第6話:封筒に宿る春
――インサイダー養成学校・中等部
あの夜のあとも、足は止まらなかった。
校舎の隅には、まだ雪の名残が細い筋になって残っている。
日差しにじわじわと溶かされ、水の線となって静かに流れ落ちていた。
かすかな水音が排水溝へ吸い込まれ、冬の尾だけが少しずつ姿を消していく。
頬を撫でる風は、もう刺すような冷たさではない。
それでも指先には、まだ冬の冷えが残っていた。
インサイダー養成学校・中等部の廊下は、春を迎える前の高揚で満ちている。
「新しい制服たのしみ!」
「進学先さ、やっぱあそこに――」
「写真もう一枚!」
笑い声と靴音が混ざり合い、シャッターの連写音と寄せ書き帳の紙をめくる音まで廊下へ広がっていた。
それぞれが次の居場所へ向かって歩き出している。
その空気に押されるみたいに、廊下全体が少し浮いて見えた。
彰も、その中を歩いていた。
みぞおちの奥で、鼓動とは少し違う熱が静かに打っている。
そんな感覚を抱えたまま一日を終え、放課後になる頃には、校内の喧騒も少しずつ外へ流れ始めていた。
彰はバッグを肩へ掛け、魔法訓練場へ向かう。
窓の外では夕陽がゆっくり傾き、白い床へ橙色の光が長く伸びていた。
放課後の訓練場には、もう人の気配が少ない。
彰は訓練用スペースの中央へ立ち、小さく息を整える。
そのまま前へ突き出した手へ魔力を集中させると、黒い粒子が掌の周囲へ集まり、空気がじわりと重く沈んだ。
(《暗黒弾》)
放たれた黒い球体が、一直線に標的へ突き刺さる。
鈍い衝撃音と一緒に、的の表面へ黒い亀裂みたいな跡が広がった。
遅れて、闇の粒子が霧みたいに散っていった。
彰は掌を軽く開き、残った魔力の揺れを確かめた。
以前みたいな暴発はない。
流れも、ようやく手の内へ収まり始めていた。
その時だった。
「アキ!」
後ろから飛んできた明るい声に、彰は振り返る。
訓練場の入口では、陽菜が目を輝かせながらこちらを見ていた。
「今の魔法……!」
ぱたぱたと近寄ってきた陽菜は、標的へ残った黒い痕を見てさらに目を丸くする。
「できるようになったんだ!」
「ああ。だいぶ安定してきたよ」
彰がそう返すと、陽菜の表情がぱっと明るくなった。
「すごいよ……! この前も一つできるようになったって言ってたのに」
嬉しそうに笑いながら、陽菜は標的と彰を何度も見比べている。
彰は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「もっとがんばるよ」
「うん、一緒に頑張ろうね」
陽菜が柔らかく笑った、その時だった。
「よぉ、やってんなー!」
訓練場の入口から、今度は凱の声が響く。
肩へバッグを引っかけたまま入ってきた凱は、黒い痕の残った標的を見るなり口元を上げた。
「この時間までやってるやつ、同年代じゃお前だけだぞ」
「お前が強いからな。追いつくには、まだまだだろ」
凱は笑いながら彰の肩を軽く叩いた。
「おっ、言うじゃん。ちゃんと追いついてこいよ?」
そのまま楽しそうに拳を突き出してくる。
彰も自然に拳を合わせた。
拳と拳がこつんと当たる音が、乾いて訓練場へ返る。
肩の位置が少し落ちた。
“距離を置いていた時間”は、たしかにあった。
それでも――今は、同じ場所に立っている。
陽菜は水筒のストラップを指へ引っかけ直しながら、小さく口を開いた。
「あ、アキ。今日の授業のメモ、途中で写しきれなくて……アキのノート、あとで見せてもらってもいい?」
「おう。まとめたやつあるし、明日渡すよ」
「わっ、本当? 助かるよ。ありがとね」
陽菜の口元がふわりと緩む。
その笑顔につられるみたいに、彰の肩からも少し力が抜けた。
凱はそんな二人を見ながら、ふと彰の右手へ目を留める。
「……おい、マメ、また増えてねぇか?」
