第七十七話 「もう少し待ってくれ」
「ただいま」
「ただいまでっ!」
「ハニー! おかえりなさい! 待ってましたヨー!」
玄関の扉を開けるとアメがアメフトの選手のようなタックルを海原にかました。
急な衝撃に耐えられず海原は尻もちをつきアメに組み敷かれてしまった。
「ちょ! 離れてください! 先輩!」
「いい匂い、いい硬さ、半日我慢した分味わいマス!」
アメは海原の胸に顔を埋めると頬ずりしたり全力で深呼吸してみたりと海原を堪能していた。
「はぁ~! 最高デス!」
「この顔だけなら薬物使用を疑われても仕方ない」
顔は完全にとろけきり目の焦点は完全に行方不明。頬を赤くし呼吸が少し荒い。
顔をくっつけたブラウスからはキラリと光る糸も引かれていた。
「鈴音さん。お疲れ様です」
「ほんとうにさ......人生で一番疲れたかもしれない」
リビングに目を向ければソファに力なく横になった鈴音さんの姿が。
この幼女スキーが学校がある昼間、誰の静止もなく大人しくしているのは生まれたての赤ん坊に泣くなというくらい無理な話。
その静止役を鈴音さんに頼んだのだ。
現代社会という激戦区を最前線で戦ってきたキャリアを持つ鈴音さんですら全体力を消費してしまったようだ。
鈴音さんが幼女体型であればここまで大変ではなかったかもしれないが、それはないものねだりというやつか。
「この首の匂いが一番......ん?」
俺のスマホが一一〇番を表示した瞬間にアメの動きが止まった。
海原の口元をスンスンと鼻を鳴らした。
「甘い! 匂いがしまマス!」
おそらくクレープの匂いだろう。
俺も食べたがかなり甘かったからな。あのホイップクリーム。
「ハニーが食べてるということは!」
海原にへばりついていたアメはどこに隠していたのかと疑うほどの瞬発力で俺に飛びついてきた。
「やっぱり龍からもホイップクリームの匂いがしマス!」
「帰りにクレープ屋があったから寄って帰っただけだろうが。小畑先生に仕事を押し付けられて遅くなったから」
「ほうほう。それで半分こでもしたのかね」
さっきまでMP不足でへばっていた鈴音さんが俺の肩に腕を置いた。
回復封じしておくべきだったか。回復封じ、またの名をトドメ。
「それが? 夕飯前に一人一つ食べるのはおかしいでしょう? なにより作ってくれる人に対して失礼だ」
「そうやって龍輝くんが理屈こねる時ってなにか隠したいことがある時だよね?」
「いや本当になにもないですって」
だが鈴音さんの追撃は止まらない。
「彼女さんの方はなにかあったと言わんばかりの赤面ですが......いい加減罪を認めたらどうですか。かつ丼だけじゃ飽きるだろ」
「信じてください。なにもしてないんですって」
ソファに座らされ横には生足を組んだ鈴音さんが座った。
「半分こして間接キッスをしたんだろう? 彼女の可愛い口に触れた場所に君の口が触れたわけだ。彼女の唾液がついた場所にかぶりついたわけだ。それで無反応っていうのはどうかと思うよ」
無反応で済むわけがない。いやポーカーフェイスは大得意だからあからさまに照れたりはしなかった。
そもそも、雅樹が口にクリームつけながら「間接キスじゃん!」なんて言わなければ俺も海原も考えなかったことだ。
そして鈴音さんからトドメが入った。
「海原海老名のファーストキスを奪ったんだ」
今までチクチク程度だった鈴音さんの言葉がグサリという音に変わった。
いやでも俺がしたのは間接であり直接ではない。
「必死に逃げ道を探しているね? おねーさんには分かるよぉ。だけどね? いつから間接キスならセーフと錯覚していた?」
「なん......だと......」
「キスはキスだよ」
それを言われたらなにも言い返せない。逃げ道が一気に塞がった気がする。
ただクレープを後輩と半分にして食べただけなのにこんなにも罪悪感が生まれるのか。
「わたしはあんなのキスとは認めません!」
今まで赤面していた海原が突如として立ち上がった。
「キスというのは愛し合う二人がしっとりとするものでその場でパッとやっていいのは一夜限りの関係のみ......いや乙女の唇は愛してもいない男に差し出していいものではないんです! 愛があって初めて奪うことが許されるのです!」
愛教か。ここまで来ると宗教じゃなくて宗狂になってくるんだよな。
教えるのではなく狂わせる。
「つまり先輩はわたしの唇をいつ奪っても許される権利があります! さぁ!」
腕を広げ目を瞑った海原。
準備は万端と言わんばかりに不動。
「さ、処刑の時間だ」
鈴音さんの腕から開放され、海原の前という処刑台に立たされた。
逃げ道は大量にある。後ろを向いて全力疾走して部屋に籠ればなんとかなる。だが愛狂は薄い扉なんてぶち破ってくるだろう。
キスがしたくないわけじゃない。ただ気持ちも伝えないままというのは俺が嫌だ。
ふわりと香る硬い男用シャンプーの匂いとその硬さに反するサラサラの髪。
体躯は華奢なのにしっかりと柔らかさがある。
俺の肩に海原の口が当たる。少しずらせばキスは出来るんだが......。
俺は言った。
「もう少し待ってくれ」
たったそれだけ。
そう言って俺は部屋に籠った。理由は死にたくなったから。
鈴音さんの前であんなこと言ったんだ。次目を合わせた時にぶん殴りそうだ。




