幕間 ~苛立~
――ふわり。
机上に置かれた白磁の香炉から、儚い白煙が細々と立ち昇る。
やわらかな白煙は、燭台に点されたほの明るい炎に照らされて、薄らと宙を漂う。
清々しく爽やかでありながら、どこかほろ苦い……。深みのある独特の香りが、セオバルドの部屋を満たしていた。
銀色の妖精猫は、机上の隅に腰を下ろし、目を細めて香炉を眺める。
この香は、記憶や思い出を強めるといわれるもの。
最古からある、香の一つ。
(ローズマリー、ね)
自室に戻ってきたセオバルドが、香炉とその隣に置かれていた皮紙の前に立った。
おもむろに目を落として、皮紙に書き込まれている文字を追う。
すっと目を細めたシェリーは、小首を傾げて訝しむ。
シェリーの長い尾が一度高く持ち上がり、ぱたん、と机を叩く。
教会に戻り、再び白いリボンで首に結わえられた銀の鈴が、ちり……と小さな音を立てた。
「ねぇ、セオ」
瞳を持ち上げ、皮紙からセオバルドに視線を移したシェリーは、心の底に蟠る疑心を、彼にぶつけた。
「その皮紙の匂いに、覚えがあるのだけど」
文字を追うことで微かに動いていたセオバルドの眼球が止まり、被せられていた睫毛が、ぴくんと震える。
「……シモンには?」
「言っていないわ」
匂いは本当に微かなもので、確証もなかったから。
それに、マシューとローラから預かった皮紙を、すぐにセオバルドに渡したであろうシモンは、それきり皮紙の出所について気にするふうでもなく、シェリーに尋ねることもしなかった。
喩え、皮紙の匂いがシェリーの知るものだとしても……。
セオバルドがシモンに伝えていない時点で、シェリーの口から伝えるべきでない『余計なこと』に相当する。
顔を上げて、セオバルドはシェリーの紫の双眸をじっと覗き込む。
ほんのわずかな嘘をも見逃さず、暴こうとする冷徹な青い瞳が、鋭く射すくめるようにシェリーを見据えた。
何も疚しいところのないシェリーは、毅然とした態度で、真っ向から見つめ返す。
「……嘘は、つかないわ」
人間じゃあるまいし。
シェリーは、言外にそう仄めかせた。
――妖精は、嘘を吐かない。
言いたくないことには、ただ口をつぐむだけ。
す……っ、とシェリーから目を逸らしたセオバルドは、何事もなかったかのように本棚へと歩み寄ると、一冊の厚い写本を取り出す。
それを、皮紙の隣に置いた。
手を触れずして写本の表紙がゆっくりと開き、はらはらと頁がめくれていく。
めくれた頁に煽られ、部屋に薄く立ち込めていた香炉の白煙がほのかに揺れる。写本独特の匂いが、ローズマリーの香りを掻き分けて、シェリーの鼻孔に届く。
(ああ、やっぱり)
皮紙から嗅いだ匂いは、この写本のものと酷似していた。
この部屋で過ごすことが多く、セオバルドが写本を読む時に隣から覗き込むことのあるシェリーだからこそ気づいた、本当に些細なもの。
ひとりでに頁のめくれていた写本が、まるで意志を持っているかのように、ぴたりと動きを止めた。
さっと視線を走らせ黙読すると、写本の左右の頁に記されている内容が、隣に置かれた皮紙のものと繋がる。
間違いない。
孤児院に寄贈されたお伽噺の本に挟まれていた皮紙は、この写本から抜き取られた一枚の頁だ。
写本に目が釘付けになったシェリーに、セオバルドは珍しく自発的に、説明をはじめた。
――彼なりの、弁明だったのかもしれない。
「この写本は、異界との『扉』について書かれたもの。元は私の師のものだ。ここから一枚を抜き取ったのは、かつての相弟子だろう。……書き込まれた筆跡に覚えがある」
「筆跡に? 覚えるほど親しい間柄の?」
釈然としないシェリーは、訊き返す。
皮紙の隙間に訳として書き込まれた細かな字――。それらの筆跡は、きっちりと大きさの揃った読みやすいもので、特に癖のある文字ではなかった。
筆跡なんて、比べるものがなければ判別できないだろう。もしくは、記憶に残るほど頻繁に目にしていたものか。
セオバルドはかつての相弟子だと言ったが、該当する人間をシェリーはひとりしか知らない。
以前セオバルドを訪ねて教会へやってきた、ユアンという青年。
だが、筆跡の主がユアンであれば、曲がりなりにも彼と会ったことのあるシェリーの前で、『かつての相弟子』とは言わないはず。
だからきっと、筆跡の主はシェリーの知らない人間。
シェリーに答えず、セオバルドは孤児院から持ち帰った皮紙を、写本の上に丁寧に伸ばして置いた。
糸で閉じられた写本から断ち切られたのであろう部分を合わせ、術を唱えながら指で触れる。
セオバルドの指が触れた箇所が、ぽぅ、と淡い光を点した。
繋ぎ目をゆっくりと指が滑り、写本に細い光の軌跡を残す。
光がとけて消えると、写本と皮紙は、違和感なくひとつのものとなっていた。
既に、シェリーがどんなに目を凝らしたところで、切断されていた箇所を判別することは不可能だった。
(修復……。でもこれは、厳密には物にかけられた幻惑)
焚かれた香は、この為のもの。
物には、存在してからの記憶が刻み込まれていく。
その記憶を呼び覚まし、物に破損する前の状態であることを錯覚させ、信じ込ませ、不可視の魔力で補い繋ぎ止める。
物は、壊れたことを『忘れて』しまう。
描かれるイメージや想いに魔力を添えて形にする、高度な魔法。
