第一章 琴弾村
山道に入ってから、もう三十分ほど経っていた。
古いジムニーのエンジンが、低い唸り声を上げている。
富樫洋平は窓を少し開けた。
十月も半ばを過ぎた山の空気は、思っていたより冷たい。湿った土と杉の匂いが、車内に流れ込んでくる。
カーブを曲がるたびに、フロントガラスの向こうの景色が変わった。
深い杉林。苔むした石垣。名前も知らない小さな沢。
時折、山の斜面に張りつくようにして建つ民家が見えた。
洋平は助手席に置いた地図に目をやった。
スマートフォンのナビは、十分ほど前から圏外を示している。
「……本当にこっちで合ってんのか?」
独り言を呟いたところで、道端に一枚の看板が現れた。
『大木切ります』
その下に携帯電話の番号が書かれている。
看板はかなり古いらしく、文字の一部が剥げ落ちていた。
「大木ねえ……」
洋平は少し笑った。
こんな山奥なら、商売には困らないだろう。
しばらく進むと、道幅が少し広くなった。
右手に小さな集落が見え始める。
瓦屋根の家々が、谷に沿って寄り添うように並んでいた。
遠くには棚田が広がり、その向こうを細い川が流れている。
道路脇に立つ木製の案内板が目に入った。
『琴弾村』
その下には、かすれた文字でこう書かれていた。
『神楽の里へようこそ』
「……着いたか」
洋平はアクセルを緩めた。
琴弾村。
九州の山間にある、小さな集落。
今回の目的は、この村に伝わる神楽を撮影することだった。
洋平はフリーのカメラマンとして、雑誌や地方自治体の仕事を請け負っている。
風景写真が専門というわけではない。
人物も撮れば、祭りも撮る。時には企業の広告写真を撮ることもある。
ただ、昔から民俗行事には興味があった。
特に、土地ごとに異なる神楽の由来や伝承には、仕事を離れても惹かれるものがあった。
琴弾神楽の存在を知ったのは、数か月前のことだ。
古い郷土史の資料を調べていた際、偶然その名を見つけた。
資料には、村の神社で毎年奉納される神楽について、わずかな記述があった。
その中に一つ、気になる演目があった。
『琴弾の舞』
舞の由来については詳しく書かれていない。
ただ、女性の面を用いる珍しい舞であることと、古くから村に伝わっていることだけが記されていた。
洋平はその演目を、どうしても自分の目で見てみたくなった。
村に到着したのは、午後二時を少し回った頃だった。
集落の入口に小さな商店があった。
軒先には野菜の入った籠が並び、色褪せた飲料メーカーの看板が掛かっている。
その前で、老人が一人、椅子に腰掛けていた。
洋平は車を停め、窓を下ろした。
「すみません、ちょっとお尋ねしていいですか?」
老人が顔を上げた。
「はいはい」
「琴弾神社って、こっちで合ってます?」
「ああ、神社な。そこの道をまっすぐ行って、酒蔵のところを右に曲がりゃええ」
「酒蔵?」
「三条さんとこじゃ。……ああ、庄屋さまんとこな」
老人はそう言ってから、少し照れたように笑った。
「いかんなあ。昔の呼び方が抜けんで」
「庄屋さんだったんですか?」
「昔はな。今は酒屋さんじゃ。立派な酒を造りよる」
「へえ」
「神楽を見に来たんか?」
「ええ。明日、奉納があるって聞いたもんで」
「そうかそうか。遠いところからよう来なさった」
老人は嬉しそうに頷いた。
「明日は人が多いぞ。早う行かんと、ええ場所が取れんかもしれん」
「ありがとうございます。今日は下見だけしておこうと思って」
「それがええ」
老人は立ち上がり、道の先を指さした。
「あの大きな屋根が見えるじゃろ。あれが酒蔵じゃ。その先に鳥居があるけん」
洋平は礼を言い、車を走らせた。
集落の中は静かだった。
