夏の始まり 6
紺碧だった空の端が白んで、夜と朝の境を曖昧にした。
辺りはまだ薄暗いが、カンテラがなくとも、姿が確認できるほどになった。
暦が変わって、最初の朝を迎える。
不思議そうに小首を傾げたセオバルドが、空になった籠を覗き込む。
「籠の中の花は、どうした?」
「これは――」
シモンは、摘んだ花をすべて家畜小屋で撒いてしまい、山羊たちが残さず食べてしまったことをセオバルドに説明した。
「――すみません」
声を沈ませるシモンに、経緯を知ったセオバルドは、頷いて空を仰ぐ。
「いや、気にしなくていい。それより……」
次いで、森へと視線を下ろして眺め、わずかに難しい顔をして黙った。
シモンも空を仰いで、はたと気づく。
既に陽の昇り始めた空には、燃えるような朝焼けが広がっていた。
(そっか、もう……)
ウィリアムの牧草地は広大で、森へ戻るにしても時間がかかる。
春の花草は、陽当たりの良い暖かな場所を好んで生えている。そうこうしているうちに、花草の纏う夜露は乾いてしまうだろう。
「今から森へ行っては、間に合わなそうですね。……戻りましょうか」
「花を摘みなおさなくて、いいのか?」
もう一度、花を摘みに行くことも厭わないといった姿勢で尋ねるセオバルドに、シモンは「いいえ」と首を横に振る。
籠の中身は無くなってしまったが、新しい花は必要ない。
しっとりと夜露に濡れたサンザシの花を見つめて嬉しくなったシモンは、声を弾ませる。
「先生に貰ったサンザシの花が綺麗に咲いているうちに、飾りたいんです」
楽しかった一夜を振り返りながら、扉に飾ったサンザシの花を眺めていたい。そんなふうにシモンは想いを巡らせる。
シモンがふわりと顔を綻ばせると、セオバルドもつられるように頬を緩めて、「そうか」と柔らかに相槌を打った。
ウィリアムの農場を離れて、セオバルドと共にシモンは、帰路に就く。
祭りの当日とあって、町は夜が明けたばかりであるにもかかわらず、人で溢れかえり喧噪に満ちていた。大通りには馬車が行き交い、花を摘んで家路を急ぐ人や、店に飾りつけをする人々が忙しく動き回っている。
普段の穏やかな朝が嘘のように、人々の熱気が夜明けの冷たい空気を温める。
祭りの雰囲気に当てられ気分を高揚させたシモンは、いそいそとしてすれ違う人の様子や、飾りつけをされる店を、きょろきょろとして眺める。
「あっ」
脇を擦り抜けていった見覚えのある人物に、シモンの視線が吸い寄せられて釘付けになった。
「あら、シモン」
シモンの声に気づいて足を止め、振り向いたのはパン屋の奥さんだ。
「おはようございます」
「おはよう……、まぁ!」
笑顔で挨拶するシモンから、サンザシの花へ。視線を流したパン屋の奥さんは、驚いたように目を見開き口許に手を当てた。
物言いたげに、おいでおいでとシモンに手招きをする。
「道の脇で待っているから、行っておいで」
隣を歩いていたセオバルドは小声で囁き、素知らぬ顔をして、すっとその場を離れた。
パン屋の奥さんは不思議そうな面持ちで首を傾げ、人の流れに呑まれたセオバルドに視線を投げかける。
「あら? 見ない子ね。もしかして、牧師さまの弟さんか、ご親戚?」
「え、えぇ? ……まぁ、そんな感じの……?」
目を泳がせ曖昧に答えるシモンに、パン屋の奥さんは朗らかに親しみやすい笑みを浮かべた。
「いいんじゃない? 牧師さまのお見舞いでしょ? ――それよりも」
シモンの抱えるサンザシに目を移して、パン屋の奥さんは、すぐに話題を切り替える。
「この時期に、それだけ見事な花を咲かせたサンザシを見つけるのは、大変だったでしょう?」
「まだ花を咲かせるのには少し早いのに、……珍しいですよね」
自分で取ってきたものではないが、貰った花を見事だと褒められたシモンは、はにかんで答えた。
うんうんと頷き、目を輝かせたパン屋の奥さんは、ぐいっとシモンに顔を近づける。
「で? 誰にあげるの? 今日ならみんな花を持っているから自然に渡せるものね。そのためにわざわざ花の付いているサンザシを探したんでしょ? シモンも、もう十四歳だものね」