「え、あ……まぁ、ちょっとな」
彰が手元を見下ろすと、古いマメの縁へ、新しい薄皮がうっすら盛り上がっていた。
「ちょっと、じゃないよ」
陽菜が小さく眉を寄せ、そのままそっと彰の手を取る。
彼女の指先は、傷をなぞらないように、触れきる手前で止まった。
その距離が、逆にくすぐったい。
「アキ、ほんとに無茶はだめだからね。強くなるのは大事だけど……ちゃんと休むのも、同じくらい大事なんだから」
「わかってるよ。ありがとな」
彰はそう返しながら、そのまま手のひらで軽く押し返す。
陽菜は一瞬だけ動きを止め、それから水筒のストラップを指先で弄びながら、小さく口元を緩めた。
三人で魔法訓練場に立ち、他愛ない話をしているだけ。
それなのに、今はこの時間が妙に心地よかった。
凱が後頭部へ手を回し、そのまま大きく伸びをする。
「たまには今日、三人で帰るか?」
「いいね!」
陽菜がぱっと表情を明るくした。
彰も、その空気につられるみたいに小さく息を吐く。
「……そうだな。たまには」
その返事を聞いた瞬間、凱が「よし決まり!」と楽しそうに笑った。
陽菜もつられるように声を漏らす。
三人の笑い声が、夕方の静かな魔法訓練場へゆっくり広がっていった。
◇
――夕方/龍胆家・居間
その日の夕方、家へ戻ると、居間の机の上に一通の封筒が置かれていた。
白い封筒の端には、見慣れた学校の印章が押されている。
彰は足を止めたまま、その封筒を見下ろす。
指先が端へ触れた瞬間、呼吸が少し浅くなった。
(……これが、高等部の入学前適性評価)
「アキ、来て」
台所から、美咲の声が聞こえる。
視線を向けると、誠は道着姿のまま、居間の隅で腕を組んで立っていた。
彰は小さく息を整え、そのまま封筒を手に取る。
紙のざらりとした感触が、指先へ静かに返ってきた。
ぺり、と封を切る音だけが、妙に大きく居間へ響く。
龍胆 彰 様
高等部・入学前適性評価 結果
体力測定:A
魔力測定:C+
実技(剣術):C
学力:B+
倫理:A+
総合評価:標準
「……Cか」
言葉が一度喉で止まり、声だけが先に落ちた。
(落第じゃない……“人並み”ってところ、か)
肩へ、ずしりと重さがのしかかる。
背筋が一瞬だけ固まった。
何度も振った木刀。
夜の訓練場。
走り続けた校庭。
その光景だけが、遅れて胸の奥へ返ってくる。
無駄かもしれないと思いながら、それでも止めなかった時間だった。
けれど同時に、張っていた力も少し抜けていった。
彰は手をそっと握り直す。
手のひらの古いマメが、ざらりとした感触を返してきた。
努力が全部否定されたわけじゃない。
そう思った瞬間、握っていた力がわずかにほどける。
だが、その直後に浮かんだのは凱の姿だった。
同じ剣を選んで。
同じ道場で、同じ型をなぞってきたはずなのに――
振り抜く重さも。
型の正確さも。
踏み込みの迷いのなさも。
あいつは、もう一段先へ出ている。
(……まだまだ“普通”だ。凱には、まるで届いていない)
彰は紙の角で机の縁を軽く叩いた。
コン、と乾いた音が小さく返る。
悔しさと救いが、胸の内側で静かにぶつかっていた。
その時、美咲がそっと肩へ手を置く。
「大丈夫よ、彰。学力も倫理も体力も、全部すごくいいじゃない」
肩へ置かれた指が、そっと力をひとつ緩める。
「剣はCだったけど……ちゃんと基礎は身についてる証拠よ。 ここから積み上げれば、必ず強くなれるから」
美咲の指先が肩口で一瞬だけ力を増し、それから何事もなかったみたいに静かに離れていった。
彰はわずかに頷く。
込み上げそうになった何かを、そのまま胸の奥へ押し戻した。
その横で、誠が紙面から顔を上げる。
道着の帯をぎゅっと締め直し、低い声で口を開いた。
「……彰」
帯へ掛けた指を離さないまま、言葉を継ぐ。
