第1話:筋肉は裏切らない
お試し投稿です。
「よし、仕上がりは完璧だな」
鏡の前でポーズを決めながら、中山力也はニヤリと笑った。
身長一七〇センチ。
体重八五キロ。
体脂肪率五パーセント。
鋼のように鍛え抜かれた肉体は、高校の指定制服を内側からはち切れんばかりに押し上げている。
特に胸板と上腕の筋肉は、特注サイズのシャツですら窮屈そうだった。
短く刈り込んだ髪と、太く整った眉毛が、彼の野性味をより一層引き立てている。
どこからどう見ても、スポーツ特待生。
それも、格闘技かラグビーの有望株にしか見えない。
(くくく……誰も俺が、全国模試で一桁の順位を取る頭脳の持ち主だとは思うまい)
力也の内心は、至極冷静であり、かつ悪戯心に満ちていた。
彼の学力は全国トップクラス。
しかし、この進学校にはあえてスポーツ推薦枠で入学した。
当然、入試のテスト内容は一般生とは異なり、どれだけ満点を取ろうが新入生代表の挨拶に選ばれることはない。
進学を機に地元を離れ、知人が一人もいないこの環境を利用し、力也は壮大な高校デビューを果たそうとしていた。
すなわち、極限まで知性を隠蔽した、愛すべき脳筋キャラを演じて周囲を振り回すことである。
「周囲を欺き、困惑させる……この知的な遊戯、たまらん」
ギュッと拳を握り込むと、前腕に太い血管が浮かび上がった。
握力八十キロの拳は、リンゴなど容易く粉砕できる。
準備は整った。
力也は意気揚々と、桜舞う入学式の舞台へと足を踏み出した。
日本有数の進学校、私立秀英学園の校門前。
満開の桜が舞い散る中、力也はただ黙って仁王立ちしていた。
両足を肩幅に開き、胸を張り、背筋を伸ばす。
ただそれだけの動作が、彼が行うと一種の威圧的なアートになっていた。
新入生を歓迎しようとビラ配りに来ていた上級生たちは、力也の圧倒的な質量と覇気を前に、モーゼの十戒のごとく自然と道を譲っていく。
「ち、ちわっす……」
「うっす、先輩……」
すれ違う上級生たちが、なぜか力也に向かって頭を下げていく。
誰も彼を今日入学する一年生だとは思っていないのだ。
力也は満足げに深く頷くと、鷹揚な態度で周囲の生徒に挨拶を返しながら校舎へと歩き出した。
「あのっ、すいません、先輩!」
背後から声をかけられ、力也は振り返った。
そこにいたのは、真新しい制服に着られているような、小柄でひ弱そうな新入生の男子だった。
名札には小鳥遊とある。
「すごい筋肉ですね!僕、ラグビー部に入ろうと思ってるんですけど、先輩はやっぱりラグビー部ですか?」
目をキラキラさせる小鳥遊に対し、力也は逞しい右腕をグッと持ち上げ、上腕二頭筋を誇示して見せた。
「ふむ、この上腕二頭筋のピークに目を付けるとは見所がある。だが残念ながら俺は柔道だ。どうだ、君も今日からダンベルと親友にならないか?筋肉は決して君を裏切らないぞ」
「だ、ダンベルですか?あはは、考えておきます。先輩、一年生の教室ってどっちか分かりますか?」
誤解を訂正することなく、力也は朗らかに笑った。
「ああ、案内してやろう。俺もそっちへ行くからな」
「ありがとうございます!やっぱりスポーツマンの先輩は優しいですね!」
歩きながらも、力也は密かに大胸筋をピクピクと動かすアイソメトリックス・トレーニングを欠かさない。
やがて、一年A組の教室の前に到着した。
「ここが一年生の教室だ。じゃあな、俺の席はあそこの一番後ろだから、また後でな」
「えっ?……ええっ!?」
颯爽と教室の中へ入っていく力也の背中を見て、今まで敬語を使っていた小鳥遊は、顎が外れそうなほど驚愕の表情を浮かべて固まった。
(くくく……まずは一人。良いリアクションだ。まさか同級生だとは夢にも思わなかっただろうな)
力也は内心で邪悪に微笑みながら、すでに賑わい始めている教室を見渡した。
彼は自分の席には向かわず、なぜか教壇の真横に陣取った。
そして、逞しい腕を胸の前で組み、目を瞑って静止した。
