第8話:白き舞台、交わす決意
――朝/龍胆家・居間
朝の空気は、まだ冬の名残を薄く抱えていた。
吸い込むと鼻の奥が冷え、そのまま肺まで抜ける。
炊き立ての米の甘い匂いと味噌だしが重なり、畳の上にやわらかく漂っていた。
障子越しの光は斜めに差し、湯気立つ味噌汁と焼き鮭へ淡い影を落としている。
足裏には、朝の冷たさがじわりと伝わっていた。
――いつもの朝食。
いつもの家族。
笑い声はなく、箸の音だけが小さく残っていた。
湯気がゆっくり揺れる中、誰も次の言葉を急がない。
誠はすでに道着ではなく、黒いジャケットへ袖を通していた。
慣れないネクタイを少し窮屈そうに締めている。
その隣では、美咲も淡い色のブラウスにカーディガンを羽織り、髪をいつもより丁寧にまとめていた。
卒業式へ行くための格好だと、それだけで分かる。
誠が箸を置き、まっすぐ彰を見る。
「……彰。今日は、一つの区切りだ。……だが、本当の勝負は、ここからだぞ」
その低い声は、ただの訓示ではなかった。
腹の奥へ、ずしりと沈み込む。
息が一瞬だけ詰まる。
箸先がわずかに止まった。
彰は背筋を伸ばし、箸を膝の横へ揃える。
「……はい。ここから、もっと強くなります」
言葉を出したあと、喉の奥へ熱が残った。
彰はそれを押し込むように、腕の力を抜く。
美咲は湯呑を持つ手を揺らしながら微笑む。
「風邪ひかないでね」
「……ああ、大丈夫」
肩の力が抜け、重心がゆっくり落ちた。
食器を片付け、ネクタイを結び直す。
鏡の中の顔は、まだ少し硬い。
それでも、ネクタイを直す指はさっきより落ち着いていた。
玄関で靴を履くと指先が冷たい。
彰は一度、自分の両頬を軽く叩いて気合を入れた。
「じゃ、そろそろ行くね」
彰は玄関の扉へ手を掛け、外へ出た。
冬と春の境目みたいな風が頬を撫でる。
ひんやりとした空気が肺の奥まで入り込み、寝起きの身体をゆっくり目覚めさせていった。
遠くでは、小鳥の声が季節の変わり目を告げるみたいに響いている。
彰は一度だけ立ち止まり、小さく息を吐いた。
陽菜と凱。
落ちこぼれだと笑われた日々。
それでも、ここまで歩いてきた。
その全部を抱えたまま、前を向く。
怖さは、確かにある。
それでも――行くと決めたのは、自分だった。
彰は足元へ力を込め、住宅街の道を歩き出す。
靴底へ返るアスファルトの硬さが、今日という日をやけにはっきり感じさせた。
いつもの角を曲がり、陽菜の家が見えてくる。
すると、ちょうど玄関の扉が開いた。
「あっ、アキ!」
陽菜がぱっと表情を明るくする。
制服姿が、朝の光の中でいつもより少し大人びて見えた。
「おはよ」
「おはよー! えへへ、ちゃんと来たね」
「約束しただろ」
彰がそう返すと、陽菜は嬉しそうに肩を揺らした。
二人で並んで歩き始める。
春の風が制服の裾を揺らし、陽菜の髪がふわりと光を受けていた。
凱の家の前へ差しかかると、今度は門の前で凱が腕を組みながら待っている。
「おっ、ちゃんと揃ったな」
「凱くん、おはよ!」
「おはよーさん。……ほらアキ、ネクタイ曲がってねぇか見せろよ」
「うるせえ。……大丈夫だって」
凱がにやっと笑い、そのまま彰の肩を軽く叩く。
三人で顔を合わせた瞬間、自然に笑いがこぼれた。
少し前までのぎこちなさが嘘みたいに、歩幅が揃っていく。
そんな空気の中、不意に陽菜が近づいてきて、彰の袖を軽くつまんだ。