道路の両脇には古い家が並んでいる。
軒下に吊るされた干し柿。
庭先で日向ぼっこをする猫。
小さな畑で作業をしている女性。
どこにでもありそうな、日本の山村の風景だった。
やがて、老人が言っていた大きな屋根が見えてきた。
立派な白壁の建物だった。
長い瓦屋根が続き、道路に面した塀には黒い板が張られている。
入口には大きな杉玉が吊るされていた。
『三条酒造』
木製の看板には、そう刻まれている。
入口の暖簾には、見慣れない丸い紋が染め抜かれていた。
円の中で、二つの曲線が絡み合うような意匠だった。
洋平は車を道路脇に寄せ、カメラを手に取った。
古い建物の風情が気に入った。
数枚シャッターを切る。
その時、酒蔵の奥から男性の声が聞こえた。
「そっち、もう少し寄せてくれ」
「はい!」
作業着姿の男たちが、荷物を運んでいる。
どうやら出荷の準備をしているらしい。
洋平は仕事の邪魔にならないよう、少し離れた場所から建物を眺めた。
歴史のある酒蔵なのだろう。
白壁には細かなひびが入り、木製の扉には長い年月を経た独特の艶があった。
それでも建物は丁寧に手入れされていた。
洋平はもう一度、暖簾の紋を見た。
「……変わった家紋だな」
どこかで見たことがあるような気もしたが、思い出せなかった。
カメラを下ろし、再び車に乗り込んだ。
酒蔵を過ぎて右折すると、道は緩やかな上り坂になった。
両側の杉が高くなり、昼間だというのに少し薄暗い。
やがて石造りの鳥居が見えてきた。
『琴弾神社』
鳥居の脇には、小さな駐車場が設けられていた。
洋平はジムニーを停めた。
車を降りると、川のせせらぎが聞こえた。
集落からそれほど離れていないはずなのに、周囲は驚くほど静かだった。
石段を上がる。
境内には大きな杉の木が何本も立ち並び、地面には落ち葉が積もっている。
正面に拝殿。
その左手に、木造の神楽殿があった。
「……いいな」
洋平は思わず呟いた。
神楽殿は決して大きくない。
しかし、柱や床板には長年使い込まれた風格があった。
舞台の奥には古い幕が掛けられている。
明日の奉納に向けて準備が進められているのだろう。
舞台の脇には提灯が並べられ、数人の男性が竹を組んでいた。
洋平は声を掛け、撮影の許可をもらった。
男性たちは気さくに応じてくれた。
「明日は朝からやりますけんね」
「琴弾の舞は何時頃ですか?」
「夕方じゃないかな。今年は少し順番が変わるかもしれんけど」
「そうですか。楽しみにしてます」
「遠くから来たんですか?」
「ええ。福岡からです」
「そりゃまた遠いところを」
男性は笑った。
「せっかくなら、奥の池も見ていきなさい。綺麗ですよ」
「池?」
「神社の裏にあるんです。琴鳴の池っていうてね」
洋平は礼を言い、神楽殿の裏手へ向かった。
境内の端に、細い遊歩道が続いていた。
石畳の上には苔が生え、ところどころに落ち葉が積もっている。
数分歩くと、木々の間が開けた。
そこに、小さな池があった。
水面は鏡のように静かだった。
周囲の杉林がそのまま映り込み、どこからが実際の木々で、どこからが水面なのか分からなくなるほどだった。
「……これは綺麗だ」
洋平はカメラを構えた。
何枚か撮影する。
風が吹くと、水面に小さな波紋が広がった。
池の向こうには、さらに山へ続く道が見えた。
ただ、その入口には古い注連縄が張られていた。
脇には石碑が立っている。
表面は苔に覆われ、文字の大半が読めなかった。
洋平は少し近づいた。
かろうじて、二文字だけが読み取れた。
『禁足』
「……立入禁止ってことか」
洋平はそれ以上進まなかった。
神社の境内で、わざわざ注連縄を張っている場所だ。