ざわざわとしていた教室が、異物の混入に気づいて徐々に静まり返っていく。
そんな中、一人の女子生徒が恐る恐る近づいてきた。
綺麗に切り揃えられた黒髪に、知的な銀縁眼鏡。
名札には鈴木とある。
いかにも真面目な委員長タイプだった。
「あの……そんな所で、何してるんですか……?」
力也はゆっくりと目を開いた。
「見れば分かるだろう。カーフレイズ……つまり、爪先立ちで下腿三頭筋、ふくらはぎを鍛えている」
「は、はあ……」
「ふくらはぎは第二の心臓と呼ばれる。筋肉の収縮によって血液を上半身へ送り返すポンプの役割を果たしているからだ。これから始まる入学式で立ちっぱなしでも、脳へ血流を送って貧血を防ぐ完璧なウォーミングアップだろう?君も興味があるのかい?」
鈴木の顔が引き攣った。
入学式のためにふくらはぎを鍛えているという行動は完全に狂っているが、ふくらはぎの運動が血流を促進し貧血を防ぐという生理学的なロジック自体は全く間違っていない。
狂気と正論のミルフィーユに脳の処理が追いつかなくなった鈴木は、引き攣った笑顔を残し、足早に自分の席へと逃げ帰っていった。
(あっはっは!バグってるバグってる!筋肉の話だと思ってドン引きした後、妙に理にかなった理屈を返されてフリーズしたな。こういう生真面目な優等生をからかうのが一番良いな)
やがて予鈴のチャイムが鳴り、教室の扉が開いた。
力也がすっと一番後ろの自分の席に座ると、周囲の数人の新入生から安堵の吐息が漏れた。
どうやら、教壇に立つだけで威圧されていたらしい。
代わりに入ってきた担任教師は、まだ二十代後半の若い男だった。
しかし、その腹は見事なまでにポッコリと前に突き出ている。
「えー、一年A組の担任になった太田です。担当教科は国語です。一年間よろしく」
温和そうで、どこか頼りない印象の太田先生。
彼から入学式の段取りについて一通りの説明があった後、何か質問はありますか、と問いかけられた。
すかさず、力也が真っ直ぐに手を挙げた。
「はい、中山くん」
「先生、一緒に筋トレしませんか?」
ブッ。
静寂に包まれていた教室のあちこちから、笑いを必死に耐えるような、あるいは吹き出すような音が響いた。
「えっ?いや、あの……入学式と関係ない質問はやめなさい」
「関係大アリです」
力也は食い下がった。
「入学式は一生に一度の晴れ舞台です。ならば、己の肉体を極限までパンプアップさせ、理想のバルクで挑みたいと思うのは当然の帰結ではありませんか?」
「そ、それは中山くん個人の問題で……」
「先生にとっては毎年のことかもしれませんが、俺たち生徒にとっては一度きりです。生徒の晴れ舞台に相応しい、威厳あるバルクを指導者にも要求します!」
言うが早いか、力也は自分の机に両手をつき、そのままフワリと体を持ち上げて開脚倒立の姿勢をとった。
そこからゆっくりと足を閉じ、なんと片手を離して真っ直ぐな片手倒立の状態で静止し、太田先生の目を真っ直ぐに見つめた。
制服の袖がめくれ上がり、彫刻のような上腕三頭筋が露わになる。
「さあ、先生もご一緒に!」
「いや、無理だから!言いたいことは分かったから席につきなさい!」
太田先生は完全に引き攣った顔で叫んだ。
「それと、先生は見ての通りだから、バルクは諦めてください……」
太田先生は、ワイシャツの上から自身のメタボ腹を持ち上げてタプタプと揺らし、自虐的にアピールした。
しかし、それは悪手だった。
力也の一理あるが前提がおかしい主張と圧倒的な身体能力に当てられていた女子生徒たちは、太田先生のだらしない腹を見て、まるで生ゴミでも見るかのような冷ややかな視線を一斉に送った。
鈴木などは、露骨に眉をひそめている。
太田先生は、女子からの無言の冷徹な視線に耐えきれず、涙目になってうつむいた。
(入学式でバルクとか初めて言われただろうな。にしても鈴木の視線がヤバいな。メタボに親でも殺されたのか?)
