33.敵を知り、己を知れば百戦危うからず―1
「婆ちゃぁんッ!」
障子をスパン! と開け放ち、叫んだ返事は菜箸だった。
玄関から廊下。
そして、廊下から座敷に入ったところでそれを喰らった。
ヒュン! とか、尋常じゃない風切り音をたて、耳許を掠めていった菜箸(二本揃いではなく片割れの一本)は、あり得ないことに、カン! とかいってすぐ斜め後ろ――出入り口脇の柱に突き刺さる。
「な、なにしやがる、このクソ婆ぁッ!」
ゾッとした。
これが時代劇とかだったら、頬にスゥッと一筋切り傷がはしって、そこからツゥッと血がつたったりしているところだ。
総毛立つのと同時に罵り言葉が出ても当然だろう。
だけど、
「まぁまぁまぁ、なんて汚い口のきき方なんでしょう」
台所に立ち、こっちに背中を向けていた婆ちゃんは、そのままの姿勢でそう言っただけ。
ごめんなさいと謝るのでも、手がすべったとか言い訳するでもありゃしない。と言うか、しずかな口調が逆に怖い。
「たとえ身内と言っても他所様の家に、御免下さいでもなく、いきなりズカズカ上がり込んできたかと思えば、力まかせに障子を開けて、そして怒鳴る」
そこまで言って、クルリとこちらに振り向いた。
「礼子はどういう育て方をしてきたのかしら。子供の頃はお転婆であってもいいけれど、年頃になったら慎みや礼儀を身につけないと最終的には本人が困ることになってしまうわ。羞じらいの欠けたおんななど、雌であっても大和撫子ではない。幾つになってもがさつなだけなら、ここは親に代わってわたしが躾をしなければいけないかしらねえ」
困ったこと……。
いかにも、そんな素振りで台所を後に、座敷の方へあがってきた。
礼子というのはうちのお袋の名。
そして、婆ちゃんの娘の名前だ。
鴨居の上に掛けてある薙刀――婆ちゃんの身長では届かないはずの高さにあるそれが、何の魔法か、気付けば皺がちな小さな両手にしっかと握られ、あまつさえ鋒がピタリとこちらに向けられている。
広いと言っても屋内だ。
横方向はともかく天井までの高さとか、長柄の武器をふりまわすのには制約がある。
突きや薙ぎについては要警戒だけど、リーチを活かした攻撃なんてそうは出来ない。
……筈。
「い、いや、ゴメン、婆ちゃん……」
歳はとったが背筋はピンと伸びたまんまで矍鑠としてる。
穏やか、物静か――そういう感じだけれど雰囲気は夜叉。
男の年寄りを指して言う語に『好々爺』ってぇのがある。
ビジュアル的には、白髭を蓄え、ニコニコと穏やかに微笑む、優しそうなお爺さん。
個人的には、昔、テレビドラマの水戸黄門で黄門さまをやってた東野英治郎さんか。
でも、好々爺に対する『好々婆』って言葉は無い。
以前、なんかの折りにそんなはなしが出た時に、いっしょに駄弁ってた友だちはみんな、『言われてみればそうだよねぇ、なんでだろう?』だなんて首をかしげてた。
でも、きっと、今のこの場面を見たらわかると思う。
今のこの世じゃすっかり死語――昔風な言葉になってしまった『家長』って言葉。
言うなら一家の大黒柱とか、とにかく、その家庭、家族の右代表で責任者。
シンママとかもいるから時世にズレてるかもだけど、とにかく、そうした立場、役割を担うのは大体がおとこと相場が決まってた。
で、
これまた、非正規雇用の働き手が四割を占める昨今の雇用状況とは違っているけど会社勤めをしているサラリーマンとも相似てる。
つまり、この立場であり役割からは引退できる。
子供が育って大人になったら代替わりするし、ずっと勤めてたって定年になれば退職する。
責任を負うことからは逃れられるんだ。
でも、いわゆる『おんなの仕事』と見なされていた(今も見なされている?)おさんどん――炊事洗濯買い物掃除に終わりは無い。
ヘタすりゃ(?)一生、無期限にこなしつづける事が要求される、それが『おんなの仕事』
だから、年を取って重荷をおろし、『ほ……っ』と肩からちからを抜いて一息つけるおとこと異なり、生涯現役なことを強いられるおんなはずっと気を張ってかなきゃならない。
つまりはそれが『好々爺』という語はあっても『好々婆』は無い理由なんだろうなと、そう思う。
要するに、
「晶!」
その結果がコレ。
「は、はいぃッ!」
凜とした……、鞭打つ響きで名前を呼ばれて背筋が伸びる。
蛇に睨まれた蛙よろしく身体が強張り、全身硬直。
目の前に突きつけられた薙刀の鋒から目をはなす事ができずに冷たい汗が背筋をつたってダラダラ流れる。
「正座!」
重ねて言われて、何を考えるより早く、その場にストンと正座した。
ああ、これから説教だ。
せめても折檻じゃなければいい。
一体どうしてこうなった……。
絶望が重たく視界をふさぐ中、御先祖様は名主か武家か代官かという山神の家で、年老いてなお武芸百般衰えを知らぬ婆ちゃんからのお沙汰を待った。
オレの名前は、吉良晶。
通ってる大学のレポートを徹夜して上げ、一寝入りした矢先に弟からのご注進を受けて、オレの未来の旦那様――久留間鴎外おじ様におんながたかっていることを知り、情報を得るべくクルマを飛ばしてここまで来た。
親戚と言っても礼を欠き、年頃の娘らしからぬ態度だったというのは確かにそう。
だけど、それもすべては恋する乙女の暴挙ということで、サラッと水に流してくれてもよくはないかな、ねぇ、婆ちゃん?