理由があるのだろう。
その時、背後から声がした。
「そっちは行かれんよ」
振り返ると、箒を持った年配の女性が立っていた。
境内を掃除していた人らしい。
「あ、すみません。入ってませんよ」
「そうかい。それならええ」
女性は穏やかに笑った。
「その先には何があるんですか?」
「奥の院じゃよ」
「奥の院?」
「昔からあるお社じゃ。今は普段、人は行かんけどね」
「へえ……」
「明日は神楽じゃろ。見るなら早う来た方がええよ」
「さっきもそう言われました」
洋平が笑うと、女性も笑った。
「この村じゃ年に一度の大きな行事じゃけんね」
女性は箒を肩に担ぎ、境内へ戻っていった。
洋平はもう一度、池の向こうを眺めた。
注連縄の先には、細い山道が続いている。
木々が密集しているため、その先がどうなっているのかは見えない。
特に変わったものはなかった。
ただ、こんな静かな場所が残っていることに、少し感心した。
腕時計を見る。
午後四時を過ぎていた。
「……そろそろ宿を探すか」
洋平はカメラをバッグにしまった。
明日は朝から撮影するつもりだった。
今日は無理をせず、早めに休んだ方がいい。
ジムニーに戻り、エンジンを掛けた。
琴弾村には宿泊施設がほとんどない。
洋平は山を下り、三十分ほど離れた町にあるビジネスホテルへ向かった。
ホテルに着いた頃には、空が少し赤く染まり始めていた。
チェックインを済ませ、荷物を部屋に置く。
シャワーを浴びてから、近くの居酒屋へ出掛けた。
駅前の小さな店だった。
暖簾をくぐると、カウンターの奥から威勢のいい声が聞こえた。
「いらっしゃい!」
洋平はカウンターに座った。
「とりあえず生ビールと、刺身の盛り合わせをお願いします」
「はいよ!」
店内には数人の客がいた。
仕事帰りらしい男性たちが、テレビの野球中継を眺めながら酒を飲んでいる。
洋平はビールを一口飲んだ。
「……うまい」
山道を長時間運転した後の一杯は格別だった。
しばらくして、刺身の盛り合わせが運ばれてきた。
地元の魚らしく、身が締まっている。
洋平は箸を進めながら、壁に貼られた日本酒の品書きに目を留めた。
『梨の花』
聞き覚えのない銘柄だった。
「すみません、この梨の花って地酒ですか?」
店主が振り返った。
「ああ、三条さんとこの酒ですよ」
「三条さん?」
「琴弾村の酒蔵。知らんですか?」
「ああ! 今日、前を通りました」
「そうですか。あそこの酒はうまいですよ」
「じゃあ、一杯ください」
「冷やでいいですか?」
「お願いします」
ほどなくして、小さなグラスが運ばれてきた。
透明な酒が、店の照明を受けて淡く光っている。
洋平は一口含んだ。
柔らかな甘みが広がり、後味はすっきりしていた。
「……うまいですね、これ」
「でしょう?」
店主は嬉しそうに笑った。
「三条さんとこは昔から酒造りが上手でね。県外にも出しよるんですよ」
「へえ」
「今でも蔵の人たちはよう頑張っとります」
洋平はもう一口飲んだ。
昼間に見た白壁の酒蔵を思い出した。
あの建物の中で、この酒が造られているのだ。
店の奥では、常連客らしい男性たちが三条酒造の話をしていた。
「今年の梨の花もええ出来らしいぞ」
「そうか。楽しみじゃな」
会話には親しみがあった。
村の老人が口にした「庄屋さま」という呼び方とは、少し違って聞こえた。
洋平はグラスを傾けながら、ぼんやりと考えた。
同じ家でも、土地が変われば呼び方も変わる。
長い歴史を持つ家というのは、そういうものなのかもしれない。
食事を終え、店を出た。
夜の町には、昼間とは違う賑わいがあった。
駅前の通りには小さな飲食店が並び、赤提灯がいくつも灯っている。
