第8話 〜王の器〜
ハンサン軍の若い将軍――ヘルドラ・サンドラ・シドー卿は、エランの前で足を止めた。
「王太子殿下のお気を悪くさせてしまった。主君に代わり、謝罪を申し上げたい」
戦場でも何度か顔を合わせている相手だ。
形式ばった口調ではあったが、そこにはヘルドラ自身の悔恨も混じっていた。
「……エランで結構ですよ、ヘルドラ卿」
エランは軽く首を振る。
「それに、殿下がお気を悪くされたわけではありません」
「しかし――」
「我が主君は、軍事に関しては常に厳しい視座を持っています」
穏やかな声だった。
「北だけを見ているのではありません。その先も、その後も見ている。先ほどの言葉も、それだけのことです」
ヘルドラは、しばらく黙った。
「……殿下はお若いのに」
言葉を選ぶように視線を落とす。
「あまりにも、背負うものが重い」
その言葉に、ゴディエがわずかに眉を動かした。
「もし……次に北が崩された時」
ヘルドラは、低く続けた。
「同盟は、まだ続いているのでしょうか」
エランは、少し考えてから答えた。
「おそらく、今回の戦後協議では、アルマー渓谷が両国の折衷案になるでしょう」
「ええ。私もそう見ています」
「殿下も同じです」
エランは続ける。
「ただし、そこで終わりにはしないと」
ヘルドラが顔を上げた。
「渓谷には、兵が通れる涸れ沢が数キロ続いています。そこを曖昧なまま残せば、また揉める」
「……国境を、決めると」
「ええ。どこから先を越えてはならないのか。防衛に適した地点を見て、正式に線を引くべきだと」
そこでエランは、ほんのわずかに口角を上げた。
「――もっとも、『自分が国王だったならば』という話ですが」
ゴディエが小さく咳払いをした。
*
「……本当に、ヘルドラ卿を使うつもりか」
別棟へと続く廊下に足を踏み入れたところで、ゴディエが問いを投げた。
左右にはシュバリエ兵が配置され、ハンサン側の人間はいない。
「軍部の不満を拾い、王とは別の勢力を育てる。そこまでは当初から考えていた」
歩みを緩めないまま、エランを見る。
「だが、数年はかけるつもりだったはずだ」
「ええ」
「今日見た限り、軍部だけではない。官僚も、王とはずいぶん温度が違う」
「私もそう見ました」
戦には勝った。
だが、辛くも勝ったという方が正しい。
兵の損耗は大きく、北の防衛線も傷んでいる。
戦の最中から軍部の不満は聞こえていた。
そして今日、王と、その周囲にいる者たちの隔たりも見えた。
時間をかければ、揺れる。
それはもう、二人の間では疑いのないことだった。
「だが、誰を核にするかは別だ」
ゴディエの声が低くなる。
「ヘルドラ卿に触れるのは、早くないか」
エランは少しも歩調を変えなかった。
「ヘルドラ卿を核にできる見込みは、昨日まで三割でした」
「今は?」
「六割です」
「……理由は」
「ヘルドラ卿自身です」
それだけで、ゴディエは察した。
「昨日の『鎮魂』に、居合わせていました」
ゴディエが小さく息を吐く。
「……あれを見たのか」
「ええ」
「見てしまった、というわけだな」
「ええ」
エランは、ほんのわずかに口角を上げた。
「英雄ではなく、王になる人間を」
廊下の奥に、別館の扉が見えてくる。
「危険だぞ」
ゴディエは低く言った。
「感銘を受けたことと、こちら側へ踏み込むことは違う」
「承知しています」
エランは即答した。
「だから、まだ何も求めていません」
ゴディエが横目を向ける。
「では、さっきの話は」
「反応を見ただけです」
「……食いつくと思うか」
「向こう次第でしょう」
二人は扉の前で足を止めた。
「こちらから引き込めば、こちらの工作になる」
エランの声は淡々としていた。
「ですが、自分から踏み込んでくるなら話は違う」
ゴディエはしばらく黙った。
「……選別を急めたのではなく、向こうが予定より早く現れた、か」
「そういうことです」
*
エルドウルフは会食から戻るなり、追加の面会を求められた。
「すぐ戻る」
そう言って立ち上がり、フェギスノーラに視線を向ける。
薄曇りの光が窓から差し込み、彼女の群青の髪を淡く白ませていた。
ほんの一瞬、言葉を選ぶように視線を止める。
「ルーソル」
名を呼ばれ、従兄のルーソルはすぐに応じた。
「少しの間、頼む」
「もちろん」
エルドウルフはフェギスノーラの肩に軽く手を置く。
「オリビエも残ってくれ」
「承知しました」
アストロフを伴い、エルドウルフは部屋を出ていった。
フーガは王都リノンへ向かう準備に入り、アンリはいつの間にか姿を消していた。
残されたのは、フェギスノーラとルーソルとオリビエだけだった。
フェギスノーラは窓辺に立ち、外をぼんやりと見ていた。
雲は低い。
でも、その向こうの空はずっと遠くまで続いている。
光はあるのに、あたたかくない。
窓の向こうは、まだ春の冷たい空気だった。
「……お茶、飲みますか?」
ルーソルが声をかける。
フェギスノーラは首を振った。
「のめない」
「じゃあ、お菓子は?」
「たべられない」
ルーソルは少し考えた。
「外、行きますか?」
フェギスノーラが振り向く。
「いきたい」
上着を羽織らせ、三人は庭へ出た。
石畳はまだ冷たく、春先の空気が指先に触れる。
薄曇りの空が低く垂れ込めていた。
風が生垣を揺らす。
その時だった。
枝が大きく鳴った。
次の瞬間、狐が一匹、生垣の奥から身を翻して走り去る。
