第14話 芽吹く希望と、刻まれた影
激闘の熱が、冷え切った大地に吸い込まれていく。
灰色の魔獣を看取り、その亡骸を弔った翌朝。俺は集落の中心で、大きく深呼吸をした。
「……身体が、軽い」
Lv:8。
以前の俺なら、一歩歩くごとに節々が悲鳴を上げていたはずだ。だが今は、細胞のひとつひとつが新しいエネルギーで満たされているような感覚がある。砕けたはずの肋骨も、内出血でどす黒く染まっていた脇腹も、驚くほどの速度で修復されていた。
だが、肉体の快調さとは裏腹に、精神の奥底には冷たい澱のようなものが沈んでいる。
目を閉じれば、あの魔獣の記憶が鮮明に蘇るのだ。
焼き払われる森。逃げ惑う小さな獣たち。そして、冷酷な笑みを浮かべ、銀色に輝く**「王国の紋章」**を翻す兵士たち。
あの光景は、もはや単なる「映像」ではない。俺の魂に刻み込まれた、消えない傷跡だった。
「ナリス様、おはようございます! 今日もバイタル、良好ですね!」
元気な声と共に、アンジーが駆け寄ってきた。
彼女の足取りは、昨日覚醒した影響か、以前よりもずっと力強い。銀髪をポニーテールにまとめ上げ、やる気に満ち溢れたその表情を見ていると、一瞬だけ心の澱が晴れる気がした。
「ああ、アンジー。……ゴブリンたちは?」
俺が問いかけると、彼女は誇らしげに集落の端を指差した。そこには、戻ってきた大人ゴブリンたちがいた。
昨日、俺たちをかばって戦った彼らは、もはや「逃げ出した臆病者」ではなかった。自分たちの子供を守れたという自負が、その卑屈だった背中を伸ばさせている。
「みんな、ナリス様の指示を待っています。……あ、いえ。『神様』の御託宣を、ですね」
アンジーが悪戯っぽく笑う。
俺は「何バカ言ってるんだ」と苦笑いしながら、スマホを取り出した。村を維持するには、何よりも「食」の安定が必要だ。前回の小規模な菜園では、戻ってきた大人たちを含めた全員の腹を満たすことはできない。
(やるなら、徹底的にだ)
ネットスーパーの画面を開く。
今回は「園芸」だけでなく、本格的な「農業資材」のカテゴリを深く掘り進めた。
高性能な堆肥。害虫を寄せ付けない忌避剤。そして、日本の農家が長年の品種改良で生み出した、驚異的な収穫量を誇る「魔法の種」たち。
ジャガイモの種芋、カボチャ、トウモロコシ。
さらには、ゴブリンたちの栄養失調を改善するための高栄養価なサプリメントや、彼らのボロボロな服に代わる丈夫な作業着(主にワークマン的な機能性の高いもの)まで、次々とカートに放り込んでいく。
■経験値を消費:8,000pt
■【Lv:8】→【Lv:6】
「……っ」
また、身体が重くなる。レベルの低下に伴う、特有の喪失感。
だが、今回は迷いはなかった。
虚空から吐き出された大量の資材と、山のような食料。
それを見たゴブリンたちが、一斉に地面に平伏した。
「ギギッ……! ギギィーッ!!」
感謝の叫びが村に響き渡る。
俺は彼らを立たせ、一人一人に「仕事」を割り振った。
力のある大人は開墾と耕作を。手の器用な者は、昨日壊れた住居の修補を。そして子供たちは、俺とアンジーの側で農業の基礎を学ぶ。
「いいか、種を蒔く前に、まずは土の『声』を聞くんだ。……いや、まずは石を取り除く。腰を入れろ、介護も農業も基本は重心の移動だ」
俺はかつて、介護で培った「身体の使い方」を彼らに叩き込んだ。
重い石を運ぶときは、腰を落として。
鍬を振るうときは、腕の力ではなく全身のバネを使って。
それは奇妙な光景だった。異世界の森の中で、スーツ姿の元ニートが、銀髪の聖女と数十匹のゴブリンに「効率的な労働」を教えているのだ。
だが、作業が進むにつれ、村には活気が満ちていった。