洋平はホテルへ戻ろうとして、ふと足を止めた。
細い路地の奥に、小さな看板が見えた。
『スナック 灯』
古びた看板だった。
柔らかな橙色の明かりが、暗い路地を照らしている。
洋平は腕時計を見た。
まだ午後九時前だった。
「……一杯だけ、行くか」
そう呟いて、路地へ足を向けた。
店の前まで来ると、扉の向こうから小さく音楽が聞こえてきた。
洋平はドアノブに手を掛けた。
そして、ゆっくりと扉を開けた。
扉を開けると、カラン、と小さなベルが鳴った。
「いらっしゃいませー」
明るい女性の声がした。
店内は思っていたより広かった。
七、八人ほど座れそうなカウンターに、奥には四人掛けのボックス席が二つ。壁には古い映画のポスターや、どこかの温泉地で撮ったらしい集合写真が飾られている。
カウンターの端には、小さな花瓶に一輪の竜胆が生けられていた。
「お一人?」
「ええ。大丈夫ですか?」
「もちろん。どうぞどうぞ、好きなところに座って」
カウンターの中から、女性がにこやかに手招きした。
六十歳を少し過ぎたくらいだろうか。
肩まで伸びた髪を後ろで軽くまとめ、紺色のブラウスを着ている。化粧は控えめだったが、目元には若々しさが残っていた。
何より、よく笑う人だった。
洋平が腰を下ろすと、女性はおしぼりを差し出した。
「初めてよね?」
「分かります?」
「そりゃ分かるわよ。こんな小さな店だもの。常連さんの顔くらい覚えてるわ」
「なるほど」
「お仕事?」
「まあ、半分仕事みたいなもんです」
「あら、半分?」
「写真を撮ってるんです」
「カメラマンさん?」
「一応」
「一応って何よ」
女性が声を立てて笑った。
「ちゃんとお金もらってるなら、立派なカメラマンさんじゃない」
「まあ、そうですね」
「何飲む?」
「ウイスキー、水割りで」
「はいはい。濃さは普通でいい?」
「お願いします」
女性は棚からボトルを取り出した。
氷を入れたグラスにウイスキーを注ぎ、マドラーで静かにかき混ぜる。
手慣れた動作だった。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
「私は貴美子。みんなからはキミちゃんって呼ばれてるの」
「富樫です。富樫洋平」
「洋平さんね。よろしく」
貴美子は軽く頭を下げた。
洋平も会釈を返す。
店内には、古い歌謡曲が小さな音量で流れていた。
奥のボックス席では、二人の男性客が何やら楽しそうに話している。
カウンターの端には、作業着姿の年配の男が一人、焼酎のグラスを前にしてテレビを眺めていた。
どこにでもある、地方のスナックだった。
「で、何の写真を撮りに来たの?」
貴美子が尋ねた。
「神楽です」
「あら、神楽?」
「琴弾村の」
「ああ、明日ね」
貴美子は頷いた。
「じゃあ今日は下見?」
「ええ。昼過ぎに着いて、神社とか見て回ってました」
「どうだった?」
「いいところですね。静かで」
「でしょう。何にもないけどねえ」
「いやいや、ああいうところがいいんですよ」
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
貴美子は笑いながら、カウンターに小皿を置いた。
枝豆と、薄く切った大根の漬物だった。
「これ、お通し」
「ありがとうございます」
「琴弾村って、初めて?」
「はい」
「じゃあ、あの坂道も初めて走ったんだ」
「結構くねくねしてますね」
「そうなのよ。冬は雪が降ると大変でね」
「雪、結構降るんですか?」
「毎年じゃないけど、積もるときは積もるわよ。昔なんか、何日も下りられないことがあったんだから」
「へえ」
