最終話 次の月曜日は、自分で選ぶ
「私ね。あのとき、うまく描けたと思ったの」
私は絵のママを指さした。
「ママ、こっち向いてなかったけど。はるくんのこと見てて、それも描きたかったの」
「うん」
「はるくん、ミルク飲んでて。二人ともそこにいるから、上手に描けたからすぐ、見せたくて」
話し始めると、ママの顔が見ていられなくなった。
代わりに絵の黄色いところを見つめた。
「あとでじゃなくて、そのときがよかったの」
ママは、わたしの背に手をおいて、黙って撫でてくれている。
「でも、ママが怒ったから、びっくりして。何も悪いことしてないと思ったのに、強く言われて怒られたっておもって」
鼻の奥がつんとした。
私は一度、口を閉じた。
「……それで、嫌いって言った。言っちゃったの」
言えた。
あの日から、ずっと出せなかった言葉の続きを。
「ごめんね。ほんとは、大好きなのに」
涙が落ちそうになって、私は顔を上げた。
ママの目にも、涙が浮かんでいた。それでも、まっすぐ私を見ていた。
「うん」
ママの手が、私の手に触れた。
「話してくれて、ありがとう」
私は首を振った。
「ううん。五年も、言えなかった」
「今日、言ってくれたよ」
それを聞いたら、涙がどんどん出てきた。
ぽたぽたっと落ちて、絵に付きそうになった。慌てて腕で拭くと、ママがティッシュを渡してくれた。
「私だけ、謝ってなかったから。ママは、ごめんねって言ってくれたのに」
「ずっと、気にしてたんだね」
「毎日じゃないよ。でも、時々。ママが優しくしてくれると、思い出しちゃって」
ママは私の手を、もう一度握った。
「ママは、あのあと抱きついてくれたから、仲直りできたと思ってた。ななちゃんの中には、残ってたんだね」
「うん」
「強く言って、ごめんね。見せたい気持ちを、もっと聞けばよかった」
私は、ママの手を見た。
昨日のママも、その前の世界のママも、いつも優しくて、だいすきなママだった。
でも、今、握ってくれているのは、私とあの日を過ごしたママだ。
「私も、待てばよかった」
言うと、ママは少し考えてから答えた。
「待ってもらわなきゃいけないときは、あったよ。でも、早く見てほしいって思ったのは、悪いことじゃないよ」
私は顔を上げた。
「はるくんのせいって、思ったこともあった」
言った途端、リビングの端が気になった。
はるくんは積み木の屋根を載せている。集中しているのか、こちらは気にしてない。
「ママが来ないの、はるくんがいるからだって。でも、今は、そんなふうに……」
今だって、待つのが寂しいことはある。
なくなったことにしたら、また違う。
「今も、ちょっと寂しいときはある。でも、はるくんのこと、大好きだよ」
ママはうなずいた。
「うん。大好きなのも、ななちゃんが可愛がってくれているのも、見ていてよく分かるよ」
私は、はるくんを見た。
屋根が傾いて、はるくんが慌てて押さえている。
五歳。
あのころの私と、同じ。
今すぐ来てって言ったり、待てなかったり、怒ったりする。
でも、それだけが、はるくんじゃない。
私も、そうだったのかな。
あの一言だけが、五歳の私じゃなかったのかな。
私はママの肩へ、少しだけ寄りかかった。
「ねえ、ママ。ぎゅうってしてくれる?」
「いいよ」
ママの手が、背中に回った。
わたしも、ママに抱きつく。大好きなママの匂いに包まれた。
*
「ママ。ななちゃん。見て」
はるくんの声で、私は顔を上げた。
積み木の家ができていた。赤い屋根が、さっきよりまっすぐになっている。
「できたの?」
「うん。ここ、いりぐち」
ママと私が床に座ると、
はるくんが積み木を一つずつ指さして、説明してくれる。
「ここ、ななちゃんのへや」
「私のもあるの?」
「あるよ。ここ、ピアノ」
四角い積み木が、一つ置いてある。
私は指で、そっと触った。
「ちっちゃいね」
「おっきいと、はいらないから」
3人で笑い合った。
テーブルの上には、昔の絵がある。
その横には、半分に折った紙。
私は立ち上がって、紙を開いた。
ママへ。
あのとき、ママを泣かせたのは私です。
その下に、まだたくさん、白いところが残っている。
私は消しゴムと鉛筆を取りに行った。
ごめんねは、今、言えた。
だから、別のことを書こう。
書きかけの文字を消しゴムで消した。
『ママへ。今日、話を聞いてくれてありがとう。』
ママに渡すと、ママは読んで、私を見た。
「これも、取っておいていい?」
「……うん」
「絵と一緒に」
私は絵の折り目を見た。
でも、無理にまっすぐにしなくてもいいかも。
私が、わたしだった、証だから。
*
夜、自分の部屋へ戻ると、チリン、と音がした。
私はドアを閉めて、振り返った。
机の端に、ころちゃんが座っていた。
辺りが少しだけにじみ、廊下の音が遠くなる。
でも、ママとはるくんの声は、まだ聞こえていた。
「ころちゃん。今日は火曜日だよ」
『知ってるよ』
「帰る時間じゃないよね。もう、帰ってるもんね」
『うん。今日はお話』
私は机のそばへ行った。
「ママに、言えたよ」
『うん』
「嫌いって言ってごめんねって。それから、絵を見てほしかったって」
ころちゃんの金色の瞳の奥で、七色の光がちらっと揺れた。
「私、ママの涙しか見てなかった。何を話してたか、聞かなかったのに」
