脳と資本主義とアートについての一考察
<大学で学ぶ意味について>
リベラルアーツが「一般教養」と訳されたのは、やはり誤りではないかと思われます。大学進学の目的が「学業を修めること」から「就職活動のための大卒資格の取得手段」へと変容して久しく、大学は企業の求める「即戦力」を養成するために、カリキュラムの専門性を深める一方で、より総合的な視座を涵養するための「猶予」を削り込みました。
「一般」と呼ばれるものがとかく軽視されがちな国民性ですが、ここを取りこぼしたことにより、自己の生きる意味や存在する理由について思索する暇もないままに社会へ送り出され、資本主義の概念や仕掛けだけが独り歩きしてしまう哀しさは、明治期の近代化に際し、同じ大陸性島嶼国家である英国から議会と海軍の、後発国独逸から帝国と陸軍の、「作り方」だけを教わり、トップダウンで強制上書きした挙句、周辺国家を巻き込む戦禍に至った熱狂的で空虚な時勢に似ているのかもしれません。当時の軍事的・地政的な敗戦が、バブル崩壊を起点とする経済・科学技術的な敗戦として繰り返される有様は、四季と和暦と天災で刻まれるこの国のリズムを忘れた、いわばツケのようなものかもしれません。
青年期における4年間をどのように過ごすのかは、その後の人生に多くの影響を与える要素と思われますが、その4年目はともすれば就職活動に費やされ、3年目はその準備期間となり、実質的には最初の2年間が、大学生として学業を修めるために使える期間となりますが、ここで専門性を追求してしまうと「同世代の専門学校生より2年遅く社会に出る後進組」となってしまいます。それでもなお「初任給と生涯賃金では大卒が有利」という不文律があるが故、例え学びたいことがなくても「とりあえず」大学に行こうとします。
この課題の根幹は、義務教育において学ぶことの意義やゴールが、高校・大学への進学に設定されている現状に繋がっているものと思われます。これは主として保護者側の価値観や成功体験に基づくものであり、義務教育の教育現場が必ずしも旧態依然としているわけではないことは注目に値します。
タブレット端末を駆使した児童によるプレゼンテーションや、Web検索から得られる大量の情報をめぐるグループディスカッションなど、知識の活用方法を知恵として習得する小学校の取り組みは、けっこう先進的ではないかと思います。ただ、この時節の子供たちの目の輝きを、中学、高校へと進学していく過程で失わせないように手当することが、如何に難しい課題であるのか。この一点に尽きるのではないかと思う次第です。
大学で何をするのか、は、何のために学ぶのか、に繋がり、それはそのまま、何のために生きるのか、に辿り着きます。それを見出すためには幼少期より数多くの実体験と思索を積み重ねることが大事ですし、自らの手と体を使って作品を作ったり、見たこともない作品に直に触れる機会と時間の確保も必要となります。共働き世帯が過半数を超え、子供たちと親との時間が減少した今だからこそ、自転車で行ける範囲=子供のテリトリー、に多くのひっかかりを作ることが重要になってきます。日常生活や地域社会の中に遊びや隙間や猶予を作ったり、町会や自治会といった地場のコミュニティの復権もあるいは必要なのかもしれません。
学校でも家庭でもない居場所。違う世代や様々な大人たちとの接点。個人商店でお互いの顔を見て買い物をしたり、工事現場に仮囲いがなく職人さんや重機が全部見えていたり、町工場から騒音や粉塵が漂ったり、畑や水田で作物が育つ様子を目にしたり、地元のお祭りや運動会に赤ちゃんからお年寄りまで大勢が詰めかけたり。
果てなき効率化や都市化、少子高齢化の流れと、そのまさにどん詰まりに起きたコロナ禍で、多くの無名のショーケースが消失しました。かつては豊富にあった街角の景色が戻らない限り、次の世代の原風景は手触りのないスマホ越しの動画ばかりということになります。資本主義からはみ出した領域をどうやって維持し、地域社会に居場所と活力と福祉と多様性を確保していくのか? それはそのまま資本主義国家のサステナビリティに直結する課題なのかもしれません。
<日常生活と認知範囲>
仕事に家事に育児にと、隙のない毎日を送っていますと、日常生活が如何に奇跡的なものなのかをついつい見過ごしてしまいます。この十数年で都市の街並みは一変しました。生産や物流の進化・効率化はとどまるところを知らず、それを支える社会インフラの中核は、メインフレームを基軸とする先進的ハードウェアベンダーから、クラウドサービスを提供する超国家的プラットフォーマーへと急速に移行しました。医療技術の進化は救命率と平均寿命を押し上げ、通信技術の発達は掌サイズのデバイスと世界を繋げるまでに至りました。かつては夢物語であったAIは、すでに身の回りにまで浸透し始めています。にもかかわらず、「日常生活」があまり変わり映えしないような気がするのはなぜでしょうか?