「はい?」
パン屋の奥さんの遠回しな物言いが理解できずに、シモンはきょとんとして小首を傾げる。
笑みを堪えたパン屋の奥さんの囁く声が俄かに華やいで、一段高くなる。
「だって、サンザシの花に縁のある有名な詩。……ほらっ」
すべてわかっているのだと言わんばかりに、パン屋の奥さんはシモンに答えるよう促す。
「……詩、ですか? 花言葉ではなくて?」
祭りに欠かせない大事な魔除けの木だから、それなりに知っている。
花言葉であれば『希望』、だとか。
けれど、サンザシのでてくる詩が、思い浮かばない。
記憶を探り、宙に視線を彷徨わせて考え込むシモンの顔を、パン屋の奥さんはそわそわとして覗き込む。
「とぼけちゃって! サンザシの花束を送るのにぴったりな――」
焦れたパン屋の奥さんは、内緒話をするようにシモンの耳許に顔を寄せた。
ひそひそと朗読された詩と、こっそり添えられた言葉に、シモンは大きく目を瞠る。直後、全身を勢いよく血が巡り、火照る。
シモンの頬が上気し、耳まで赤く染まった。
パン屋の奥さんは探る眼差しをシモンの瞳にぴたりと定め、悪戯っぽく笑う。
「誰なの?」
誰にも言わないから、教えて? と密やかに尋ねる。
「えぇっ!?」
不意打ちにも近い衝動と驚きに、狼狽えたシモンは、上半身をわずかに仰け反らせた。
パン屋の奥さんが、シモンに好きな異性ができたのだと勘違いしているのだとわかり、驚いた勢いのままに否定する。
「ち、ちが……っ! 僕が、誰かに渡すために用意したものじゃなくて……。も、貰ったんです! あぁ、あのあの……っ! 男の人からっ!」
詩を絡めて花を贈る相手もいないし、知りませんでしたから! と、シモンは前のめりになって訴える。
「だから、そんなに深い意味はないんです!」
「え~、そうなの? でも……」
眉尻を下げて、ものすごく残念そうなパン屋の奥さんに、シモンはサンザシの白い花の陰に熱を帯びて赤くなった顔を隠して、力説する。
「間違いなく、そうですから……!」
サンザシをくれた相手は男性だが、シモンは少年なのだから、詩の内容には当てはまらない。
絶対に違うのだと、シモンは確信を持つ。
パン屋の奥さんに会釈をして、そそくさとその場を離れたシモンは、少し離れた場所で待つセオバルドと目を合わせた。
違うとわかってはいても、なんだか気恥ずかしい。
大通りを行き交う人々とぶつからないよう注意する素振りで、シモンはセオバルドから、ふい、と視線を逸らす。
立ち止まると、腕に抱えたサンザシの白花が香り立ち、甘やかな香りが胸を満たした。
パン屋の奥さんの囁く声が蘇り、耳の奥をくすぐる。
――愛した女性を、一途に想い続ける詩でしょ?
治まらない胸の動悸に、ふわふわと身体が浮き上がるように感じたシモンは、軽く瞼を閉じて大きく息を吸い込む。
ほぅ……、と深く息を吐き出して、身体にこもる熱を逃がした。
(ない、ない)
胸の内で繰り返すことで、シモンは心を落ち着かせる。
セオバルドは雇用主で、詩を絡めて花を贈られるような特別な関係ではないのだから。
(そもそも、男同士だから……!)
同性の認識であるはずだからと、シモンは自らに言い聞かせて納得する。
きっと、セオバルドは詩のことを知らなかったのだろう。
もしくは、少年であるシモンには当てはまらないのだと、まったく気にしていなかったか。
だから。
シモンが花を好きなことに気づいたセオバルドは、この時期に珍しく早く咲いたサンザシのことを知って、束ねてくれただけ。
冷静になって整理し、考えてみればわかることだった。
知らなかった恋の詩を聞かされて動揺してしまった自分に、シモンは微苦笑する。
すっかり平静を取り戻したシモンは、人の流れを避けて大通り脇で待つセオバルドと再び目を合わせ、彼の許へと走り寄った。
パン屋さんの奥さんの言っていた詩は、ロバート・バーンズの「Highland Mary」を参考にしました。
「ハイランドのメリイ」の詩は、サンザシの花言葉の由来にもなっているそうです。