「今は道も良くなったけどね」
貴美子はそう言って、カウンターの端に座る男性へ声を掛けた。
「佐伯さん、おかわりは?」
「おう、もう一杯」
「飲みすぎじゃない?」
「まだ二杯じゃ」
「さっきから三杯目よ」
「数えよったんか」
「当たり前でしょ」
店内に笑い声が起こった。
貴美子は焼酎を作りながら、洋平に目配せした。
「この人、毎晩来るのよ」
「毎晩じゃねえ。日曜は休んどる」
「日曜はうちが休みなの!」
また笑いが起こった。
洋平もつられて笑った。
こういう店は嫌いではなかった。
初めて訪れた土地で、地元の人たちの何気ない会話を聞く。
観光案内には載っていない、その土地の暮らしが少しだけ見える気がする。
カメラを持って歩く時間と同じくらい、洋平はこういう時間が好きだった。
「そういえば」
洋平はグラスを置いた。
「琴弾村って、昔は庄屋さんがいたんですね」
「ああ、三条さん?」
「そうです。今日、村のおじいさんに道を聞いたら、庄屋さまって呼んでたんで」
「ふふっ。お年寄りは今でもそう呼ぶ人がいるわね」
「やっぱり古い家なんですか?」
「古いわよ。私が子供の頃から、あのお屋敷はあったもの」
「酒蔵も立派でした」
「見たの?」
「ええ。写真も何枚か撮りました」
「そう。綺麗に撮れた?」
「どうでしょう。建物はいいんですけど、腕が追いつくかどうか」
「またそんなこと言って」
貴美子が笑った。
「三条さんとこのお酒は飲んだ?」
「さっき居酒屋で。梨の花っていう」
「ああ、梨の花」
「美味しかったです」
「そうでしょうね」
貴美子は短く答えた。
それから、空いた小皿を手に取った。
「昔から評判いいのよ、あそこのお酒」
「こっちじゃ有名なんですね」
「ええ。お土産に買って帰る人も多いわ」
「明日、時間があったら寄ってみようかな」
「いいんじゃない? 喜ぶと思うわよ」
貴美子はそれ以上、酒蔵の話を続けなかった。
代わりに、カウンターの男へ向き直った。
「佐伯さん、奥さんから電話来てない?」
「来とらん」
「本当?」
「本当じゃ」
「携帯見てみなさいよ」
男が渋々ポケットから携帯電話を取り出した。
画面を見た途端、顔色が変わった。
「……三件来とる」
「ほら!」
貴美子が手を叩いて笑った。
「早く帰んなさい。私まで怒られるじゃない」
「もう一杯だけ……」
「駄目!」
男は肩を落としながら立ち上がった。
財布から千円札を何枚か取り出し、カウンターに置く。
「じゃあ、また明日」
「明日は来なくていいから、奥さん孝行しなさい!」
「へいへい」
男が出ていくと、貴美子は小さく息をついた。
「まったく、しょうがないんだから」
「仲いいですね」
「もう二十年以上のお客さんだからね」
「二十年?」
「そうよ。この店も長いのよ」
「いつからやってるんですか?」
「さあ、いつからだったかしら」
貴美子はわざとらしく首を傾げた。
「数えると歳がばれるから、やめとくわ」
「もう十分ばれてるんじゃないですか?」
洋平が言うと、貴美子は一瞬きょとんとした。
そして大きな声で笑った。
「あははは! 洋平さん、結構言うわね!」
「すみません」
「いいのいいの。そういうお客さん、嫌いじゃないわ」
貴美子は自分のグラスに水を注いだ。
「でもね、長くやってると、いろんな人が来るのよ」
「でしょうね」
「嬉しい話も、悲しい話もね」
その言い方には、特別な意味があるようには聞こえなかった。
ただ、長く店を営んできた人の、ごく自然な言葉だった。
洋平は頷いた。
「写真も似たようなところがありますよ」
「あら、そう?」
「人を撮ってると、いろんな顔を見るんです。笑ってる顔だけじゃなくて」
「うん」
