妖精の恋人 11
妖精との出会いを語り、一緒に過ごした日々を振り返るケネスの瞳が、優しく細められる。
「彼女と会うようになって、世界は一変したんだ。僕を取り巻くすべてが鮮明に……、空から零れ落ちる光の一筋、ひとかけらの影でさえ色鮮やかに見えた。音は多彩に――雨や水、土の香、風の囁き。根から吸い上げた水を巡らせる、木々の脈打つ鼓動――。密やかに繰り返される葉の息吹まで、微細に聞き分けられるようになった。季節と共に巡ってゆく不可視の精霊たちの気配を……、生きている自然を身近に感じられるようになったんだ。僕にしか見えていない彼女の存在はとても不思議だったけれど、紡いだ詩を喜んで、とびきりの笑顔をくれる。いつだって隣に寄り添い、美しい声で詩を詠みあげてくれる彼女は本当に綺麗で、愛おしくて……」
真面目に働く傍ら、好きな詩の勉強をしながら彼女と過ごしてきたのだと、ケネスは言った。
故郷を出てたった独り。嬉しい時や哀しい時、郷愁の念に駆られた時にも寄り添い、笑顔でそばにいてくれる妖精はケネスの心の支えだったのだろう。
見知らぬ土地で、自分を支えてくれる誰かがそばにいてくれる。それがどんなに心強いことなのか、かけがえのない存在なのか。シモンは、身をもって知っている。
セオバルドとシェリーに支えられているシモンには、痛いほどわかる。
「だけど、もう一年以上前かな。段々と体調が悪くなっていって。僕の体調を気遣って町で話しかけてくれるお婆さんに、何かに憑りつかれているんじゃないかって言われた時には、まさか、って。でも、出会ったばかりで僕のことを知らない、彼女の姿を見ることのできる君が今、答えをもってここにいることが……」
ケネスの声が、上ずって震えた。
先の言葉を呑み下すように咽がこくんと動き、ケネスが口を引き結ぶ。
シモンは相槌を打つ代わりにベッドに両手を伸ばし、ケネスの片手に重ねて包み込む。伏し目がちに黙って、ほんの少し冷たく感じるケネスの手を温めながら、彼の気持ちが落ち着くのを静かに待った。
「体調を崩し始めてから、身体を起こしていられる時間はどんどん減っていった。……ここ最近は、特に。彼女と会った後は酷い疲労感で身体が動かなかった。気づいていたのに、目を背けていたんだ。きっと、何かの偶然で一時的なことだろう……って。でも、もう身体が軽かった時のことなんて思い出せないし、食事もあまり受け付けないんだ。……わかっている。僕はあまり長くないんだろう?」
自分の身体のことだから。そう力なく呟いたケネスの瞳が、静寂にも似た諦念に彩られる。
ケネスの疑念に対して、シモンは気遣う声音でやんわりと肯定する。
「今のままでは……」
両手で包み込んだケネスの手の温もりが、これ以上零れ落ちてしまわないように。シモンは、きゅっとケネスの手を握りなおす。
「でも、まだケネスさんにやりたいことがあるのなら……、ケネスさんが生きることを選んでくれるのなら……。僕は、そのお手伝いをすることができます」
「それは、どういうこと?」
ケネスに見つめられて視線を交わしたシモンは、伝えなければならない言葉を整理する。目を伏せて、わずかな間、逡巡する。
「……ケネスさんは、彼女と一緒にいることで、身体に無理が、……かかっているんです」
憂いと後ろめたさが、シモンの声を沈ませた。
妖精を心の支えにしているケネスに、彼女が生命力を奪っているのだとは、言えなかった。
ありのままに真実を伝えるのは、心が軋むように痛くて。
嘘を、吐いた。
「彼女の存在は、自然そのものだから……。彼女と一緒にいることで、ケネスさんは自然を身近に感じることができたのでしょう。……ただ、その力は身体に負担が大きいから。だから、自然を感じる力を彼女へ還して、今まで彼女と作り上げて来たものも無かったことにして。……彼女に、別れを告げることで、ケネスさんは命を繋ぐことができます」
