何もできなかったのに。最後に、また飯行こうって言われました」


灯司は黙って、カレーの横に福神漬けを足した。


涼介はそれを見て、小さく頭を下げた。


「また会えばいい」


灯司が言った。


「何度でも、飯を食えばいい」


その言葉に、涼介は泣かなかった。


ただ、少しだけ背中を丸めて、カレーを最後まで食べた。


午前四時半。


店の中は、五人の客と一人の店主で満たされていた。


夜勤帰りの看護師。


売れない俳優。


配達員。


孤独な作家。


離婚した会社員。


それぞれ違う場所で傷つき、疲れ、迷いながら、この二時間だけの食堂にたどり着く。


美琴はだし巻き卵を食べ終え、ふと灯司を見た。


「灯司さんは、どうして午前三時だけ店を開けてるんですか」


その質問に、他の客たちも顔を上げた。


灯司は少しだけ手を止めた。


そして、穏やかに言った。


「昔、俺が一番腹を空かせていた時間だから」


「腹を?」


「料理人を辞めようと思った日があった。何もかもうまくいかなくて、誰にも会いたくなくて、でも腹だけは減っていた」


灯司は空の皿を拭きながら続けた。


「その時、知らない食堂で食べた味噌汁が、やけにうまかったんだ」


誰も茶化さなかった。


「救われたんですか」


白鳥が聞いた。


「大げさに言えばな」


灯司は小さく笑った。


「だから、今度は俺が開けてる。午前三時に腹を空かせてるやつは、たぶん飯以外にも何か足りてない」


美琴はその言葉を聞いて、胸の奥が熱くなった。


自分はここに、ただ夜食を食べに来ているのだと思っていた。


でも違った。


ここに来る理由は、きっと味噌汁だけではない。


灯司の作る料理は、誰かの疲れを責めない。


誰かの失敗を笑わない。


誰かの孤独を、無理に暴こうとしない。


ただ、目の前に温かいものを置いてくれる。


その優しさに、いつの間にか惹かれていた。


午前五時前。


客たちは一人ずつ店を出ていった。


蓮は「明日もオーディションです」と言い、新は「今日も走ります」と笑い、白鳥は「この店を書いてもいいですか」と聞き、涼介は「来週、息子と飯に行きます」と少し誇らしげに言った。