「でも、あとで写真を見返すと、撮ったときには気づかなかった表情が写ってたりするんですよ」
「へえ……」
「本人も気づいてないような顔が」
貴美子は少し考えるようにしてから、笑った。
「それ、ちょっと怖いわね」
「そうですか?」
「だって、隠してることまで写っちゃいそうじゃない」
「そんな便利なカメラがあったら、警察に売りますよ」
「あはは! そりゃそうね!」
洋平は水割りを飲み干した。
時計を見ると、十時近くになっていた。
「そろそろ帰ります」
「あら、もう?」
「明日、朝から撮影なんで」
「そうね。神楽は朝から賑やかだもの」
「お会計お願いします」
貴美子は伝票を手に取った。
「洋平さん、明日もこっちに泊まるの?」
「一応、そのつもりです」
「じゃあ、また寄ってよ」
「いいんですか?」
「もちろん。神楽の写真、見せてちょうだい」
「うまく撮れてたら」
「またそれ!」
貴美子が笑った。
「自信持ちなさいよ、カメラマンさん」
洋平は代金を払い、立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「こちらこそ。気をつけてね」
扉を開けると、冷たい夜風が頬に当たった。
背後から貴美子の声がした。
「あ、洋平さん」
「はい?」
「明日の神楽、楽しんできてね」
「ええ。ありがとうございます」
貴美子はにっこり笑った。
「いいお祭りだから」
洋平は軽く頭を下げ、店を後にした。
扉が閉まると、再び小さなベルが鳴った。
貴美子はしばらく扉の方を見ていた。
「……感じのいい人ね」
誰に言うでもなく呟き、空いたグラスを片づけ始めた。
奥のボックス席から声が掛かった。
「ママ、こっちもおかわり!」
「はーい、今行きますよー!」
貴美子はいつもの笑顔に戻った。
店のスピーカーからは、少し古い恋の歌が流れていた。
*
ホテルへ戻る途中、洋平はコンビニに立ち寄った。
ミネラルウォーターと、明日の朝食用のパンを買う。
ついでに、車に置いておく缶コーヒーも二本。
ホテルの部屋に戻ったのは十時半頃だった。
窓の外には、駅前の小さなロータリーが見えた。
昼間の山村とは対照的に、街灯の下を時折車が通り過ぎていく。
洋平はベッドに腰掛け、カメラを取り出した。
今日撮影した写真を確認する。
琴弾村の入口。
古い商店。
三条酒造の白壁。
琴弾神社の鳥居。
神楽殿。
そして、琴鳴の池。
洋平は池の写真を一枚ずつ送っていった。
風のない水面に、杉の木々が映っている。
構図を変えて撮ったものが何枚もあった。
そのうちの一枚で、手を止めた。
「……いいな、これ」
水面の奥に、山へ続く細い道が写っていた。
道の入口には注連縄。
その脇に、古い石碑。
画面の隅にあるだけなのに、妙に存在感があった。
洋平は写真を拡大した。
石碑の文字は、やはりほとんど読めなかった。
『禁足』
昼間に見た二文字だけが、かろうじて判別できた。
「奥の院、か……」
洋平は独り言を呟いた。
神社の奥に別の社があること自体は、珍しくない。
山岳信仰の残る土地では、むしろよくあることだった。
それに、立ち入りを禁じている理由も様々だ。
神聖な場所だからという場合もあれば、単純に道が危険だからということもある。
洋平はそれ以上深く考えず、次の写真へ進んだ。
三条酒造の暖簾が写っていた。
丸い家紋が、画面の中央に収まっている。
洋平は少し拡大した。
黒と白の曲線。
見れば見るほど、不思議な形だった。
「……明日、誰かに聞いてみるか」
カメラの電源を切った。
明日は早い。
洋平は目覚ましを六時半にセットし、ベッドに横になった。