机に手を置いた。
絵は今、ママが持っている。あの手紙と一緒に。
「だから、あの日、違うことを言った私になればいいんだって、思ってた」
『今は?』
私は、赤い屋根の家に目をむけ、
ぶらんこのひもを、かえちゃんに押さえてもらったことを思い出した。
「……なりたいなって、また思うことはあるかもしれない。ピアノ、すらすら弾けたらいいなとか」
ころちゃんの尻尾が、ゆっくり動いた。
「でも、今日ママと話したのは、私だから」
私はころちゃんを見た。
「あの日、嫌いって言ったのも。今日、ごめんねって言ったのも。両方、私なんだね」
ころちゃんが、目を細くした。
「違う私にならなくても、今日、言えたよ」
声にしたら、やっと自分でも分かった気がした。
あの日から、ここまで来た私。
うまく言えなかった日も、誰かと笑った日もあった。
どれか一つを、なかったことにしなくても。
「これからも、言えなくなったら、どうしよう」
つい、聞いてしまった。
ころちゃんは私の手元をみた。
『ななみちゃん、今日はどうした?』
「……帰ってから話したいって、ママに言った」
『うん』
「じゃあ、また、そこからでいいのかな」
ころちゃんは、私の手に頭をすり寄せた。
私は、白い毛をふわりとやさしく撫でた。
『よく、がんばったね』
その声が聞こえたとき、手の下が、ほわっと明るくなった。
「え?」
尻尾の先だけじゃない。
背中も、耳も、前足も。
白い体の中を、七色の光がゆっくり流れている。
「ころちゃん?」
私は撫でていた手をぴたりと止めた。
ころちゃんは、満足そうに微笑んでいた。
『ななみちゃん』
体の端から、小さな光がほどけた。
一粒、もう一粒。
光の粒が空中にふよふよと浮かんでいる。
ころちゃんの姿が、どんどんちいさく、なっていく。
「ねえ!まって。ころちゃん、ちいさくなってるよ!どうしたの?」
小さくなったころちゃんを、手のひらにのせるように、手を差し出す。
光はどんどんつよくなって、ころちゃんは親指くらいの大きさになった。
『戻るんだよ』
「戻る?」
七色の光に包まれたころちゃんが、胸のあたりに触れた。
あたたかい。ころちゃんを撫でた時に感じる、温かさと同じみたい。
すうっと、服の内側よりも、もっと奥へ入っていく。
『わたしは、ななみちゃんの心から生まれたんだよ』
声が、すぐそばで聞こえた。
もう、ころちゃんの姿は見えない。
言わなければよかったって、思っていたこと。
誰にも言えず、胸に置いたままだったこと。
そこから、ころちゃんが来たんだ。
私の後悔を知っていたのは、”わたしのこころ”だから。
「こころ……」
両手を七色に光る、胸に当てた。
「ころちゃん」
ぐるぐる、と、あの小さな音が聞こえた気がした。
名前を呼んだとき、うれしそうに鳴らしてくれた音。
最後の光の粒が、私の手の下へと、消えていった。
『ななみちゃん。いつも、そばにいるよ』
机の上には、もう誰もいない。
部屋が、いつもの景色に戻っている。にじんでいない。
廊下では、はるくんがママに絵本を読んでと頼んでいた。
私は胸に手を置いたまま、ゆっくり息を吸った。
いなくなった。
でも、なくなったんじゃない。
「……大丈夫」
胸のあたりが、温かい。
ころちゃんはここにいる。
「私の心だもん」
涙はでなかった。お話しできないのは、さみしいけれど。
「ころちゃん、ありがとう。大好き。」
過去には、選ばなかった道がいくつもある。
ころちゃんが連れていってくれた、旅でそれを見つけた。
ちがう私にならなくてもいい。私は、ここまで来たわたしでいい。これから選ぶものを、大事にしていけばいいんだ。
*
次の月曜日、目覚まし時計の音で目を覚ます。
手を伸ばして止めてから、天井を見上げる。
そこに、七色の文字はない。
でも、何度か受け取った言葉は、覚えている。
机には貝殻と、赤い屋根の家がある。
庭には、かえちゃんと作った黄色とピンクの花が増えていた。
「ななちゃーん。朝だよ」
ママの声がした。
「起きてるー!」
朝の支度をして、玄関へ向かう。
かえちゃんと、学校へ行くんだ。
「おはよう、ななみ」
「おはよう!」
並んで歩き出すと、かえちゃんが、次の工作クラブの話をした。
「次、何作るんだろうね」
「ねえ、もし二人組だったら」
かえちゃんが私を見る。
「今度も、一緒にやりたい」
「うん。やろう」
約束できた。
材料を取りに行くのは、それからにしよう。
*
学校から帰ると、ピアノの前に座る。
はるくんが飛行機を持って、やってくる。
「ななちゃん、ひくの?」
「うん。少しだけ」
「ぼく、うたう?」
「まだ、歌に追いつけないと思う」
「じゃあ、ゆっくりにする」
はるくんが、ものすごくゆっくり口を開けた。
私は笑ってしまった。
「そこまで、ゆっくりじゃなくても大丈夫」
ママが台所から、こちらを見た。
私は左手を、鍵盤へ置いた。
「止まったら、ちょっと待っててね」
「いいよ」
はるくんが隣に座った。
私は最初の音を、右手で鳴らした。
ここまでご覧いただき、ありがとうございました。
不思議な猫ちゃんを描きたくて、
後悔をよくするわたしが、思い直すときに、どう考えるのかを描きたくて
思いつきの作品です。目に留めていただけた方へ、感謝を。