最後に残ったのは、美琴だった。


「ごちそうさまでした」


「お疲れ」


「灯司さん」


「ん?」


美琴は少し迷った。


そして、勇気を出して言った。


「今度、午前三時じゃない時間に、会えませんか」


灯司の手が止まった。


古い時計の針の音が、やけに大きく聞こえた。


美琴は慌てて言った。


「変な意味じゃなくて、いえ、変な意味も少しあるかもしれないですけど、その……昼間の灯司さんを、見てみたいなって」


灯司は驚いた顔をした。


それから、初めて少し困ったように笑った。


「昼間の俺は、ただのおじさんだぞ」


「午前三時の灯司さんも、ただの店主です」


「なら、変わらないな」


「変わらなくていいです」


美琴はそう言って、真っ直ぐ灯司を見た。


「私は、変わらない灯司さんに会いたいです」


灯司はしばらく黙っていた。


やがて、静かに頷いた。


「明日の昼、仕込み前なら空いてる」


「本当ですか」


「ああ」


「じゃあ、会いに来ます」


美琴は嬉しそうに笑った。


その笑顔は、夜勤明けの疲れた看護師のものではなく、一人の女性のものだった。


店の外では、少しずつ朝が近づいていた。


午前三時の食堂に、小さな恋の湯気が立ちのぼり始めていた。


後編 朝になる前に、恋をする


翌日の昼。


美琴は少しだけ落ち着かない気持ちで、夜食処三日月の前に立っていた。


いつもなら暖簾が出ている時間ではない。


店の扉は閉まっていて、看板の灯りも消えている。


昼の路地は、夜とはまるで別の顔をしていた。


昨夜は静かで優しかった道が、昼間は少し気恥ずかしいほど現実的に見える。


美琴は深呼吸をしてから、扉を軽く叩いた。


中から足音が聞こえ、灯司が顔を出した。


「来たのか」


「来ますって言いました」


「本当に来るとは思わなかった」


「ひどいですね」


「悪い」


灯司は店の中へ美琴を招いた。


昼間の食堂は、午前三時よりも少し明るかった。


カウンターの木目がよく見え、壁の献立札の端が少し欠けていることも分かる。


窓から細い陽射しが入り、調理場の鍋や包丁を照らしていた。


「仕込み中ですか」


「ああ。今日は肉じゃがと豚汁と、鯖の味噌煮」


「もう名前だけでお腹が空きます」


灯司は少し笑った。


「昼飯、食ったか」


「まだです」


「じゃあ、食っていけ」


「でも、お店の準備中じゃ」


「まかないだ」


美琴はカウンターに座った。


午前三時と同じ席。


けれど、今日は何かが違った。


灯司が出してくれたのは、まかないの生姜焼き定食だった。


薄切りの豚肉に、生姜の香りがしっかり絡んでいる。


玉ねぎは甘く、たれはご飯に合う濃さ。


横には千切りキャベツ、ポテトサラダ、味噌汁。


美琴は箸を持つ前から、もう負けた気がした。


「いただきます」


生姜焼きを一口食べる。


熱々の豚肉から、生姜と醤油の香りがふわっと広がる。


噛むほどに脂の甘みが出て、ご飯が欲しくなる。


すぐに白ご飯を口に運ぶ。


「……ずるいです」


「何が」


「こんなの、好きになります」


言った瞬間、美琴は自分の言葉に気づいて固まった。


灯司も固まった。


店内に、鍋の煮える音だけが響く。


美琴は顔を赤くして、慌てて言い直そうとした。


「違います、料理の話で、いや、料理だけじゃなくて、でも今のは、その」


「佐伯さん」


灯司が静かに呼んだ。


美琴は箸を置いた。


「はい」


「俺は、恋愛が上手くない」


「見れば分かります」


「即答だな」


「すみません」


「いや、その通りだ」


灯司は苦笑した。


「店をやって、飯を作って、人の話を聞くことはできる。でも、自分のことになると途端に鈍くなる」


美琴は黙って聞いていた。


「それでもいいなら、また昼に来ればいい」


美琴の胸が、ゆっくり熱くなった。


「それは、会ってくれるって意味ですか」


「そうだ」


「午前三時以外にも?」


「ああ」


「夜食じゃなくても?」


「飯は作る」


「私が、ただ会いに来ても?」


灯司は少し照れたように視線を逸らした。


「その時も、茶くらい出す」


美琴は笑った。


涙が出そうになるくらい、嬉しかった。


その日から、美琴は時々、昼間の三日月に顔を出すようになった。


