第04話 選ぶということ
朝の森は、静かすぎた。
鳥は鳴いている。風も、葉を揺らしている。
それなのに――どこか、世界が息を潜めているようだった。
湿った土の匂いが、肺の奥に沈んでいく。
冷えた空気が、肌にまとわりつく。
生きているはずの場所なのに、どこか“死”に近い。
そんな感覚だった。
⸻
「……まだ、下がらないか」
少女の額に触れる。
指先に伝わる熱は、昨夜よりは穏やかだ。
だが、安心できるほどではない。
呼吸は浅い。
細い胸が、かすかに上下している。
それを見て――
ようやく、自分も息をしていたことに気づく。
(……生きてる)
確認するように、もう一度だけ触れる。
温もりは、確かにそこにあった。
それだけで、いいと思った。
それだけで――十分だった。
⸻
ふと、手を見る。
乾いた血が、皮膚に張り付いている。
指の関節が、少しだけ痛む。
昨夜、どれだけ動いたのか。
どれだけ、必死だったのか。
今さらになって、体が思い出してくる。
(変わらないな…)
喉の奥で、かすかな笑いが漏れる。
場所が変わっても。
世界が変わっても。
やっていることは、同じだ。
誰かのそばにいて。
呼吸を数えて。
生きているかどうかを、確かめ続ける。
――それしか、できない。
「それ、本当に“それしか”ないの?」
声がした。
振り向くより先に、分かっていた。
あの少年だ。
木の幹にもたれ、こちらを見ている。
朝の光が差しているのに、その輪郭だけが妙に曖昧だった。
現実にいるのか、いないのか。
判断がつかない。
「……またお前か」
「“また”って言うほど、会ってないけどね」
軽い調子で言う。
だが、その目だけは笑っていなかった。
「何しに来た」
「別に」
少し考えるように間を置いてから、
「見てるだけ」
と、言った。
「……何を」
少年は、ゆっくりと少女へ視線を落とす。
「君が、“どこまでやるか”を」
言葉は静かだった。
だが、妙に重かった。
「助けるの?」
続けて問われる。
「……当たり前だろ」
即答だった。考える余地なんて、ない。
だが少年は、首を傾げる。
「“当たり前”って、どこまで?」
言葉が、止まる。
「命を繋ぐところまで?」
「治るまで?」
「それとも――死ぬまで?」
一つ一つが、重く落ちてくる。
「助けるってさ、便利な言葉だよね」
少年は、どこか他人事のように言う。
「でも実際は、“関わる”ってことだ」
「関わるってことは… 背負うってことだよ」
風が吹いた。
葉が擦れ合う音が、やけに大きく聞こえる。
胸の奥に、何かが引っかかった。
(……背負う、か)
思い出す。
父の体重。
夜中の呼び声。
終わりの見えない時間。
あれは、“助けていた”のか。
それとも――
「それでも?」
少年が、静かに問う。
逃げ道を、塞ぐように。
視線を、少女に戻す。
小さな手。かすかな呼吸。頼りないほどの命。
放っておけば、どうなるかは分かっている。
――見なかったことにするのは、簡単だ。
だが。
「……それでもだ」
声は、思ったよりも低く出た。
迷いは、なかった。
少年は、少しだけ目を細めた。
「そっか」
それだけ言って、空を見上げる。
「じゃあ、始まるね」
「……何がだよ」
答えは、返ってこなかった。
代わりに。空気が、変わった。
温度が、わずかに下がる。
音が、遠のく。そして⸻
ガサッと、背後の茂みが、揺れた。
ゆっくりと、振り向く。
そこにいたのは灰色の獣だった。
低く構え、こちらを見据えている。
唸り声が、地面を震わせるように響く。
逃げるか。
無理だ。
選択肢は、最初から一つしかない。
少女の前に、立つ。膝が震えている。
心臓が、痛いほどに脈打つ。
それでも。
一歩、踏み出した。
「……来いよ」
声が、空気に溶ける。その瞬間。
視界に、文字が浮かんだ。
⸻
【対象認識】
【保護対象:確定】
【職業進化】
介護者 → 守護者
⸻
「……ああ」
理解する。
これは、戦うための力じゃない。守るための力だ。
「それでいい」
獣が、地面を蹴った。土が弾ける。
距離が、一瞬で詰まる。俺は、動かない。
ただ、前に立つ。
「……絶対に、通さない」
その言葉だけが、やけに鮮明だった。
遠くで。
少年が、わずかに笑った気がした。