逆さまの視界の中で、力也は周囲を観察していた。
波乱のホームルームの後の入学式は、力也が暴れることもなく恙無く終了した。
下校時刻となり、力也は今日から一人暮らしをする学生寮へ向かった。
進学校の寮だけあって、環境は非常に静かだ。
夜、大浴場に向かっても、そこにいるのは黙々と体を洗うガリ勉風の生徒ばかり。
寮の風呂で互いのバルクを讃え合うような暑苦しいイベントもなく、進学校らしい穏やかな空間であった。
(ふっ……進学校のひ弱な連中め。誰も俺の筋肉を警戒して近寄ってこない、穏やかで平和な空間だ)
力也は一人、湯船の中で筋肉を揉みほぐしながら優越感に浸っていた。
彼は真性の筋肉バカではない。
筋肉を愛しているのは事実だが、それ以上に頭脳明晰な自分が、あえて筋肉バカを演じて周囲を騙しているという小悪魔的な状況に酔いしれているのだ。
翌日。
いよいよ本格的な授業が始まった。
力也のイタズラは、授業中こそ真骨頂を発揮する。
一限目、英語の授業。
教壇に立つベテランの女性教師が、名簿順に生徒を当てて長文の和訳をさせていた。
「では次、中山くん。その次の文章を訳してください」
順番が回り、力也はゆっくりと立ち上がった。
指定された英文は、Overcoming adversity is not merely about survival, but about transforming one's weaknesses into unyielding strengths.という、高校一年生には少し難易度の高い構文だった。
当然、全国模試一桁の力也にとって、こんなものは児戯に等しい。
頭の中では、逆境を克服することは、単に生き残ることではなく、己の弱さを揺るぎない強さへと変えることである、という完璧な直訳が一瞬で完成していた。
だが、それをそのまま答えるような無粋な真似はしない。
力也はわざとらしく眉間に皺を寄せ、さも筋肉のことしか考えていないような野性的な表情を作った。
「筋断裂という破壊を乗り越えることは、ただ現状を維持するにあらず。超回復によって弱き筋繊維を鋼のバルクへと昇華させることである、です」
教室中が静まり返った。
小鳥遊や鈴木をはじめ、クラスメイトたちは完全にフリーズしている。
女性教師もまた、持っていた教科書を取り落としそうになっていた。
「な、中山くん……?今、筋肉の話なんてどこにも……」
「ありますよ、先生。行間に」
力也は大胸筋をピクピクと動かしながら自信満々に答えた。
「No pain, no gain。英語圏のトレーニーたちが愛する金言です。この英文が伝えたいのは、つまりそういう筋肉の真理ですよね?」
「えっ?あ、いや……」
教師は否定しようとして言葉に詰まった。
筋肉のポエムに変換されてはいるものの、adversityを筋断裂からの回復、transformingを超回復による筋肥大と捉えれば、文章の持つ本質的なメタファーは一切損なわれていないのだ。
ただの直訳よりも、むしろ文章のニュアンスを深く理解していなければ出てこない超意訳である。
「理屈はともかく、本質は合ってるぞ……?」
「もしかして、英語の天才なのか……?いや、ただの筋肉バカか……?」
周囲の生徒たちの間で、再び処理不能なバグが発生していた。
(あっはっは!完璧な超意訳だ!構文も単語のニュアンスも一切逃してないぞ!だがお前らには、脳筋が適当に言った筋肉ポエムが奇跡的に文脈と合致したようにしか見えないだろうな!あー楽しい!)
周囲の困惑をよそに、力也は自らの完璧なプレイングに、内心で歓喜の声を上げていた。
この進学校で、中山力也がテストの成績上位者から自らの名前を消すよう教師を脅迫……もとい、熱心に説得するようになるのは、もう少し先の話である。