かつて、向こう三軒両隣や村落など、狭いエリアの中で起きている事象が世界の全てだった時代がありました。共同体の大きさや移動可能な範囲もせいぜい里で数えられる代物で、直接見ることのできる現実と知人からの伝聞により、ヒトの世界観の大半は構築されていたのだと思います。識字率が上がり通信手段が進化し間接的に接触できる情報がとてつもない物量となった現在では、向こう三軒両隣が何をしているのかいちいち詮索しませんし、ご町内で起きていることなど知ろうともしません。ヒトの認知範囲の容積はおそらく一定であり、その形状が球からドーナッツ状へと変化したのだと思います。
認知範囲の外縁は大方マスコミやSNSで形成され、世論や常識といった実態のないものが醸成され、それを冷笑的に眺めるのが国民の常になりつつありますが、そのこと自体、自らが当事者たる社会への責任転嫁と放棄の始まりで、どこまでいっても他人事としか捉えられない現今の情勢は、ヒトの認知システムが拡大と希釈を繰りかえした、その所産でしかないのだと思います。私たちは自分で選んだ為政者と、納めた税で雇用している官僚を信用せず、ともすれば顧みることすら放棄しがちですが、実は全てが地続きで、関係ないことなど一つも無いはずです。少なくとも私は小学校の授業でそう教わりました。
画面の向こう側の情報が多過ぎて、手の届く範囲の出来事を掴み損ねているのではないでしょうか? また、幼少期からこうした環境に置かれた世代は、もしかすると「掴み方」自体を獲得できず、自分が社会に対して何かできる、という発想も持てず、激変する世界情勢をただ傍観するしかなくなってしまうのではと危惧する次第です。
<脳のお仕事>
ヒトの脳は、約1000億個ある神経細胞=ニューロンと、その活動を支え、修復・再編までも司るグリア細胞(総数1兆個以上)などの集合体です。スーパーコンピュータ「京」が全力(82944個のCPUと1.4PBのメモリー、12.7MWの電力)を投入してもようやくその1%程度(ニューロンに置き換えると17億3000万個分)のシミュレートしかできない上、生物学的には1秒で終わる処理に40分かかるそうです。
日常生活を送る上で、こんなに凄まじいアイテムを持っている実感が全くもって沸かないのは、「意識」という体験が非常に脆弱かつ不完全なものであることの証左と言えるでしょう。現実世界と脳の間に漂うように存在するヒトの意識は、おそらく双方の観察者として機能し、互いにインターフェースする結節点のようなものと考えられます。ヒトが脳と現実を繋ぐために使っているツールが意識なのではないでしょうか。
脳は3ペタバイト相当の記憶容量を持つといわれ、1日の消費カロリーの約20%を貪り、そのうえで走るあやふやな「意識」を通してのみアクセスできる極めて高度な臓器ですが、他の臓器が栄養を摂取し排泄するのと同様に、脳も常に大量の「食べ物(情報)」を欲していて、5億画素相当の眼や、13ナノメートル程度の凹凸を判別できる触覚、1兆種類を嗅ぎ分けられる嗅覚や、音のみならず重力や加速度まで感知できる耳などから流れ込む大量の情報を超並列リアルタイム処理するだけでは飽き足らず、現実世界そのものを観察し、咀嚼し、消化し、最後には「排泄」することを試みます。
初等教育に「おんがく」や「ずこう」があるのは、まだ幼い意識と不慣れな体を使って自分の脳の表現欲求を満たす練習とも言えます。上手い下手は関係なく、取り込んだ情報をどうやってアウトプットしていくのかを、他の「ともだち」と共に実体験を通して獲得する機会として機能しています。このある意味贅沢な時間が、中学以降の授業において手技や演奏術の向上へと収斂していく様は、実は勿体ないことなのかもしれません。ゲームやスマホなど、常に空腹な脳を満たすアイテムは数多ある一方で、出力する機会が極端に少なくなるのは、やはりバランスに欠いた状況と言えるのではないでしょうか?