途端に、ケネスの表情が苦悶に歪む。
瞳に色濃い悲しみを浮かべるケネスの口から零れたのは、深い嘆息。
「……そう、なんだ」
生き延びる可能性を示されても、それに飛びつくことをしない。
忍び寄る死を間近く感じながらも、妖精を失ってまで生き永らえたいとは、思えないのかもしれない。
ケネスにとって妖精は、それだけ大切な、失いたくない存在。
だから。
ケネスの気持ちを理解した上で、シモンは一歩踏み込んで、訊く。
「初めて僕が声をかけた時に、ケネスさんは『薄幸の牧師』に自分を重ねたんですよね……?」
シモンを衝き動かすのは、ケネスと向き合う『今』に悔いを残したくないという、利己的な感情。
「え?」
きょとんとするケネスに、シモンはできる限り穏やかに、やわらかな声音で語りかける。
「僕が『薄幸の牧師』は元気だと伝えた時に、ケネスさんはとても嬉しそうに、よかった……って言ったから」
死を厭い、生きようとするケネスが、未来へと繋がる希望を見出し安堵した、紛れもない彼の本心だったと思えるから。
シモンは、その時のケネスの笑顔を思い浮かべながら、垣間見た彼の心の一片に、問う。
「ケネスさんは、まだ、生きていたいのではないですか?」
はっとして表情を強張らせたケネスが、息を呑んだ。
驚愕、怯え、戸惑いといった感情の波に翻弄されるケネスの瞳が潤み、大きく揺らめいた。逃げ場を探すように焦点が定まらない。
声を発することを厭うように唇を固く噛み締めて、ケネスは黙り込む。
音が途切れ、深い水底を思わせる重々しい沈黙が、とっぷりと部屋を満たした。
泣きだしそうに眉尻を下げたケネスは、天井を仰ぎ、そっと双眸を閉じる。
「……未練なんてないって、納得したつもりで……。紡いだ詩が、書き留めてきたものが僕の生きた証だから、それが遺るのならって。でも……っ」
声を詰まらせ、口をつぐんだケネスは、自分自身を落ち着かせるように深い呼吸を繰り返す。
苦悩の表情で、心情を吐露する。
「本当なら、何も失いたくない。今まで通り詩を書いて彼女と過ごしていたい。そうして生きていきたい。そう思う僕は、強欲な人間なのだろうね。そして、それが叶わないのなら潔く諦めてしまえばいいのに、心のどこかで生きることを諦めきれない僕は……、酷い人間なんだと思う」
「……いいえ。そんなことは、ないです」
決して慰めや同情心からではなく、シモンは確信をもって、きっぱりとケネスの言葉を否定する。
妖精と共に在り、生きている自然を身近に感じられるケネスは、輝く命の力強さ、その儚さを知っているはず。
自然に心を寄せて慈しみ、生きとし生けるものの命を尊ぶ感性を持ち合わせていて、自分自身の命にだけ鈍感であるはずがない。
ケネスの命も、生きたいという想う気持ちもまた、尊いもの。
物思いに沈むケネスの瞳が、風を招き入れる窓に向けられた。
妖精の瞳と同じ、濃藍に染まりゆく空を、ケネスは切なく眺める。
「彼女と別れたら……。一緒に過ごした日々や彼女との思い出も無かったことに……、すべて夢のように忘れてしまうってこと?」
進むべき道を見失ったかのような弱々しく心許ない声が、ケネスから絞り出された。
答えを知らないシモンは、不安に駆られて背後に立つセオバルドを振り仰ぐ。
寡黙を貫くセオバルドは、冷徹な青い双眸でケネスを一瞥し、簡潔に言った。
「いいえ」
冷ややかな夜の微風がケネスの前髪を数本揺らし、気力に乏しい蒼白い顔を撫でていった。
ケネスは薄く零した溜め息を、澄んだ夜気に忍ばせる。
「彼女と会って、きちんと話がしたい」