しばらくすると、隣の部屋からテレビの音が聞こえてきた。
廊下を歩く人の足音。
遠くを走る車の音。
どこにでもある、ビジネスホテルの夜だった。
洋平は目を閉じた。
明日はどんな写真が撮れるだろう。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。
*
翌朝。
午前六時半。
スマートフォンのアラームが鳴るより少し早く、洋平は目を覚ました。
カーテンの隙間から、薄い朝日が差し込んでいる。
ベッドから起き上がり、窓を開けた。
空はよく晴れていた。
「……よし」
今日は絶好の撮影日和になりそうだった。
洗面所で顔を洗い、パンとコーヒーで簡単に朝食を済ませる。
カメラのバッテリーを確認し、予備のメモリーカードをバッグに入れた。
広角レンズ。
標準ズーム。
望遠レンズ。
神楽殿の広さを考えれば、望遠はそれほど必要ないかもしれない。
ただ、舞台の邪魔にならずに表情を撮るには、持っておいた方がいい。
洋平は機材をひと通り確認した。
七時半過ぎ。
ホテルをチェックアウトし、ジムニーに乗り込んだ。
エンジンを掛ける。
ラジオからは朝のニュースが流れていた。
洋平は音量を少し下げ、車を走らせた。
町を抜けると、再び山道が始まった。
昨日と同じ道だったが、朝の光の中では印象が違っていた。
山肌には薄い霧が残り、杉林の間から陽光が差し込んでいる。
道路脇には、朝露に濡れたススキが揺れていた。
途中、軽トラックとすれ違った。
運転席の老人が軽く手を上げたので、洋平も会釈を返した。
さらに進むと、昨日見た看板が現れた。
『大木切ります』
「……今日も営業中か」
洋平は笑った。
カーブを抜ける。
やがて、琴弾村の案内板が見えてきた。
昨日とは違い、集落にはすでに人の動きがあった。
道路脇には色とりどりの幟が立ち、家々の軒先には小さな提灯が吊るされている。
神社へ向かう人たちの姿も見えた。
年配の夫婦。
子供を連れた家族。
法被を着た若い男性たち。
小さな村が、年に一度の祭りを迎えようとしていた。
洋平は車をゆっくり走らせた。
三条酒造の前を通りかかる。
昨日は閉じられていた大きな門が、今日は開いていた。
入口には新しい杉玉が吊るされ、数人の男性が何かを運び出している。
その中に、一人だけ背広姿の男性がいた。
細身で、背筋の伸びた男だった。
年齢は四十歳くらいだろうか。
作業着姿の男性と何かを話している。
時折、柔らかく笑っていた。
洋平は特に気に留めず、車を進めた。
神社へ続く坂道に差しかかると、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。
ドン。
ドン、ドン。
一定の間隔で響く、低い音。
その後を追うように、笛の音が重なった。
洋平は窓を開けた。
山の冷たい空気とともに、祭囃子が車内へ流れ込んでくる。
「……始まってるな」
自然と頬が緩んだ。
坂道を上りきると、鳥居の前にはすでに多くの人が集まっていた。
昨日の静けさが嘘のようだった。
境内からは人々の話し声が聞こえ、屋台の準備をする香ばしい匂いが漂ってくる。
洋平は係員の案内に従い、臨時駐車場へ車を停めた。
カメラバッグを肩に掛ける。
鳥居の前で一度立ち止まり、神楽殿を見上げた。
舞台の上では、白い装束を着た男性が準備をしていた。
その奥から、再び太鼓の音が響いた。
ドン。
ドン、ドン。
洋平はカメラを取り出した。
「……さて」
ファインダーを覗く。
朝日に照らされた神楽殿が、四角い画面の中に収まった。
シャッターを切る。
乾いた電子音が、小さく響いた。
琴弾神楽の一日が、始まろうとしていた。