<脳の仕業>
脳の入出力に秀でた者は、いずれ社会や時代全体の雰囲気を取り込み、表現することになります。文章であったり絵画であったり音楽であった芝居であったり、はたまた誰も思いつかなかった理論や法則であったり。その手段や方法はさまざまですが、そうやってこの世界を観測し、表現した結果の積み重ねが、現代社会を構成しています。
ときには、時代を遥かに先取りした表現が生み出されることもあります。リヒャルト・ワーグナーの楽譜と構想の完全な再現には、後世の演出技術の発達を待たねばなりませんでした。フィンセント・ファン・ゴッホの絵画は、生前一枚しか売れませんでした。H.G.ウェルズの「A Dream of Armageddon」は、ライト兄弟が空を飛ぶ2年前、アドルフ・ヒトラーが中等学校を留年し、ベニート・ムッソリーニが師範学校を卒業したばかりの1901年に、空中を飛翔する戦艦や、大衆の圧倒的な支持を得た全体主義国家の様子を描いています。
これは脳の持つ凄まじいまでの演算能力が、想像力と結び付くことで、「当然の帰結」に辿り着いた結果ということになるのかもしれません。モデスト・ムソルグスキーが「ボリス・ゴドゥノフ」を書きあげたのち酒浸りの奈落へ落ちていったのも、国民楽派の誰よりもロシアを愛していた氏が、この作曲の先に、帝政ロシアの行く末をはっきりと見てしまったからではないでしょうか?
後世に残る作品の多くが持つ「普遍性」は、案外当世の雰囲気や人々の無意識の連なりが一つの人格を通じて析出され、歴史の流れの中で再確認された結果なのかもしれません。ヒトが普段、そんな脳の数%程度しか運用していないというのも、おそらくは数%程度の活動しか自覚できていない事の裏返しでしかなく、実際のところは寝ても覚めても凄まじく大量の情報を「勝手に」処理しているのだと思います。そうした動きをうっかり意識に俎上させてしまうと、まっとうな領域がその圧倒的な負荷に耐えかね、挙句、幻覚や幻聴としてタグ付けした結果、大まかには精神的障害として認知されてきたのではないかと思います。
しかしながら、そうしたノイズのような思索の嵐のなかには、ほんの一握の真理が紛れ込んでいるようで、後世に名を残すような人物の大半は、それを掴んだ瞬間のエピソードも残しています。アルキメデスの「Eureka!」 アインシュタインの見た相対性理論の端緒となる夢 エジソンの「1%のひらめき」いずれもおそらくは「脳の仕業」と思われます。そしてヒトの脳が本来持つ旺盛な食欲=好奇心を、素直にストレスなく運用する能力に長けていた彼らは、それを基に後の世を形作る極めて独創的かつ普遍的な理論を構築していったのだと思います。
こうしたブレイクスルーの元となるのはやはり「表現」であり、論理的な思考の蓄積だけでは到達し得ない最後の一手は「脳の解放」であり、「アート」そのものなのではないでしょうか。




