第二章 宗一郎
太鼓の音が、境内に響いた。
洋平はカメラから顔を上げた。
先ほどまで神楽殿の前を走り回っていた子供たちが、足を止めている。石段を上ってきた老夫婦も、拝殿に向かいかけていた男も、音のした方を見た。
もう一度、太鼓が鳴った。
腹の底に届くような、重い音だった。
洋平はカメラの設定を確かめた。朝日の当たる神楽殿の縁と、その奥の暗がりとでは、明るさが大きく違う。試しに一枚撮り、画面を拡大する。
「始まるよ」
振り返ると、貴美子が両手に紙コップを持って立っていた。
「はい。まだ熱いからね」
「ありがとうございます」
受け取ったコップから、コーヒーの匂いが立った。洋平はカメラを肩に下げ、ひと口だけすすった。
「ママ、朝早いんですね」
「こういう日は別。店で夜更かしした人間も、朝になったら働かされるの」
貴美子はそう言って笑った。
背後から名前を呼ばれると、空いた方の手を上げる。
「はいはい、今行く。洋平さん、いい写真撮ってね」
返事を待たず、貴美子は社務所の方へ歩いていった。途中で老婆に呼び止められ、何か言われて大きく笑う。その声が、笛の音に重なった。
洋平は残りのコーヒーを飲み、空のコップを回収箱に入れた。
神楽殿では、舞い手がゆっくりと足を運び始めていた。
衣装の袖が持ち上がる。
鈴が鳴る。
太鼓の拍に合わせて踏み下ろされた足が、板の床を響かせた。
洋平はファインダーを覗いた。
袖の先まで画面に入れようとすると、柱が邪魔になった。半歩ずれる。今度は奥に置かれた荷物が写り込む。
膝を曲げ、少し低い位置から構え直した。
舞い手がこちらを向いた。
シャッターを切る。
続けて、もう一枚。
撮れた画像を確かめたが、思っていたものとは違った。袖はきれいに広がっている。鈴もぶれていない。それでも、目の前で見ている舞の重さが、写真には残っていなかった。
洋平は画面を消した。
しばらく撮らずに見ていると、同じ動きのようでいて、ひとつひとつの間が違うことに気づいた。足を置き、腰を落とし、次の動きに移るまでのわずかな静止。そのたびに、衣装の裾が遅れて落ち着く。
「もう少し、右からの方が見えますよ」
すぐ横で声がした。
細身の男が立っていた。
酒蔵の前で見かけた男だった。今は上着を腕に掛け、神楽殿に目を向けている。
「あの柱の向こうです。ここからだと、奥へ回った時に隠れてしまうでしょう」
「撮っても大丈夫な場所ですか」
「ええ。階段の前さえ空けていただければ」
洋平は小さく会釈をして、教えられた場所へ移った。
確かに、よく見えた。
舞い手の足元から、袖の描く弧までが収まる。背景には、神楽殿の古い板壁だけが残った。
太鼓が鳴った。
洋平はすぐには撮らなかった。
足が止まり、袖が落ち着くのを待つ。その一瞬に、シャッターを切った。
画面を見てから、男の方を振り返った。
「ありがとうございます。いい場所ですね」
「毎年見ていますから」
男は控えめに笑った。
「お仕事で?」
「ええ。写真を撮っています。富樫といいます」
洋平が名刺を差し出すと、男は両手で受け取った。
「富樫洋平さん」
印字された名前を読み、顔を上げる。
「三条です。三条宗一郎」
「三条……酒蔵の?」
「はい。今朝、前を通られましたね」
「気づいていたんですか」
「カメラを持った方は、つい目に留まります」
宗一郎は名刺を胸元にしまった。
神楽殿の前で、子供が母親の袖を引いていた。何かをせがんでいるらしい。母親は舞を見たまま、小さく首を振った。
宗一郎はその親子を避けるように、一歩脇へ寄った。
「いつまで、こちらに?」
「まだ決めていません。今日の神楽を見てから、もう少し村を歩こうかと」
「それでしたら、蔵にもどうぞ」
「見せていただけるんですか」
「作業の都合はありますが。いらっしゃる前に、ひと声掛けていただければ」
「ぜひ。外から見ただけでも、撮りたくなる建物でした」
宗一郎の表情が、少し和らいだ。
「古いですから、手の掛かるところばかりですよ」
境内の向こうから、三条さん、と呼ぶ声がした。
宗一郎はそちらを振り返り、軽く手を上げた。
「では、ごゆっくり」
洋平は頭を下げ、その背中を見送った。宗一郎は石段のそばで待っていた男と二言三言交わすと、連れ立って社務所の方へ歩いていった。
鈴の音に、洋平は神楽殿へ向き直った。
舞は続いていた。
さっき見逃した足の運びを追いながら、もう一度カメラを構える。
今度は、シャッターを切るまでに少し待つことができた。