「基礎はできている。体力も、知識も、十分だ」
一度だけ、息が抜けた。
「だが、それだけじゃ、人は守れん」
その言葉が、肩の上へ重く乗る。
心臓が一度だけ強く鳴った。
息が詰まり、吸い込みだけが半歩遅れる。
けれど、その厳しさの奥にある温度も、彰にはちゃんと伝わっていた。
(父さんらしいな……)
誠は一度だけ顔を逸らし、それから手の甲で軽く彰の肩を叩く。
「ここからだ。ここから、お前がどう磨くかだ。……腐るなよ」
その一言で、背中へじんわり熱が戻ってくる。
「……ああ」
彰は深く息を吐いた。
すると、美咲が口角を持ち上げながら、湯気の残る台所の方へ顔を向けて言う。
「ね。もし腐らせるくらいなら、私が毎日味噌汁で煮直すから」
「……母さん、それはそれで怖いけど」
彰が短く息を漏らすと、誠の口元がわずかに緩んだ。
美咲もつられるように肩の力を抜く。
張っていた空気が、少しだけやわらいでいった。
◇
――夜/龍胆家・自室
彰は評価表を机の上へ置き、空になった封筒を引き出しへしまった。
そのままベッドへ仰向けに倒れ込んだ。
薄暗い天井が、ぼんやり視界へ広がる。
“実技:C”
まぶたの裏には、その文字だけがじわじわ残っていた。
(……弱い。まだ全然、足りない)
拳が自然と布団へ沈み込む。
胸の底が、ひやりと冷えた。
それでも、その冷たさの奥には、消えきらない温もりも残っている。
(見てくれている。……父さんも、母さんも)
彰は天井を見つめたまま、ゆっくりまぶたを下ろした。
すると、今までの光景が途切れ途切れに浮かび上がってくる。
湿った土の匂いが残る夏の林。
震えていた陽菜の手。
あの時、自分の足が勝手に前へ出た瞬間。
出雲の遺跡で聞いた、氷の矢が空気を裂く音。
守り切れなかった悔しさと、自分の弱さを突きつけられた恐怖。
模擬戦で、足が動かなかった時の感覚。
守られることしかできなかった自分。
あの時、舌の裏がひりつくほど悔しかった。
誇りたい瞬間も。
直視したくない瞬間も。
その全部が、今の自分へ繋がっている。
彰は胸の奥で詰まっていた息をゆっくり吐き出した。
(……一人じゃない)
浮かんだ顔が、呼吸の奥で静かに重なっていた。
陽菜。
凱。
父さん。
母さん。
そして――あの日、「戻ってこい」と言ってくれた仲間たち。
その存在が、今の自分へ確かに繋がっていた。
窓の隙間から、細い春風が流れ込んでくる。
頬をそっと撫でていく感触が、くすぐったくて少し心地よかった。
彰はゆっくり身体を起こし、机へ向かった。
机の上へ置いた評価表へ、もう一度視線を落とす。
体力A。
魔力C+。
実技C。
学力B+。
倫理A+。
まだ足りない。
けれど、土台はある。
なら――繋げればいい。
彰は紙へ手を置いたまま、指先へ力を込めた。
“剣”を振る腕。
心体育成流で叩き込まれた足腰。
授業で積み上げてきた“魔法理論”の制御。
今までは、それぞれを別々に振り回していただけだった。
ばらばらのままじゃ終わらせない。
全部を、自分の“型”へ変える。
(自己満だけでは終わらせない)
その言葉が、静かに胸の奥へ沈んでいった。
彰は背筋を伸ばし、ゆっくり息を吐く。
……それでも、すぐには眠気が降りてこなかった。
足先には、まだ熱が残っている。
意識だけが、どこか別の場所を探していた。
その時、不意に脳裏へ別の光景が浮かぶ。
道場の奥。
めったに開けない物置の扉。
その向こう――巌の遺品が眠っている場所だった。
(じいちゃんなら、今の俺をどう見るんだろう……)
ほんの一瞬、昔聞いた太い声の“響き”だけが耳の奥へ戻ってきた。
忘れかけていたはずの音だった。
彰は拳を握りしめる。
(……聞きに行こう)
椅子を引き、そのまま立ち上がった。
掌の奥へ残った熱は、まだ消えずに残っていた。