夜勤明けに眠る前。


休日の午後。


病院で嫌なことがあった日。


嬉しいことがあった日。


灯司はいつも何かを作った。


梅しそおにぎり。


鶏雑炊。


焼きそば。


オムライス。


冷やし中華。


クリームシチュー。


料理の名前が増えるたびに、二人の距離も少しずつ近づいていった。


けれど、変化は二人だけに起きたわけではなかった。


間宮蓮は、ある深夜、店に飛び込んできた。


「受かりました!」


午前三時十五分。


蓮は息を切らしながら、オーディションの合格通知を握りしめていた。


「ドラマです! 深夜ドラマの脇役ですけど、台詞あります! ちゃんと名前のある役です!」


新が拍手した。


白鳥も珍しく微笑んだ。


涼介は「祝いだな」と言った。


灯司は黙って、カツ丼を作った。


蓮はそれを見て目を輝かせる。


「勝つ丼……!」


「ベタだが、こういう日はベタでいい」


揚げたてのカツを甘辛い出汁で軽く煮て、卵でとじる。


三つ葉をのせたカツ丼は、湯気まで勝利の匂いがした。


蓮は一口食べて、泣いた。


「うまい……俺、明日から頑張れます」


「今日も頑張っただろ」


美琴が言うと、蓮は泣きながら笑った。


「佐伯さん、そういうのずるいです」


朝倉新にも変化があった。


彼は配達の仕事を続けながら、昼間に調理師学校へ通うことを決めた。


「俺、人に怒られながら飯を運ぶのも悪くないって思ってたんです。でも、いつか自分で作ったものを誰かに届けたいなって」


新がそう言った夜、灯司は焼きおにぎり茶漬けを出した。


香ばしく焼いたおにぎりに、熱い出汁をかける。


海苔とわさびを少し。


新はそれを食べながら、何度も頷いた。


「こういうの、作れるようになりたいです」


「作れるようになる」


灯司は言った。


「焦げ目のつけ方から教えてやる」


新は目を見開いた。


「いいんですか」


「午前三時に来られるならな」


「来ます。絶対来ます」


孤独な作家、白鳥一夜もまた、少し変わった。


彼は三日月を舞台にした小説を書き始めた。


題名は『午前三時の食卓』。


登場人物は、どこか三日月の客たちに似ていた。


「恋愛小説にするんですか」


美琴が聞くと、白鳥はナポリタンを巻きながら答えた。


「人生小説です」


「恋愛は?」


「人生に含まれます」


蓮がにやにやする。


「白鳥さん、最近ちょっと格好つけますよね」


「作家ですから」


「前から作家でしょう」


「最近、少しだけ人間に戻ったんです」


その言葉に、みんなが笑った。


白鳥も、少しだけ笑った。


久瀬涼介は、息子と月に一度食事をするようになった。


最初はファミレス。


次はラーメン屋。


その次は回転寿司。


そしてある夜、涼介は三日月に来て、静かに言った。


「息子を、いつかここに連れてきてもいいですか」


灯司は鍋をかき混ぜながら答えた。


「午前三時に起きていられるならな」


涼介は笑った。


「まだ高校生です。多分、起きてます」


その日のカレーは、いつもより少しだけ甘かった。


ある夜。


三日月に、珍しく全員がそろった。


美琴、蓮、新、白鳥、涼介。


そして店主の灯司。


外は強い雨だった。


路地の石畳が濡れ、看板の灯りが揺れている。


「今日は寒いな」


灯司はそう言って、大きな土鍋を出した。


「え、鍋ですか」


蓮が声を上げる。


「特別だ」


鍋の中には、鶏団子、白菜、長ねぎ、きのこ、豆腐、春菊。


出汁は透明で、鶏の旨みがじんわり溶けている。


湯気が上がるだけで、店の中の空気が柔らかくなる。


みんなで鍋を囲んだ。


美琴は鶏団子を取り、蓮は白菜を取りすぎて新に笑われ、白鳥は春菊について妙に文学的なことを語り、涼介は豆腐を崩して少し落ち込んだ。


灯司はそれを見ながら、静かに具材を足していく。


まるで、全員の人生が少し足りなくならないように。


締めは雑炊だった。


ご飯を入れ、卵を回し入れ、刻みねぎを散らす。


湯気の向こうで、みんなが無言になった。


おいしいものを食べる時、人は少しだけ素直になる。


「俺、ここがあってよかったです」


蓮が言った。


「同感です」


新が頷いた。