部屋を満たすローズマリーの香りは、それをより強固にする為のもの。
セオバルドが、孤児院で壊した扉や割った窓を修復してみせたのは、これと同じ原理。
一時的な応急処置だと言ったのは、ある程度の衝撃が加わることによって、物が壊れていたことを『思い出す』から。
治癒の術は、対象となるものの生命力、血肉を基に再生される。
しかし、治癒の術とは違い幻術による修復の術は、無機物の記憶を引き出して元の状態に戻すもの。
至難の業だ。
皮紙を収め、写本は本来あるべき姿へと戻された。
一区切りがついて、セオバルドの唇から吐息が滑り落ちた。
安堵というには短すぎて、……感情を整えるために吐き出されたような細い吐息だった。
「……最初に交わした約束は、覚えているだろうか」
夜の静寂が降り注ぐ部屋で、セオバルドの低い声がシェリーの肝に響く。
――忘れるわけがない。
立場を再認識するよう促されたのだと気づいたシェリーは、わずかに小首を傾げ、セオバルドの顔を覗き込む。
シェリーは、セオバルドが自らの意思でそばに置くのだと決めたシモンとは、違う。
そばにいさせて欲しいと願い、けれど一度は断られ、情報を集めて渡すから……と頼み込んだ。
セオバルドは、要求を受け入れる代わりにいくつかの条件を出し、シェリーにそれらを守ることを約束させた。
約束を反故にしたら、任を解くとも。
それはつまり、ここから出て行くということ。
「皮紙が貴方の所持する写本の一部であったことを、シモンには伝えるな、ということかしら? ああ、それとも――」
もう一つ。
思い当たる節のあるシェリーは、感情をしまい込んでしまったかのようなセオバルドの顔を見据える。
孤児院について、すぐのこと。
すぐに、シモン本人に「無理だ」と打ち消されたのだが。
「――あの子に、孤児院へ残るよう勧めたことに対する、警告かしら」
不満がぶり返し、声音に棘が含まれる。
セオバルドは手許から視線を流し、温度を感じさせない冷ややかな瞳でシェリーを一瞥した。
「両方だ」
孤児院に赴く前。
村に人攫いが出ることと、子供が数人行方不明になっていることは事前に情報として得ていた。
セオバルドは、自分がそばにいられない時はシモンについているようにと、シェリーに言い付けたのだ。何か変わったことがあれば、すぐに報せるように、とも。
過保護だというシェリーの意見は、受け入れられなかった。
……鈴を。
鈴を外してまで同行するよう言われたことも、気に食わなかった。
どうしてシェリーがこの鈴をつけているのか、セオバルドは知らない。
シェリーがそれを口にしたこともないが、セオバルドに訊かれたこともない。
シェリーを見ているようで見ていない、セオバルドの無関心な瞳にふつふつと苛立ちが湧く。
苛立ちが、シェリーの心を尖らせる。
セオバルドが他に関心を寄せないのは、彼が自身のことを詮索されたくないから。彼の素性であり過去の出来事、心の領域にまで踏み込んで欲しくないのだと、シェリーは理解している。
深く触れられたくないだろうことがわかっていて、シェリーは踏み込んだことを冷たく尋ねた。
「……どうして貴方は、皮紙のことをシモンに言いたくないのかしら」
セオバルドの師の写本から、彼の相弟子が皮紙を抜き取った。
皮紙が相弟子に抜き取られたことを知っているセオバルドも、その一件に関わっていたのではないかと、シェリーは勘ぐる。
シモンに言いたくないのなら、尚更。
「悪魔を召喚する方法の記されている皮紙が、貴方の相弟子に抜き取られた理由を知っているの? 相弟子は、その皮紙を使ったのかしら……?」
挑みかける物言いで、シェリーはセオバルドを軽く睨めつける。
矢継ぎ早に尋ねる。
「相弟子に抜き取られた皮紙が、孤児院を経由して貴方の手許に在る写本へと戻ってくる。それは……、偶然?」
様々な事象には、原因と結果がつきまとう。
原因となる出来事があって、なんらかの過程を経て、結果に至るものを必然だとシェリーは考える。
対して偶然とは、まったく予期できないもの。
しかし、結果に至るまでの原因や過程が隠されているのなら、それは偶然を装った、……必然。
――複合的な要因からなる、因果だ。
「偶然だ」
ぱたん……っ、と。
シェリーが次の言葉を紡ぐよりも早く、セオバルドらしからぬ乱暴な所作で、写本が閉じられた。
不必要に大きな音を立てられたそれは、まるで。
元の形に戻った写本を閉じることで、すべての出来事は終わったのだと、示すかのようだった。
閉じられた写本に手を翳したセオバルドは、静かに術を唱える。
封じの術をかけられた写本は、応えるように一度、ほのかな光を発した。
これで、セオバルドが封じの術を解かなければ、誰も写本を開くことはできなくなった。
「……寄贈されていた本に紛れ込んでいた皮紙は、孤児院とはまったく関係のないもの。偶然見つけたから、写本に戻しただけ。シモンに言わないのは、彼には関係のない私個人の問題だからだ」
本棚へと写本を戻すセオバルドは、にべもなく言い放つ。
ただ、その声音は部屋を満たすローズマリーの香りと同様に、微かにほろ苦く。
言い切ることで、そうであると自らに言い聞かせるような響きがあった。