足元には、白と茶の羽が散っていた。
その中央に、小さな鳥が横たわっている。
「……コマドリですね」
ルーソルが声を落とした。
橙色の胸元だけが、曇天の下で鮮やかに見える。
「可哀想に」
ルーソルが膝をつく。
フェギスノーラは、その隣から鳥を見下ろしていた。
風に押され、羽が一枚、石畳の上を転がっていく。
「……かわいそう、なんだ」
確かめるように言う。
それから首を傾げた。
「じゃあ……いきかえらせる?」
ルーソルは首を振った。
「いいえ。死んだからといって、すべてを戻すものではありません」
「……そうなんだ」
フェギスノーラは、もう一度コマドリを見る。
少し離れて控えていたオリビエが、ルーソルの視線を受けて近づいた。
「庭師に道具を借りてきます」
ほどなくして、小さなスコップを手に戻ってくる。
生垣の脇、草の少ない場所を選び、土を掘り始めた。
フェギスノーラは、その様子を黙って見ている。
ルーソルは散らばった羽を集め、コマドリのそばへ置いた。
やがて小さな身体が土の中へ収まり、オリビエが静かに土を戻していく。
「……うめるんだ」
「ええ」
ルーソルは答える。
「でも、ただ埋めるんじゃありません」
フェギスノーラが顔を上げる。
「弔うんです」
「……そうなんだ」
返事は、さっきと同じだった。
オリビエが最後に土を軽くならす。
風がまた生垣を揺らした。
フェギスノーラは、土の盛り上がった場所をしばらく見つめていた。
何かを覚えようとするように。
*
ヘルドラは、石畳を踏みしめながら歩いていた。
会食の余韻はすでに遠く、耳に残るのは自分の足音だけだ。
戦後処理。
物資の再配分、名簿の整理、報告書。
剣を振るうよりも、よほど神経を削る仕事だった。
――昨日のことが、ふいに脳裏に浮かぶ。
前日、ヘルドラはハンサン軍の負傷兵と戦死者名簿の確認のため、シュバリエ側の野営地を訪れていた。
応対に出たのは、戦後処理を取り仕切っていたエランだった。
野営地は、戦の熱がまだ抜けきらない匂いを残していた。
血と薬草と湿った土の混じる空気。
負傷者のうめき声は少なくなっていたが、それは回復の兆しではなく、選別が終わった証だった。
天幕の外。
治療を終えた者、あるいは治療が及ばなかった者たちが、静かに横たえられている。
引き渡しの確認を終え、戻ろうとした時だった。
野営地の奥に、人だかりが見えた。
その列の間を、一人の若者が歩いていた。
黒い外套。
鎧は着けていない。
だが、その歩みに迷いはなかった。
王太子――エルドウルフ。
彼は一人ずつ、名を確かめるように腰を落とした。
医務官が低く告げる名前を、確かに聞き取り、復唱する。
「ルトア」
呼ばれた男は、まだ息があった。
だが、その浅さは、時間の問題であることを物語っている。
エルドウルフは、ためらいなくその傍に座った。
手を取れる状態ではなかったため、負傷していない肩に、そっと触れる。
「ルトア。お前の働きで、戦を終わらせることができた」
声は低く、しかし確かだった。
「よくやった」
男の唇が、かすかに動いた。
「あ……殿、下……」
視線は定まらない。
「わ、たしは、王都へ……帰れ……ます、か」
「ああ」
即答だった。
「帰ろう。家族が待っている」
その後も、エルドウルフは歩き続けた。
息のある者。
すでに冷え始めた者。
分け隔てはしない。
名を聞く。
呼ぶ。
顔を見る。
覚える。
この地に埋められ、墓標を持たない者もいる。
それでも、名まで失わせるつもりはないのだろう。
自分が覚えている限り。
自分が、墓標になるつもりで。
広場の端では、聖職者が低い祈りを捧げていた。
その声と、死者の名を呼ぶ王太子の声が重なる。
ヘルドラは、目を離せなかった。
若い。
あまりにも若い。
それでも、逃げない。
やがてエルドウルフは立ち上がり、名簿へ目を落とした。
一つずつ、確かめる。
黒い外套は、いつの間にか血で濡れていた。
「……あれを、止めなくてよいのですか」
思わず、隣にいたエランへ問いかけていた。
「心が、潰れてしまう」
戦の責を、一人で抱え込んでいるようにしか見えなかった。
エランは、エルドウルフから目を離さない。
「殿下は、初陣の頃から同じことをされています」
「……毎回、ですか」
「ええ」
それだけだった。
慰めも、評価もない。
事実だけを告げる声だった。
ヘルドラは、もう一度エルドウルフを見る。
あれは、弔いのための儀式ではない。
死んだ者の名を、自分の中へ残している。
忘れないために。
背負ったまま、先へ進むために。
その時、エルドウルフがこちらに気づいた。
名乗るより先に歩み寄り、手を差し出す。
「エルドウルフだ」
細く長い指。
だが、剣を握り続けてきた者の硬さがある。
「そなたがヘルドラ卿か。武勇の噂は聞いている」
つい先ほどまで死者の名を呼んでいた者とは思えないほど、いつもの顔に戻っていた。
ヘルドラは、その手を握り返した。
血に濡れた黒い外套。
死者の名を一人ずつ呼ぶ声。
そして、何事もなかったように差し出された手。
胸の内に、ひとつの言葉が浮かぶ。
――王の器。
ヘルドラは、その言葉の意味を知っていた。
だからこそ、目の前の若者から目を離せなかった。
更新 月曜日/木曜日 20:00
X不定期発信中
https://x.com/reannecreative?s=11&t=1yGCcDcwyLFh5hKrz0M23Q