「アキ、今日ちょっとカッコいいかも。……卒業式だからかな」
「やめろって。照れるだろ」
彰が視線を逸らすと、凱が横から肩をどんっと叩く。
「ほら見ろ陽菜、こいつ褒めるとすぐ赤くなるんだからよ」
「なっ……!」
三人で声を上げて笑った。
朝の光が、制服の影をやわらかくほどいていく。
しばらく歩いたあと、凱がふと声の調子を落とした。
「なぁ、高等部行ってもさ。ちゃんと三人で並んで行こうぜ?」
その言葉に、彰は一度だけ足を止める。
「もちろんだよ」
陽菜は迷いなく頷いた。
彰は少し間を置き、それから口を開く。
「……当たり前だろ。ここまで一緒に来たんだから」
言い終えた瞬間、背筋が自然と伸びる。
陽菜は目を少し丸くして、それから嬉しそうに微笑んだ。
「うん。じゃあ……次も、三人で」
三人は視線を合わせ、そのまま歩幅を揃えて学校への坂を上っていった。
朝の光を受けた校舎が、少しずつ近づいてくる。
正門の前には、すでに多くの生徒たちが集まり始めていた。
笑い声と、写真を撮る声。
名残惜しそうに話し込む姿まで、卒業式を迎える朝の空気へ自然と混ざっている。
その流れへ溶け込むように三人も門をくぐり、講堂へ向かった。
廊下では制服の擦れる音が重なり、床を打つ靴音だけが、いつもより少し落ち着いて響いている。
講堂の扉が開いた瞬間、空気の温度がわずかに変わった。
式は静かに、厳かに進んでいく。
名前が呼ばれ、一人ずつ壇上へ上がるたび、拍手が高い天井へ幾重にも反響し、やがてゆっくり空気へ溶けていった。
磨かれた板張りには窓からの光が長く伸び、その上を制服の影が静かに揺れている。
衣擦れや足音まで、不思議なくらいはっきり耳へ残っていた。
壇上へ向かう背中は、みんな少しだけ大人びて見える。
声を震わせる者。
涙で言葉を詰まらせる者。
拍手の中へ、それぞれの三年間が静かに滲んでいた。
やがて、自分の名が呼ばれる。
彰は小さく息を吸い、一歩前へ踏み出した。
床板の硬さが、足裏へはっきり食い込む。
無数の視線が、背中へ静かに集まっていた。
その瞬間だけ、講堂のざわめきが遠くへ引いていく。
乾いた空気の中には、微かな春の匂いが残っていた。
靴底が床板を打つ音だけが、静かな講堂へ小さく響く。
彰は胸の前で掌をきゅっと寄せ、背筋を伸ばして進んだ。
拍手が耳へ届いた瞬間、足元から力が駆け上がる。
踏み込みへ、確かな重みが戻ってきた。
気づけば、背中は自然とまっすぐになっていた。
(――次は、高等部だ)
教師の挨拶。
代表の言葉。
校歌。
重なった歌声の余韻が、講堂の壁へ反響しながら耳の奥へ柔らかく残っていく。
三年分の景色が、波みたいに胸へ押し寄せてきた。
そして、ゆっくり引いていく。
最後の拍手が響く。
彰はふと窓の外へ目を向け、それから自然に保護者席の方へ視線を移した。
そこには、美咲と誠の姿がある。
美咲は目元を少し潤ませながら、それでも嬉しそうに笑っていた。
誠は腕を組んだまま静かに立っている。
けれど、その口元だけがわずかに緩んでいた。
少し離れた席では、拓也が大きく手を振っている。
その横で雪が笑い、玲奈もぱちぱちと小さく拍手を送っていた。
その光景を見た瞬間、胸の奥へ温かいものが静かに広がる。
春風が髪を揺らし、甘い土の匂いを運んできた。
少し強く吹き込んだ風で髪が額へかかり、彰は指先でそれを払う。
拍手が収まる頃には、講堂へ椅子の軋む音が少しずつ戻り始めていた。