「この店がなかったら、私は今より少し嫌な大人になっていた気がします」


白鳥が静かに言った。


涼介も続けた。


「僕は、ここで飯を食べながら、自分を責めるのを少しやめられました」


美琴は灯司を見た。


「私は、ここで恋をしました」


全員が一瞬、静かになった。


蓮が箸を落とした。


新がむせた。


白鳥が眼鏡を直した。


涼介が気まずそうに水を飲んだ。


灯司だけが、耳まで赤くなっていた。


「佐伯さん」


「言っちゃいました」


「みんなの前でか」


「はい」


「なぜ」


「鍋がおいしかったので」


「理由になってない」


美琴は笑った。


「でも、本当です」


灯司は困ったように眉を下げた。


それから、ゆっくり言った。


「俺もだ」


今度こそ、店の空気が完全に止まった。


蓮が小さく叫んだ。


「言った! 灯司さんが言った!」


新が拍手した。


白鳥は即座にノートを開こうとして、美琴に止められた。


涼介は静かに笑っていた。


美琴は灯司を見つめたまま、何も言えなくなった。


灯司は照れくさそうに雑炊をよそい、美琴の前に置いた。


「冷める前に食べろ」


「……はい」


美琴は雑炊を一口食べた。


鶏の出汁と卵の優しさが、胸いっぱいに広がる。


泣きそうになるほど温かかった。


それから数週間後。


三日月の看板の横に、小さな貼り紙が増えた。


「昼の仕込み時間、たまに開いています」


常連たちは、それを見てにやにやした。


蓮はドラマの撮影前に立ち寄り、新は調理の練習に来るようになり、白鳥は原稿の相談をし、涼介は息子と二人で訪れた。


そして美琴は、以前より少しだけ自然に、灯司の隣に立つようになった。


料理を手伝うわけではない。


ただ、皿を並べたり、お茶を出したり、時々味見をしたりする。


午前三時。


今日も三日月の暖簾が揺れる。


街が眠り、誰かが疲れ、誰かが迷い、誰かが泣きたくなる時間。


その小さな食堂には、湯気の立つ夜食がある。


焼き鮭の香り。


豚汁の温もり。


ナポリタンの甘酸っぱさ。


カレーの深いコク。


だし巻き卵の優しさ。


そして、言葉にしきれない恋の気配。


「灯司さん」


閉店後、美琴がカウンター越しに言った。


「何だ」


「今日のまかない、何ですか」


「おにぎり」


「具は?」


「鮭と梅」


「最高です」


灯司は炊きたてのご飯を手に取り、塩を少しつけて握った。


形は少し不器用だけれど、しっかり温かい。


美琴はそれを受け取り、両手で包んだ。


「私、思うんです」


「何を」


「人生って、すごく大きな決断で変わることもあるけど、本当はこういう小さな夜食で少しずつ変わるのかもしれないって」


灯司は少し考えた。


「腹が満たされると、人は明日のことを考えられる」


「はい」


「明日のことを考えられるなら、まだ大丈夫だ」


美琴は頷いた。


そして、温かいおにぎりを一口食べた。


鮭の塩気とご飯の甘みが、朝になる前の体に優しく広がっていく。


外では、夜が少しずつ薄くなっていた。


もうすぐ朝が来る。


けれど、三日月に集まる人々は知っている。


午前三時は、終わりの時間ではない。


誰かの人生が、もう一度始まる時間なのだ。


そしてその真ん中で、灯司と美琴の恋もまた、湯気のように静かに、確かに、温かく立ちのぼっていた。



ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


前編では、午前三時だけ営業する小さな食堂「夜食処 三日月」に集まる人々の出会いと、それぞれが抱える孤独や疲れを描きました。


夜勤帰りの看護師・美琴、売れない俳優・蓮、配達員の新、孤独な作家・白鳥、離婚した会社員・涼介。


そして、彼らを静かに迎える店主・灯司。


温かい夜食を食べることで、彼らの心が少しずつほどけていく雰囲気を感じていただけたなら嬉しいです。


後編では、この食堂をきっかけに、それぞれの人生がもう少し動き出します。


そして、美琴と灯司の間に芽生えた小さな恋も、ゆっくりと形を変えていきます。


引き続き、午前三時の湯気とともに、彼らの物語を見守っていただければ幸いです。


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