新しく耕された土の匂い。
一生懸命に鍬を振るうゴブリンたちの、心地よい汗の音。
アンジーが【聖域の共鳴】を応用し、作物に微かな成長の加護を与える。
種は瞬く間に芽吹き、土を割って緑の双葉が顔を出した。
「……すごいな。アンジーはこんなこともできるのか」
驚いた俺の隣で、アンジーが土で汚れた手も気にせず、芽吹いたばかりの苗を愛おしそうに見つめる。
その横顔を見て、俺は改めて【共感の記憶】の力を感じていた。
今の彼女から伝わってくるのは、澄み渡った空のような「純粋な喜び」。
昨日まで、絶望の淵にいた彼女の中に、こんなにも豊かな感情が眠っていたことに、俺は救われる思いだった。
作業が一段落し、夕暮れが訪れる。
新しく建て直された大きな焚き火の周りで、ゴブリンたちが仲良く配給されたパンとスープを囲んでいる。
子供たちは笑い、大人たちは明日の農作業について、拙い言葉で話し合っている。
そこには、確かな「村」の形があった。
だが、夜の闇が深まるにつれ、俺の胸の奥の影もまた、その濃度を増していく。
焚き火の爆ぜる音が、あの日の森が焼ける音に重なる。
ゴブリンたちの楽しげな笑い声が、兵士たちの無慈悲な勝鬨に聞こえてしまう。
俺は、少し離れた場所で星を見上げていたアンジーに、ゆっくりと歩み寄った。
彼女は俺の気配に気づくと、いつものように柔らかい微笑みを浮かべて振り返る。
「ナリス様? 素敵な夜ですね。明日はきっと、もっと沢山の芽が出るはずです」
「……ああ。そうだな」
俺は、一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
この平穏を壊したくない。彼女の笑顔を曇らせたくない。
だが、あの記憶を抱えたまま、笑い続けることはできなかった。
俺が看取った魔獣が見た、あの地獄。
それを引き起こした者たちが、今この瞬間も、どこかで剣を振るっているかもしれないのだ。
「……アンジー。一つ、聞きたいことがあるんだ」
俺の声が、いつもより低く、重く響いた。
アンジーの微笑みが、微かに揺れる。彼女の持つ鋭い感受性が、俺の異変を敏感に察知したのだろう。
「はい、何でしょうか? ナリス様のお聞きになりたいことなら、何でも……」
俺は、脳裏に焼き付いた「あの図案」を思い出し、努めて冷静に言葉を紡いだ。
「――『双頭の鷲と、盾を貫く白銀の剣』。この紋章に、心当たりはないか?」
その言葉を口にした瞬間。
アンジーの表情から、一切の温度が消えた。
彼女の大きな瞳が、信じられないものを見たかのように見開かれる。
掲げていたはずの希望の光が、その一瞬で、深い、底知れない恐怖の色に塗りつぶされていく。
「……っ!!」
彼女は息を呑み、力なく後ずさった。
その肩は、隠しようもないほど激しく震えている。
まるで、触れてはいけない禁忌に指をかけられたかのような……あるいは、ずっと隠し続けてきた汚れた傷跡を、いきなり白日の下に晒されたかのような、剥き出しの衝撃。
「アンジー?」
俺が呼びかけても、彼女は答えない。
ただ、真っ青になった唇を震わせ、自分の胸元をぎゅっと掻きむしるように押さえているだけだった。
「ナリス様……っ、な…なぜその紋章のことを…」
喘ぐような、掠れた声。
彼女の瞳から溢れ出したのは、先ほどまでの喜びの涙ではなく、絶望の色彩を帯びた、重い雫だった。
火の粉が夜空に舞い上がる。
その赤光に照らされたアンジーの顔は、あまりにも悲しく、そして――この平穏な村が、砂上の楼閣に過ぎないことを物語っていた。
俺たちの間に、重く冷たい沈黙が降り積もる。
森の奥から、不吉な風が吹き抜けていった。




